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歌舞伎の楽しみ 〜愁嘆場〜


今回は歌舞伎の時代物によくある「愁嘆場」についてお話ししましょう、、、。
文字通り、この場は何かの事情があってとても悲しい涙なしでは見られない場面を指しています。

「泣き紙」という小道具をご存知でしょうか?
20㎝くらいの四角に折畳んだ紙のことで、女方が泣く時、目頭の涙をソッと抑えるときに使うものです。
「泣き紙」を使うのは時代物の、しかも、年配の女性に限られています。世話物の女性は襦袢の袖で泣きます。若い娘やお姫様は時代物でも世話物でも袖とか袂を使います。つまり、「泣き紙」を使うことで芝居が時代になり、年配も老けて見えるのです。
例えば、「泣き紙」を使う女性には次のような役があります。
 「菅原伝授手習鑑・寺子屋」の千代
 「伽羅先代萩・御殿」の政岡
 「妹背山婦女庭訓・山の段」の定高
 「絵本太功記・十段目尼崎の段」の操
 「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」の相模、藤の方    などです。

熊谷陣屋の相模
先代萩の政岡

「寺子屋」では千代は「泣き紙」を使いますが、武部源蔵の妻戸浪は使いません。どうして使わないかは分かりません。多分、戸浪の役は世話染みているからだろうと思います。

「泣き紙」がどういった表現を表しているのでしょうか?
① 女方はこの紙で泣き顔を隠します。
  女方は実際に泣くことはできません。泣けば化粧が崩れて男の顔が見えてし
  まいます。女方は決してリアルに涙を流しません。これは襦袢の袖で泣く世
  話物の女房、袖や袂で泣く姫や娘にも当てはまります。「泣く」という行為
  を泣き顔を隠すことで表現します。
②   「泣き紙」は泣き方を慎ましく風情あるものにします。
  「泣き紙」の大きな役割は、泣くことを「慟哭」といったものでなく、内輪
  の慎ましいものにする役割があります。その一方、品位も表しています。
  襦袢の袖で泣くのはリアルですが、所帯染みています。
  「泣き紙」を持つ女性は奥ゆかしく風情があり、生活にも心得を持っていま
  す。
③   「泣き紙」は女性の目を離れて小道具として使用されています。
  例えば、泣きながら向こうを指す動作では、泣き紙を持ったまま向こうを指
  します。その時「泣き紙」は単に手や指だけで向こうを指すのとは違い、小
  道具としての効果を発揮します。

以上でわかるように、歌舞伎では「泣く」という行為は涙を介さずに感情だけで表現する、つまりは泣く、悲しむ、涙を流すという動作は、肚におさめ表面には出さないのが決まりなのです。
表面に表すのは人間の動作ではありません。愁い、嘆き、すなわち「愁嘆」という言葉がピッタリするのです。
 ①  泣く、悲しむ、涙を流す・・・直接的、現実的、日常的な動作
 ②  愁い、嘆き・・・・・・・・・肚に収めて表面にその心が反映する間接的な
                動作
歌舞伎には②の方に人間の悲しみを表す基本的な表現があるのです。
この愁嘆を主要な場とする「愁嘆場」が芝居の一場面として演技されているのです。
例えば「寺子屋」では、後半の千代の「クドキ」、松王丸の「大落とし」が「愁嘆場」になります。

寺子屋、松王丸

「愁嘆場」は独立した演目の場ではなく、一つの演目のうちの随所に取り入れられることが多いのです。
そのため「愁嘆場」は
① 親子、夫婦、恋人同士の別れ (「もどり」とか女方の「クドキ」にみれる)
②   折角会えたのに、事情があって名乗り合うことができない場面
③ 不幸な運命や悲劇に手を取りあって嘆く場面
など、その人物にとって、一生に一度などの一種の異常事態の中で展開されることが多いのです。その表現として、扮装、小道具、下座など様々な補助手段で演出効果を上げています。
例えば、「義経千本桜・鮓屋」で、いがみの権太が父親に刺された後の述懐では
「がったり」になった鬘の髪がざんばらになって、下座では竹笛、篠笛の合方になります。大道具を使う例としては「佐倉宗五郎」の子別れ、「奥州安達原・袖萩祭文」では雪になります。
冒頭に触れた女方の「泣き紙」も悲しむ女方の場面で効果的に使われる小道具です。

義経千本桜・鮓屋の一場面

「愁嘆場」の表現は、、、
女の場合「クドキ」であり、男性の場合は「大落とし」という形をとります。
「クドキ」は濡れ場での男女の口説にも使いますが、愁嘆の場でも使います。
愁嘆場のクドキは、女の悲しみを表すオペラのアリアであり、愁嘆の場にも使われるれます。
 「寺子屋」の千代のクドキ  「絵本太功記」十段目の光秀の妻操のクドキ
 「熊谷陣屋」熊谷の妻相模のクドキ  「義経千本桜・鮓屋」お里のクドキ
 「伽羅先代萩・御殿」政岡のクドキ  「艶容女舞衣」お園のクドキ
などなど
女方が床の義太夫(竹本)の浄瑠璃に乗って派手に動き、悲嘆を歌いあげる形が定着しています。音楽的、視覚的に観客に訴えてくれます。

よく、「クドキ」は「クサイ芸」であってはならないと言います。
「クサイ」とは場当たりの俗臭のする芸、つまり、表現として大衆受けするけれども、正当な芸ではない高級でもない、オーバーな芸のことを言います。
「クドキ」はそのドラマの女主人公が本来表現しなければならない「肚」を表現することです。これは竹本にも乗らず、踊るような芸でもありません。じっくりと心を表す「悲劇的な芸」でなければなりません。
本当の「愁嘆」は竹本に乗って派手に踊るのではなく、いわば「肚」に全てを納めてジッと耐えた心の演技が要求されるのです。
というところが建前ですが、竹本に乗って派手に動くことも実は、歌舞伎の芸であり、一見矛盾するようですが 大衆受けする「クサイ芸」と正統な「肚の芸」が共存しているのが歌舞伎なんです。

立役(男役)の「大落とし」も女方の「クドキ」と同じことが言えます。
 「寺子屋」の松王丸 「源蔵殿、御免くだされ」と言い懐紙を顔にあて男泣き
            に泣く
 「太功記」の光秀 「雨か涙の汐境」で軍扇を顔にあてて大泣に泣く場面

女方の「クドキと同じく、竹本に乗って大の男が身体を揺すって男泣きに泣く、この壮大さが見もので「クサイ」演技をしようとすれば大いにできるところでもあります。しかし、ここでも、渋く「肚」に収めて泣くのが本来であり、人間的な感動を呼ぶと言えます。
女性と違い、男はあまりワーワー泣かないのが普通なので、「大落とし」のような場面では、女の「クドキ」ほど身に染みて感動を呼びませんが、むしろある種のグロテスクな表現になりがちなので難しい演技を要求されると言われています。「グロテスクさ」と「肚」の深さ、この両者の調和のとれた芸の感動が、悲しみの波紋を劇場全体に広げるということになります。




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