『生きものの記録(1955年)』を観ました。

私の母方のお婆さんは呉に住んでいたので、広島に原爆が落ちたあとに運ばれてきた、トラックに山積みにされた人間の山を見たそうだ。
お婆さんは病気がちで、その子供の母は白血球が少なく、その子供の姉も弟の私も貧血でよく検査に引っかかる。
なので私は核とか放射能は人ごとに思えない。

そんな私が高校生くらいで原子力発電所の存在を知って「発電というものに、わざわざ核分裂を使うことないんじゃないか?」という疑問で一人で駅前の東京電力に行って質問してみた。すると受付のお姉さんの顔色がみるみる変わり、「少々お待ちください」と言われたので待っていたら、あれよあれよと言う間に警備員に四方を囲まれ、入口のシャッターまで閉められてしまった。このときのまわりの目は完全に「この人は頭がおかしい危険人物です」という扱いであった。


黒澤明監督の『生きものの記録』は、『七人の侍』の次の作品である。
老人(三船敏郎)がなにか訴えてるような画像を見て勝手に「なにか反戦とか反核を訴えるような、説教っぽい作品だろう」と思い込んでいた私は、作品を観初めてそれが間違いであったことを知った。
老人は「このままでは核(原水爆)に殺されるんじゃないか」とおびえて行動しているだけであった。

老人は自分のことだけを考えて動くだけでなく、家族や親族全員と妻以外にも囲ってる妾(めかけ)やその家族まで巻き込んで、安全な地に逃げなければならないと、行動がどんどんエスカレートしていく。

「この世界がおかしいのか、この世界がおかしいと思う私がおかしいのか?」というパンク(反体制的)な内容の作品であり、攻めまくっている作品であったので、ひさびさに頬をペチンと叩かれたような感覚があった。
そして、「これは高校生くらいで観るべき作品であった」と思った。こういう作品はきっと思春期に見た方が、骨の髄までグッと思いが入ってくるであろう。

時代劇だと「殿、ご乱心でござる」みたいに、殿様が気が触れてしまい、次々とまわりの家来を処分していくようなタイプの話に感じる。
現代劇だと「あの工場が見えない毒を垂れ流してるんだ」とか言うが誰にも相手にされず、周辺に住む人々が工場の排水で、次々に健康被害を起こしていくようなタイプの話(公害とか水俣病とか)になるだろうか。

「国がちゃんと考えてやっていることだから、きっと正しいことなんだろう。私個人がどうこう言ってみたところで、なにも変わるわけじゃないから、声をあげるだけ無駄だろう」
今でも私はこういう考え方に対して「ふざけんな!」と思う。

“第五福竜丸事件(水素爆弾の放射性降下物を漁船が浴びて、乗っていた人が死亡)”が1954年で、放射能を浴びたことで変異を遂げた怪獣『ゴジラ』の公開も同年の1954年である。
そして、その翌年の1955年に公開されたのが今作『生きものの記録』だ。

東日本大震災が起きて、福島第一原子力発電所事故が起きた後に見たから、よけいにグッと伝わってくるものがあったのかもしれない。

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