『MINAMATA ミナマタ』を観ました。

はじめてユージン・スミスの写真を見て、激しく頭を殴られたように感じがした。確か高校生くらいの時である。
その写真はおかしな言い方をすると「湯船に浮かんでいるのが、この世のものとは思えなかった」のである。写っているのが私と同じ人間なのかもわからない。その表紙に引かれて中を見たら、それが日本の水俣病という内容の写真であることを知った。

この作品を見るのは少し怖かった。
なにか昔に閉めた扉をまた開けてしまうような怖さがあった。その中には穏やかなものなんて一つもなくて、激しい衝動や怒り、どうしてもできなかった悔しさや失敗、そういうものが混ざり合って入っている気がした。そんなもの今では受け止めきれない。

しかし、今作を観て「なんて美しい映像だろう」と思った。
それは水俣の風景もそうなのだが、人間の身体や動きも美しい作品であった。

私が障がい者の介助に入っていた時に、障がい者の手の指をジッと見てしまうことがあった。手の指がもつれたみたいに固まっているのであるが、それがなんだか不思議というか、不謹慎かもしれないが唯一のものとして面白く感じたことがある。

障がいはそれぞれ違って、それぞれが独自の形をしている。心の中とか内面なら見えないが、身体の障がいというのはそれが表にむき出しになっている。
今まで見たこともないような肩から腕への曲線。通常に収まらなくなって飛び出した骨を、なんとか肉体が包み込んでいる。そういう一つ一つの人間の身体の部分が、引き込まれるように興味深く、美しいと思えた。

水俣病の事実を写真で世界に知らせると言うストーリーであるが、加害者を攻撃するとか闘うのがテーマではなかった。「可能であれば、被害者と家族の大事な時間を撮影させて欲しい」というのは、まさに写真や映像を撮るっていうのは何かってところに直結する。

ユージン・スミスのあの写真には、湯船で横になっているものと、それを包んで見つめるものが写っていて、そこにはやさしさや安心感や愛おしさが溢れていた。
それは間違いなく他人は入り込めない、母と娘との大事な時間である。

彼に撮影されるということは、まったく知らない人にも自分たちの姿が晒されるということである。町内に知れ渡るってレベルを軽く飛び越えて、世界中に知れ渡り、晒されてしまうし、もう二度と消すことができないのである。
撮される側の決意や覚悟は想像もできないくらい、凄まじいものだと思う。

そんな一枚の写真から発せられるものに、当時高校生だった私は衝撃を受けたのかもしれない。

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