コンドウのお父さん有難うございました。

今朝亡くなったとお店で聞いた時にはまったく信じられなくて、全然受け入れられなかった。
このところ、毎週土曜日に行っている家での映画上映会に来てくれていて、上映会の朝には電話をかけてきてくれることもあった。
「今日はあれやるんかね、映画をやるんかね」「今日はなんの映画をやるんかね」「時間はいつも通りでいいんかね」と聞いてくれた。
しばらく毎週連続で来てくれていたのに、前回はなんの連絡もなかったし来なかったので、少し気になっていた。
でも、家でおとなしくしている人ではなくて、活動的にしいたけ採ったり軽トラで出かけたりする人なので、「また、用事がなかったら来てくれるといいなあ」とか思っていた。
そんな、コンドウのお父さんが亡くなってしまったのだった。

一ヶ月くらい前に、私の家での映画上映会が終わってから外に出て、少し上り坂になっている橋の方に歩き出したら転んでしまったようで、声を聞いてすぐに外に出て、駆け寄った。本人はなんでもないような段差で転んでしまったことに、自分でも驚いているようであった。幸い頭は打ってなかったようである。片方の靴のチャックが開いていたので、それでバランスを崩してしまったようだった。しっかり靴が脱げないように履き直して、また立ち上がって歩いて行った。
それからは私は映画の上映が終わったら、車の席に座るまで付いていくようにした。

私が移住してきてすぐ、地域の集会所での集まりに出た時に、はじめに私に声をかけてくれたのがコンドウのお父さんであった。だいたい移住者に対して地元の人は上から話すことが多かった。「フラフラしてるあんたなんかが、ここなんかに住めるかねえ」「すぐまた別のとこに、出ていくんじゃないんかねえ」とか言われることが多かった。ずっとこの地で暮らしていた人から見たら、ただの転校生みたいなものなので、好奇心で話はしてくれるが、『転々として生きている=劣ってる』みたいに接してこられるのは、少ししんどかった。
ワイワイしている祝いのような場で、私は一人でポツンと居て、かなり浮いていたと思う。そんな中でビシッと背広を着ていたコンドウのお父さんは、私に対して対等な感じで話しかけてくれた珍しい人だった。どこから来たのか、どこに住んでいるのか、なにができるのか、を聞いてくれて「それならマイクで自己紹介した方がいい」とアドバイスしてくれた。
そして、ご自分がマイクで話した後に私を呼んでくれて、話す場を作ってくれた。
私は会場にいる皆さんにご挨拶をした。踏切の前の家に住み始めたこと、沖縄から移住してきたこと、パソコンの仕事をしていたので、なにかスマホやパソコンのことでわからないこととかあったら、無料で調べますとかを言うことができた。

コンドウのお父さんは地域にあるストアーを作った人らしいことを後から知って、そのストアーでは働く人の募集をしていた。コンドウのお父さんの作ったお店の力に少しでもなりたいと思って、その後私はストアーで働くことになった。

コンドウのお父さんとはいっしょに柚子を採ったり、しいたけを採ったりもした。コンドウのお父さんの奥さんともよくお話させてもらった。そんな奥さんはちょうど一年くらい前に亡くなってしまっていた。

「二階のテレビでプロレスが見れんのだが」と電話がかかってくると、家に行って見れるようにした。スカパーのチューナーの電源が入ってなかったりしてるだけだったが、こういうのはどこか一箇所いじると、途端にどうしょうもなくなったりする。
コンドウのお父さんはなにかうまく動かなくなったりすると、もう片っ端からボタンを押しまくったりする。せっかちなのと大雑把のとで、ガシガシ適当に「これじゃないか」「じゃあ、こっちか」と押しまくるので、私が呼ばれた時には、状況がかなりエライところに辿り着いたりしていて、元に戻すのが大変だったりした。

かなり以前から「あの猪ノ鼻峠のトンネルはもうできたのかい」とコンドウのお父さんに聞かれていて、私は香川県に抜ける度に、どこまで進んでいるかチェックをしていた。このトンネルが完成すれば、大豊町から香川県の琴平あたりに出るのが、ものすごく楽になるのであった。「もう真ん中の方は出来てますけど、徳島側の看板にはあと一年はかかるって書いてありました」などど報告をしていた。なので、去年の末にやっとトンネルが開通した時には開通当日の昼に、コンドウのお父さんと猪ノ鼻トンネルへ向かった。
しかし、正式な開通はこの日の夕方からだったので、残念な気持ちでいつもの峠を登って降りて香川側に出て、道の駅のレストランでうどんを食べて帰ってきた。そして、次の日にはついに念願の猪ノ鼻トンネルを通り抜けたのであった。
行きは新しい交差点、新しい信号、新しい道路、新しいトンネルにいちいち歓喜の声をあげて猪ノ鼻トンネルを通り抜けた。帰りはスマホの時計で通過に何分かかるか計ってみた。峠を登って降りると30分くらいかかるところが、あっと言う間のたった8分で通り抜けられるのであった。
「帰りに豚太郎のラーメンを食べよう」とお店の前を通ったら、あいにくの定休日だったので、かなり大豊町に戻ったところにある徳島ラーメンを食べて、コンドウのお父さんを家まで送った。

夕方にお通夜に行って、入口の看板に書かれた名前を見てもやはり実感がわかなかった。もう動かないコンドウのお父さんの顔を見てはじめて「ああ、亡くなってしまったんだな。もうお話できないんだな」とやっと現実として入ってきた。

顔を見ながら声には出さなようにして「次回の映画は”ひばりの森の石松”をやりますよ。よかったらまた観に来て下さい」と伝えた。
”二十四の瞳”を上映した時には観客は3人だけだったが、みんな感動して泣いていた。”隠し砦の三悪人”を上映した時には途中でコンドウのお父さんが「もう、なにをしてるんだか全くわからん」と怒り出したので、私は「このままこの国で捕まると命はないので、なんとか隣の国に脱出しようとしています」とか説明をしていた。それからはわかりやすくて上映時間の短い、喜劇や娯楽アクションの映画を上映するようにした。

次の映画の上映では、コンドウのお父さんの席はあけておきます。来た時に席がないと、帰ってしまうかもしれないので。
コンドウのお父さんが大豊町に居てくれたので、私は大豊町で暮らせているような気がします。これからもこの地でなんとかやっていくつもりなので、見守ってくれるとありがたいと思っています。

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