『大菩薩峠(1957)』を観ました。

巡礼のおじいさんと娘が一休み。娘は「おじいさん、私お水を汲んでくるわ」と言ってその場を離れる。そこに近づくお侍の竜之助(片岡千恵蔵)、彼は休んでいるおじいさんを、背中からバッサリと切り捨てるのであった。

おじいさんを切り捨てた理由はなにも語られない。娘が戻った頃には、お侍の竜之助はもう、峠のはるか遠くを歩いている。

まったくこんなにも酷いはじまりがあるだろうか。いったいこのおじいさんが何をしたと言うのだ。もしもこのおじいさんが罪を犯して逃げているとかであれば、ちゃんとそれを言ったらいいではないか。一人残された娘はただ泣くだけである。

主人公であるお侍の竜之助には、正義というものがない。明日の剣の試合の対戦相手の妻が「なんとか試合負けてもらえませんか」などと言うと、「だったらお前の女の操(みさお)を私にささげれるのか?」などど言い。使用人を使ってこの妻を拉致したりする。

こんなお話、今テレビで放送したならば、抗議の電話が鳴り止まないであろう。「いきなりおじいさんを斬るとは何事だ!」「不貞を誘うようなことは許せない!」「こんな主人公を子供が真似したらどうするんですか、責任取れるんですか!」といった具合である。

キャッチボールなんかに例えると、とても捕れないような豪速球を、いきなり頭目掛けて投げつけてくる、みたいなものであろう。
特に現代の私たちは、球を投げる時には「はい、今から投げますからね」と言ってもらい、「あなたの構えたところに、今からゆっくり投げますからね」とかあらかじめ言われて、それでも投げた球を取りこぼしたりすると、「すいませんでした、次はもっと取りやすいとこに投げますんで」なんて謝られたりするのである。
日頃そんな球しかキャッチしていないので、いきなり危ない球を投げられたら、もうどうしたらいいか、わからなくなってしまうのである。

気に入らないとすぐ文句を言い、わからなかったり納得できなかったりすると、すぐに文句を言う私たちである。そうなことをやっていくうちに、作り手が先回りして文句が出ないようになってしまい、結果私たちの観る作品は、骨のないヒョロヒョロの作品ばかりになってしまった。

お侍の竜之助役の片岡千恵蔵だったら、こんな言うんではなかろうか。
「コンプライアンス? そんなもんは後ろから、バッサリと斬り捨ててしまえばよい」と。

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