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病院に行きたいので車を出してくれないか

「病院に行きたいので車を出してくれないか」と母が言う。
かといって私は両親の住む岡山には住んでいないで、瀬戸大橋を渡った四国の高知県に住んでいる。

「なんでタクシーを使わないの?」と聞くと、しばらくして弱々しく「ハァそうか、ならタクシーで行くからいいわ」と言う。
なんで私が高知から岡山まで行って、車で30分ほどの病院まで行くのかを聞きたかったのであるが、なんだかあきらめみたいな返事しか返ってこないのである。
私の仕事がちょうど火曜日が休みだったので「仕事休みなんで行けるけど」と言うと、それなら午後の1時に来て欲しいとのことだった。

そう決まると「結石のせいで1時間おきにトイレに行かないといけない」とか「お父さんはショートステイで午前中には出るから、その後に病院に行く」とか聞いてもいないのによく話した。

母は岡山の中心部にある病院に行くのに、わざわざ電車を使って2駅のJRの岡山駅まで出て、そこからバスに乗り換えて5つか6つの病院前の停留所で降りて行くのである。少々大変でも、そうやって行くように教え込まれているのである。
多分タクシーなんかを使うと父親が「タクシー使うなんて、相当お金が有り余ってるんだな」などどニヤニヤと笑いながら嫌味を言われるから、緊急でもない限り使わないようになっているのかもしれない。

以前は定期的に「買い物に行って欲しい」とか「市内の銀行に通帳記帳に行って欲しい」とかで呼ばれることがあったが、ある時期からまったく呼ばれなくなった。
理由はわからないが「そんなことでいちいち来てもらうんじゃない」とか父親から怒られたりしたのではないかと思う。

小さい頃から家には「他人様のお世話にならない」という決まりがあるようだった。
それがどんどん強くなっていって、家族にも関わらず「どうせご迷惑でしょ」とか「お忙しいので無理でしょ」とかになってしまっているようであった。

また母から電話が入った。出てみると「あんた血圧が高いんだってお姉ちゃんに聞いたわよ。だったらわざわざ来てもらわないでいいから」と言うのだ。

私が血圧が高くて気になるので病院行って、薬をもらって飲みはじめたら上が200あったのが160まで落ちたという話を、ラインで姉にしたのである。
実際には血圧なんかよりも、二ヶ月前に骨折した腕の方が問題で、リハビリしてもまだ元通りの角度まで動いてくれないで少し焦っていた。なのになんで理由が血圧なんだろうか。それも、「もう行ってもらわないことに決定しました」みたいな、一方的な言い方なのであった。

せめて「血圧はどうなのか?」と聞いてくれれば「全然生活に支障はないから」とか返せるである。「血圧が高くて、車の運転はできるのか?」と聞いてくれれば「そんなのなんの問題もない」と返せるのである。
なのになんだか勝手に「そんな血圧の問題を抱えているのであれば、私なんかのためにわざわざ高知から岡山まで来ていただかなくて結構です」となってしまうのである。

これも『他人様のお世話にならない』という家の決まりの影響なんではないかと思った。
そんな状況で運転を頼むのはずうずうしいとか非常識とか、父親から言われるのを怖れて言っているのかもしれない。

ここでの母親は以下のように考えているのではないだろうか。
私はあなたのことを考えて、本当は車を出して欲しいにも関わらず、「車は出してもらわなくていいですよ」と言っているのですよ。
それで、あなたに車を出してもらわないで私が無理して頑張るということで、私は大変疲労するのですが、それであなたに無理をさせないということが、人として正しい行いだと思うのですよ。

なんだか複雑すぎて、特に他の国の人なんかには理解できないのではないかと思うのだが、私はこういう考えの家族(というか父親)の中で生きてきたのであった。

だから結局んところ「病院まで車を出して欲しいの?」それとも「病院まで車を出してもらいたくないの?」と聞きたいのである。
訳の分からない、的外れな先回りはやめて欲しいのである。

これは私が他の国に行った時に、ぶつかった問題でもある。
「私なんかのためにわざわざそこまでしてくれなくていいです」みたいなことを私が言うと、相手は少し呆れ気味で「それで結局のところ”YES”なの、それとも”NO”なの」と言うのだ。

姉からのラインで「母親は本当は行って欲しいんだろうから、あんた行けるんなら行ってあげれば」とか言うのである。
なので「時間通りに行くからと母に伝えておいて」とお願いした。

こうやって『これが正しいという勝手な思い込み』みたいなものが出てくると、私はドッと疲れる。またあの訳の分からない家の決まりに包み込まれるようで、なんだか気色悪い。

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