信教の自由を認める信仰とは何か②
前回は、伝道と信教の自由を併存させる在り方を考えてみたいと書いた。
反セクト法は思想内容には触れず行為で判断するので、信教の自由には触れないという。しかし信徒は教義に基づいて行動するのだから、教義に踏み込まない基準は本質的対策にならないと考える。
例えば、旧統一教会が信徒から多額の献金を要求し、それに応えるのが信仰心の証であるとされるのは、「万物復帰」の教えがあるからだ。
この教えがある限り、教団はお金が欲しくなればいつでもこの教えを振り回せる。
全てのお金を神の側(=教団)に取り戻すのが、この世を超越した真理である。ただし、サタンに支配されたこの世の法律が邪魔をするから、そのサタンの目をかいくぐって行わなければならない。
このように考えるなら、どんな法律を作ろうと、いたちごっこになることは目に見えている。
宗教が問題を起こす要素から逆算する
旧統一教会ばかりが騒がれているが、問題のある宗教団体はそこかしこにある。繁華街で新聞(※)を配っている宗教団体や、Facebookに流れる広告でも仏教講座と謳いながらかなり怪しいものもある。また、全体としては問題なくても、その一部がカルト化することもある。一般企業でも、ブラック企業ではないがパワハラ上司がいる場合と、組織全体で漆黒のブラック企業である場合があるのと同じだ。
(※新聞を配ることがカルトだと言いたいわけではもちろんない。新聞には教団名も書かれており、その点では旧統一教会のような勧誘手段の問題はない。詳細は以前の記事を参照のこと)
まぁ素人が考えるのだから、あまり細かいところまで詰めても仕方がない。
これをたたき台ぐらいに考えていただければと思う。
まずは、献金問題について。
献金について
旧統一教会問題で、最も大きな問題が献金である。
「4500万・3500万・2100万、この3つの数字から何を選びますか?つまりあなたの真心を持っている財産の中から天に捧げてください。それでご先祖さまが救えるんです」という誘導でも、本人が金を出したならそれは自由意志にもとづく献金だと統一教会は考える。
一般の感覚なら「はぁ!?」と言いたくなる献金システムだが、そうはいっても、恐らくこれは各宗教団体の既得権益を脅かす触れられたくない問題だろう。
まずは、(これすらも嫌がるだろうが)やはり領収書の発行からということになるのではないだろうか。
高額な献金を禁止するとはいっても、300円でも苦しい家庭もある。それを300万円以上だとか収入の3割以上だとかと法律で決めれば、その人たちを一層苦しめることになる。
一方で、身寄りもなく、心身ともに教会に支えてもらったという人の中には、自分の死後は一戸建ての自宅を寄付したいという人がいてもおかしくない。そう考えると、あまり上限額を決めるのは有効とは思えないのだ。
もし、本当に自由意志だ、喜捨(捨てたもの)だ、だから領収書などそぐわないと言うなら、さい銭箱のように誰が幾ら入れたか分からないようにする必要があるだろう。
そして、収支は信者にも国民にも公表すべきだろう。公益法人であるからには営利目的ではないのだから、隠す必要はないはずだし、その教団を判断する重要な情報になるはずだ。
今回は献金問題について書いた。
次回は、もっと本質的な教義内容について考えたい。
それでは、また。