DaiGoの炎上問題から敬意を考える
敬語は、誰かを立てるために使うものです。それは、その誰かを責めないという側面もあります。逆にいえば、自分の持つべき責任はもちろんのこと、その誰かの持つ責任をも引き受けるということです。
例えば、「説明する」という一つの動詞を使って、敬語と責任の所在を説明しましょう。
「ご説明した」と言うならば、説明の責任は説明した側にあるという意味になります。その説明が通じず、相手が「お分かりにならない」ならば、分からないことを責めることはできません。自分の責任において説明の仕方のほうをこそ改めるべきと考えるのです。
無知の知
先日、庵忠名人が記事(『無知の知』2021/8/15)の中でDaiGoを取り上げ、教養教育や道徳教育の欠如など4つの問題と「無知の知」について説明してくださっています。
私は、何度も、自分が間違っていると思う人を貶めたいと思ったことがあります。実際に貶めるようなことを言ったことすらあります。
それは一種の、シャーデンフロイデだったかもしれません。
でもそれは、一時の快感と引き換えに自分から目を逸らす行為でした。目を逸らさざるを得ない自分は卑しくみっともない存在で、目を逸らせば逸らすほど、そのみっともなさは醜悪さを増していきました。
庵忠名人が『小論文を学ぶ』からDaigoの炎上問題を解きほぐしたように、私は、敬語の視点から、この問題を取り上げてみたいと思います。
ホームレスの命はどうでもいい
それでは、本題へまいりましょう。
メンタリストDaiGoの発言が炎上しましたね。路上生活者や生活保護受給者の命を軽んじた発言に怒りを感じた人も多いことでしょう。
自分の言動に責任を持てないのは子どもです。本当に子どもであれば迷惑のかかる範囲も小さく、せいぜい迷惑をかけた先に親が謝って回れば事は収まります。しかし、大人になって自分の言葉に責任が持てなければ、その分、周囲にかかる迷惑も増大します。
それをDaiGoは、炎上しても自分のYouTubeを見ているユーザーに限られると思っていたのかもしれません。
兄がおかしい。ごめんね
一方で弟の松丸亮吾は「論破するまで怒り続けます」とし、兄の発言に自身が謝罪しました。
怒る人々の責任を自分が引き受け必ず全うすると約束したのです。事実としては問題発言への責任はなく、「お門違いだ」と言ってしまってもよいことなのに、です。
敬語としては、文末の「ます」ぐらいしか使っていませんが、敬語ではなく約束するという行為(=自分が責任を引き受けるという宣言)で、怒る人々を立てたことになるのです。
個人の発信は個人の問題に収まらない
言行一致という言葉があります。
冒頭の例に戻れば、「ご説明します」と言いつつ、相手のことを「物分かりが悪い」と罵れば、これは言っていることが矛盾しているので、信用できない人だという評価にもなりかねません。
亮吾の言葉やDaiGoの謝罪が口先だけなのかどうかは、今後を待つ必要がありますが、DaiGoが自分の言動の責任を小さく見積もっていたことは、SNSを含む、情報を発信する全ての人が自戒すべきことではないでしょうか。
ムール・ガイさんは「思想の如何を問わず」と書いています。
DaiGoが多くの人を傷つけたように、それは時に人を自殺に追い込む力をすら持つことを、学校で、芸能界で、私たちは既に経験しています。
敬語は、敬語を使わないという選択も含めて人間関係を表します。たとえ自分より目下であったとしても、限りなく下に見てよいわけではありません。実際以上に目下とみなすことは、失礼な行為であり、相手を傷つけることです。
もしDaiGoが社員なら
もしDaiGoが職場にいて同じことを言ったなら、個人的にLINEができるような関係を持っている同僚であれば「ちょっと気を付けたほうがいいよ」などと進言するかもしれませんが、それほど親しくない同僚であれば、口をつぐんでいる人がほとんどではないでしょうか。
それを聞いた取引先も、せいぜい言うとしたらこんな程度です。
「御社の社員がどのような発言をなさろうと、弊社が口を出すような問題ではありません。ただ、ちょっと弊社とは考え方が異なるようなので、今後のお取引は考えさせていただきます。」
このような影響も考えられるので、DaiGoが会社の看板を背負った状態であちこちに聞こえるように同じことを言うなら、彼の上司が慌てて飛んできて何としても黙らせることでしょう。
そして、もう一方で、社員DaiGoに言う人がいるとすれば、それは「客」です。
客は会社や社員に対して指示命令権はありませんが、言いたいことを言う権利を持っています。
しかしだからといって、なんでも言ってよいのでしょうか。
そもそも、DaiGoの言動について意見している人の多くは、DaiGoのファンやフォロワーを含む「客」なのでしょうか。
私には、 相手がなんらかのビジネスを行っているというだけの理由で自分を「客」のように捉え、何でも言う権利を持っていると思っている人がいるように思えてなりません。
少数の消費者が正論を掲げ、賛同しない者はDaiGo側とみなすというような暗黙の同調圧力がそこにほんの少しでも、ありはしないのでしょうか。
少なくとも、この状況下で、DaiGoを擁護することと、DaiGoを非難することとどちらが簡単かを考えてみてください。
投稿は誰かを物理的に殴るわけでもありません。匿名での投稿を、正義という後ろ盾を得て、他家のインターフォンを鳴らしておいて逃げる”ピンポンダッシュ”と変わらない子どものイタズラのような気軽さで行ってはいないでしょうか。
DaiGoのYouTube内での発言が個人的な問題に収まらないように、SNS上で発言する全ての人の発言にも、同じ責任があります。
DaiGoが変わることは問題ではない
女性蔑視発言を行った森喜朗は、その後も「女性というにはあまりにもお年」などと発言し、変わってはいません。私たち、そして炎上に加わった人たちが森氏に対して望んでいたことは、本当に解任だったのでしょうか。解任は、森氏に理解してもらい事を伝えるための、もっともよい方法だったのでしょうか。
彼には彼の生き方、考え方があります。どんな生き方をするにせよ、最終的には、その人の人生に他人は口出しできません。
それは、DaiGoに対しても同じです。
今回、われわれがやりたいことはDaigoを社会的に抹殺することなのでしょうか。泣いて謝罪するDaiGoをうそ泣きだと罵倒することなのでしょうか
きっとそうではないはず。
人が罪を犯したとき、日本人は警察に行きます。個人的な報復はしません。そんなことをしたら、社会が混乱してしまいます。
それなのに、SNSには、自分が司法機関であり、警察であるかのように勘違いさせる力があるようです。
DaiGoのことは、彼自身が考えればよいことにすぎません。
あなたはどう変わりたいのか
大切なことは、DaiGoが変わることではなく、自分がどう変わるかということですよね。
DaiGoの発言を聞いて、あなたは何を感じたのでしょうか。
そして、どうしたいのでしょうか。
路上生活者の命を大事にしたいなら、あなたにはそれができます。
生活保護の受給権を守りたいなら、守るための行動をしましょう。
彼に考え方を改めてほしいなら、なぜそのような考え方に至ったのかどうすればそのような考え方から離れることができるのかを考えましょう。
彼の発言を失敗だと思うなら、自分の発言に注意しましょう。
その発言をやめてほしいなら、「やめてほしい」と静かに伝えれば済むことです。そのときには、相手の名誉を棄損しないように配慮しましょう。
それでもやめてくれず、自分が不利益を被るなら、そこから法的手段に訴えることを考えましょう。
私はDaiGoのファンでもなければ知り合いでもありません。
だから、彼を弁護するつもりも非難するつもりもありません。
ただ、私の人生に現れた出来事の一つとして受け入れ、自分の人生をより良いものにするきっかけとしたいと思うのみです。
敬語は、自分を取り巻く人間関係を受け入れ大切にしつつも、自分を守り他に流されず生きるためのものです。
これから、問題発言や問題を起こす人たちはいくらでも出てくるでしょう。そのような人たちに振り回されることなく、自分のできる範囲で世界を幸せにし、人生を充実させることにエネルギーを割いてほしいと思っています。
それでは、また。