歌舞伎の楽しみ 〜上手と下手〜
歌舞伎に限らず舞台演劇は、客席から見て、舞台の右側を上手(かみて)、左側を下手(しもて)といっております。
開演に先立って歌舞伎の引き幕(定式幕といいます)は、原則的に下手から上手に引き、終演には逆に上手から下手に引いて閉じますが、これは必ずしも古くからの伝統的な慣例ではありません。 現に、文楽では歌舞伎とは全く逆の方法をしています。
江戸時代では、次の錦絵のように、上演中には下手の天井近くに幕を束ねて紐で括ってあることがわかります。つまり、引き幕は上手から下手に引いて開けた、今とは逆だったことがわかります。
関西の劇場の、特殊な演目では稀に「大手・笹瀬の贔屓連中」から贈られた引き幕を、中央から同時に左右に引いて開幕する習わしもあります。とても珍しいやり方です。
なぜ、右の方を上手、左を下手と呼ぶのでしょう?
演劇百科大事典(平凡社)には次のような記述があります。
客席から舞台に向かって中央から右側の総称を上手、左側を下手と言う。江戸
では別に、東(上手)、西(下手)ともよばれていた。これは江戸三座が長く位置し
ていた江戸猿若町では、劇場の位置が、上手側が東に、下手側が西にあたって
いたためである。
その後、劇場が移転して、実際の方角とは一致しないことが生じても、それま
での習慣から引き続いて上手を東、下手を西と呼ばれていた。
それ以前から、カミ、シモという言葉には 日本にある価値判断を表す言葉であったらしいことがわかっています。
地位、身分、家柄、格式、男女、年齢、座席など、上位をカミ、下位をシモとい
って、同時に、絶対的に、また比較的に高いものがカミ、低いものがシモ、尊いもの、聖なるもの、敬すべきものがカミ、卑しいもの、俗なるものがシモでありました。
つまり、「上手」「下手」の用語は尊卑の価値観に結びついていたと言えるのです。これは江戸時代、日常生活の中であらゆる分野で常にカミ、シモの隔て価値判断、差別意識を実感して暮らしていたことから生じてきたものと思われます。
では、なぜ、「客席から向かって右側」が高く、尊く、敬すべき方向で、「左側」が低く、卑しむべき方角なのでしょう?
これまで私たちは観客側から見たものについて考えてきましたが、この上手、下手を最初の必要としたのは観客ではなく、基本的に常に「居どころ」を考えながら演技する役者でした。
役者側からいえば
上手 🟰 舞台上で客席に向かって左の方向
下手 🟰 同じく右手の方向
当然ですが、観客側にも、役者側にも上手下手は同じです。
それではなぜあの方角が上手で尊く、なぜあの方角が下手で卑しいのでしょう?
それは、どうも、左と右の「尊卑観念」にたどり着きそうです。
「尊左」という考え方は原始的な太陽神信仰が関係しているらしく思われます。
「左」の語源、特に「ひ」については、ヒガシ(ヒムカシ)、ヒウガ(ヒムカ)から
「日出る(ヒデル)」「日照る」から尊左観念と太陽神信仰、特に東都を関連づける考えになったようです。
「南」について、太陽の輝く南に向かう、つまり南面したとき「日いずる」方向に相当する東はヒダリにあたり、日の没する西、ミギよりも尊い方位として重んじられていたいうことです。
このことから「南を向いたときは東は上位として尊ばれる」という説が考えられるのです。
それを劇場の方角(東西)と上下(カミテ、シモテ) いついてかんがえてみましょう。
前にも触れましたが、江戸三座が長く位置していた小屋の位置は南向きで、上手側が東、下手側が西でした。そのため、客席側では、東、東桟敷といい、逆は下手、西、西桟敷と呼んでいました。
しかし小屋は南向きとは限りません。そんな時でも、習慣的な考え方で、小屋は南向きとみなして東西の桟敷を構え、東を上位とする考えでした。
京都四条の南座、大坂道頓堀の六座、全て北向きです。東西は逆になります。
天保の改革で江戸三座は強制的に移転させられた時南北の道に面した西側に建てられ、東向きでした。
それでも、江戸歌舞伎の伝統的習慣で、「上手🟰左🟰東」「下手🟰右🟰西」
と呼んでいました。
この辺りから、江戸三座に限って「東」「西」の名と実は離れたのです。
ところで、ここで「雛人形の東と西」について考えてみましょう。
前述したように、日本人は「左が上位」という考え方がありますが、雛人形の男雛女雛、どちらを左、右に置くのか、諸説あります。
ある人、、、、京都風は男雛左(向かって右)、女雛は右、東京は逆
また別の人、、本来は男雛がカミだから左、女雛は右だったが、近代以降、
洋式化が進んで男雛右(向かって左)、女雛は左に変わった。
雛人形の雛壇は京都御所の紫宸殿に倣っています。だから、南面する東🟰左が上位で、西🟰右が下位になります。その位置が逆になったのは、大正の御大典以降、宮中で取り入れられた西洋の礼式の影響と指摘する人もいます。
江戸時代にはこれも逆ではなかったかという人もいます。