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悪石島から帰ってきました(2024.10月19日)

私がなんで今回悪石島に行こうと思ったのかというと、『対馬丸慰霊碑』に手をあわせるためでした。

●対馬丸(wikiより)
対馬丸(つしままる)は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船。旧字体の表記は對馬丸。

太平洋戦争中の1944年8月、疎開船として民間人や児童ら計約1,700名を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、8月22日にアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け沈没し、大きな犠牲を出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/対馬丸
▲悪石島の対馬丸慰霊碑

だったら「なんで対馬丸慰霊碑なのか?」となりますが、私は沖縄に住んでいた時にずっと「沖縄戦に関わる仕事をしてみたい、もしそれができたなら思い残すことなく沖縄を出ることができる」とか思っていました。そこに『対馬丸記念館』のウェブサイトをリニューアルする話が私のウェブ制作会社にきたのです。
当時の対馬丸記念館のサイトには『対馬丸事件』のことをほとんど数行の文字でしか載せていなかったので、私は「写真も入れて『対馬丸事件』の内容をもっと詳しく載せたい」と言い、対馬丸記念館側は「記念館に来て見てもらう内容なので、インターネットで見れるようにはしたくない」と何度も何度も真剣に話し合いました。

私が作るにあたって見てもらう対象をイメージしていました。
関東あたりに住んでいる中学二年の女の子で、そんなに身体が丈夫ではないのでなかなか遠くの地に出かけるようなこともできない。ましてや旅行で沖縄に行くようなことなんて考えられない。そんな人物イメージでした。
そんな子が偶然に沖縄の『対馬丸記念館』に来館して、『対馬丸事件』のこと知ってもらうということはあまりにもありえない話ではないかと思いました。
まずインターネットで『対馬丸事件』のことを知ってもらえたとしたら、その子がもし「この事件のことをもっと知るために実際に『対馬丸記念館』に行ってみたい」と思ってくれたとしたら。その子の気持ちを聞いた家族や友人が「実際に沖縄まで見に行ってみよう」という行動に繋がってくれたなら。
すべては勝手な想像に過ぎないのですが、『対馬丸事件』のことを知ってもらうことで『対馬丸記念館』に来てもらう。というイメージを私はしていたのでした。

もう何度かリニューアルされたので私のデザインなんかはほとんど残っていないですが、内容が削られることはなく現在もとてもいい形で公開されています(すごく見やすくていいと思います)。

▲対馬丸記念館のサイト内の『対馬丸事件』のページ

私の制作作業で作った動画が今も残っていました。この動画で表示される絵は最初の『対馬丸記念館』のサイトに画像と文章として載っていたもので、制作当時に「この絵を是非動画にしたい」と思いました。
この絵を描いた方に問い合わせをすると当時にはすでに亡くなってしまっていて、家族の方に許可をとって動画を作ることができたのでした。
時は流れていってもこの動画はずっと残っていて欲しいと思っています。


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