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【シリーズ:居場所と人のつながり(1)】カードゲームから居場所と人のつながりを考える

こんにちは、Keigo Nozakiです。前回「つづけること」について書いたので、せっかくだから2日連続で投稿をしようとしている人です。
(今年も村上春樹がノーベル賞受賞を逃して個人的にとても残念でした…)
毎度のことながら、文章が下手くそですが、読んでくれると嬉しいです。うまく文章を書く練習をしなければいけませんね。

さて今回の記事は、「居場所と人のつながり」というシリーズのひとつにしようと思っています(もっといいタイトルを思いついたら後ほど変えるかもしれません)。
今回は第一回目として、私がはじめてなんとなく居場所があるなぁと思えた場所について語ってみようと思います。


私がカードゲームをはじめたのは、小学校4年生の頃でした。家の近くの公園でバザーが開かれていて、そこではじめてカードゲームに出会いました。
私はそのカードゲームが人気なのかもよくわからず、とりあえずキラキラしてるからかっこいいと思って買ったのだと記憶しています。


当時引っ越したばかりで友達がいなかったので、私は誰かと対戦をするのではなく、ただただカードを持っている状態でした。

しかし土日になると前に住んでいた場所に帰ることができたので、そこの友達になんとなく「デュエルマスターズっていうカードゲームがあるの知ってる?」と聞いてみたら、「来週持ってるから勝負しよう」と言ってくれました。そして翌週いつも集まる公民館でその子とカードをして遊んだことを覚えています。
(分かる人にはわかると思いますが、私がデュエルマスターズをやっていた時期はボルシャックNEXが出た弾からガイギンガというカードが出た弾までです。超次元が出たときが面白さの全盛期だったと思う。キリコンボと紅蓮ゾルゲは最高だった…)

しばらくして引っ越した先の学校でも友達と呼べる人ができて、たまに集まってカードをするようになりました。カードには勝ち負けがあります。負けると悔しいし、勝つとうれしい。いつの間にか私はカードゲームに熱中していました。生まれて始めて熱中できるものがカードゲームだったのです。

6年生の後半ぐらいではじめてカードショップの大会にでるのですが、それまで同い年や上級生、下級生の子としかカードをしてこなかったのではじめてそこで大人の人とカードゲームをすることになりました。

今考えると小学生が大人と一緒になって同じ場所で同じルールのもと、何かする(ここではカードゲームをする)ってすごいことだと思います。
カードゲームをする場所はときに大人との社交の場になる。ときに勝負の場であり、ときにカードを交換する場になったり、アニメや漫画の話を学校の友達以外の人とできる場所になる。

私にとって(またカードゲーマーにとって)、カードスペースは家と学校との間にある第三の場所(サードプレイス)であった。サードプレイスは、社会学者のレイ・オルデンバーグが提唱した言葉で、コミュニティ(人が集まる場)について語るうえで様々な議論の種とされている。最近では企業がこうした場を提供しようと似たような文言を使っていたりもする(スタバ、ダイハツのアトレーなど)。サードプレイスについてはまた回を経て、その概念について考えてみたい。

ここで言いたいのは、私自身はこのサードプレイスであるカードスペースで、学校や家での役割から開放された一個人だったということである。人は様々な仮面(ペルソナ)をつけている。職場で人と接するとき、学校の友達と接するとき、家族と接するとき、私たちは同じように接しない。それぞれの人との関係性にあった仮面をつけて接する。これは作家の平野啓一郎が「分人」と呼ぶものであるが、私はこのサードプレイスで素の自分で居れた気がする。

サードプレイスとしてのカードをするスペースは、カードをする以外にも悩める私の相談場所であったし、学校に行けないときの逃げ場でもあった。ここで学校では習わない多くのことを学んだ。いいことも悪いことも含めてカードを通じて、他者との社会に関わってきた。

残念ながら今ではカードを集まってする場所は以前と比べてかなり少なくなってきている。しかも私は高校に入るとカードゲームをやめた。

しかしここまで私はカードゲームの良いところを述べてきたが、結局のところカードゲームはマネーゲームだ。お金をいっぱい持っていたほうがいいカードを手に入れることができる。そうした点で子供よりも大人の方が有利だ。
大人に暴力で子供が勝つことはなくてもカードでなら勝てるし、そんな話はとても魅力的だが、カードを買って、勝ってもまた時間が経てば別のカードが強くなって勝つためにはそのカードを買わなくてはならないというループに入ってしまう。
資本主義の縮図としてのカードゲームはたしかにその時々の価値を調べ、同等のものと交換したり、売却したりするという点で株のセンスを養うのには適しているかもしれない。
誰が言ったか忘れたが、株式のことをその時々の市場のランキングに過ぎないと言ったように、カードの価値もランキングのように市場で値動きする。このカードゲームのシステムには、誰かが得する一方で誰かが損をするというシステムであることは否定しようがない。

私は当時カードを私有することしかできなかったが、今なら彼らが持っていたカードを共有してデッキを作っていた意味がわかる。今私たちに必要なのは、自分の私有するカードを解放し、彼らと自分がごちゃまぜになったデッキを作っていくことなのではないだろうか。デッキの中のカードは戦ってみるまでわからない。どんな人がいるかわからない。そんな不確実なデッキでもデッキが0枚にならない限り戦える。

まずは手始めに私の私有するものをデッキにいれてみることにしよう。


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