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人にバイバイするタイミングが分からなくなってしまったボランティア活動日誌


こんばんは、Keigo Nozakiです。
今日は雨だったので、一日中家の中で何をするでもなく、ただいました。

さて、そんな私ですが昨日数年ぶり(高校生以来)にボランティア活動というものに行ってきました。

「ボランティア活動して偉いねぇ」って言われたいわけではなく、行った理由はとにかく「何かしたいという衝動」のもとボランティア活動に参加したのでした。

今私は無職なわけですが、無職の私からしたら決められた時間に決められた場所に行くって、すごく高等なことなのではないか?と思うわけです。
そうした点で昨日の私はすごかったように思います(偉いと思っているわけではありません)。

社会人の人や学校に行ってる人からしたら何をそんな当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれませんが、それを当たり前じゃなくてすごいこととして認識しているほど、今の私と社会とには溝があいているのです。

さて、今回行ったボランティアはアートを用いた地域づくりに関するボランティアの手伝いです。具体的にボランティアの内容を説明すると以前使っていた公共施設の玄関にアート作品を置くための清掃でした。

(私は大学の時に八戸の工場にプロジェクションマッピングをするアート活動の事例を勉強していて、企業がアート作品にどう関わるのかを少し勉強したことがあった)

最初にメンバー(私含めて6人)の自己紹介があり、そのあと今後行われるアート事業の内容とその日することを教えてもらいました。

2時間の清掃を予定しており、私以外の参加者はそのアートプロジェクトに何らかの関わりのある人たちで、完全に部外者だったのは私だけだった。

だけどもかなり面倒見のよい方たちで、コミュ障な私に作業の合間に話かけてくれた。なかには私と同じ歳の男の子がいて、共通の友人がいることが発覚した(田舎の世間は狭い)。

まあ給料の発生する仕事ではないので、和気あいあいと雑談しながらお掃除した方が楽しめたなぁと、帰ってきて思ったわけですが…

いつも体を動かさないので、ボランティア後は少し疲れがあったが、同時にやってやった感が強くあった。

活動自体は昔使われていた今は一般的に入ることもできない建物に入れたし、無職のリハビリもできたし、おーいお茶もらえたし(ちょろい)、無料で施設を利用できる日を教えてもらえたしで、むしろ自分にプラスなことしかなかった気がする。


そして活動の最後に集合写真を撮った。
どうやらその写真がインスタに上がっているらしいが、絶対変な顔してるから私はみたくない(笑)



最後にこのnoteのタイトルの話をしようと思うが、最後写真を撮った後にしゃべる時間があって一応解散っぽい流れではあったが、私もその場にまだ残っていた。傍目から俯瞰してみると活動自体は終わっていて身内で喋っているのだから部外者の私は真っ先に帰った方がいいだろう。しかしなぜか帰るタイミングを掴めないでいた。
いや、たしかにそれじゃあこれで終わりますという話もあって解散してもいいはずだ。なのになぜかまだ帰るという選択肢があるのに、私はその場にとどまった。

しばらくぼけーと、「あー、帰るタイミング失ったな」と思っていた。
そしたら参加してる人が帰るということだったので、私もそれに合わせて「今日はこれで失礼します」といって帰ることになった。

しかしこの参加者が帰ると言わなかったら、多分私は最後までその場にいた自信がある。

なんか人とバイバイする(別れる)タイミングってむずくないか。電話とかも切るタイミングが難しくて向こうが切るまで電話を繋いでしまう。


何が私をとどまらせる?
終わらせるより長引かせたい、現状維持したいだけなのかもしれない。

ずっとその人のことを考えることも大事なことではあるものの、途中でなんかキモくないかと自分を俯瞰してしまう。

この間大学の先生のやっている講座にお邪魔させてもらったが、その時も車に乗る最後まで先生と一緒にいた。
あの時も帰るタイミングを失っていたわけだが、なぜ私はそういうときダラダラととどまり続けるのだろうか。

この違和感がなんか大切な気がするんだ。

何が私をとどまらせる?

Keigo Nozaki

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