歌舞伎の楽しみ 〜桟敷(さじき)〜
さあ、くぐり戸を通って小屋の中に入っていきましょう。
一般に、日本の劇場では「桟敷」を上級の観客席のことをいいます。
古代の祭祀では神招(かみおぎ)の場とされた「さずき」(仮床)が、平安時代には貴族の祭見物のために仮設される見物席のことを言いました。
中世には神事や勧進の猿楽、田楽などの興行で設置された高級な観覧席の名として定着しました。
歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場もこれを継承して桟敷席を設けるようになりました。初期には、三尺高一層式で、下は吹抜けでしたが、元禄時代には二層式になり、御簾など高級感あふれる華美な席になって、上級の観客はそれぞれ出入りの芝居茶屋を通じて席を予約、桟敷で見物しました。
一階の桟敷は「鶉(ウズラ)」と言ってましたが、土間の客が立入るのを防ぐために、2本の横木をはめたのが鶉の籠に似たからだと言われています。
南北朝時代、1349(貞和5)年、京都四条河原の勧進田楽の興行の時大事件がおきました。
田楽見物の場所として、大掛かりな見物席の桟敷を組んでいたところ、これを見に来た大観衆が興奮のあまり桟敷が倒壊してしまったのです。
当時の桟敷は、5〜6寸から7〜8寸の角材で、周囲83間の桟敷を三層、四層に組み上げていました。
そしてこの頃は、中央に独立した舞台を作り、これを丸く取り巻く形で高く組み上げる桟敷の、いわば、野外の円形劇場が一般的で、これが当時の日本の劇場の一つの様式でした。
古い能舞台も円形だった時代があったようです。
桟敷の一番高く奥まったところには神の座があって、その傍に足利将軍が座っていたということです。
神も将軍も舞台を見ます。つまり、舞台の全てを神や将軍は見ています。同時に、神も将軍も舞台からも見られているし、一般観客からも見られています。
これが桟敷の持つ晴れがましい特権的な興奮をもたらす特殊な座席なのです。
この京・糺河原の勧進猿楽の記録(寛正5年・1464)では、正面中央に、特別に「神之桟敷」が置かれて、その左右に公方様上様の貴人の席があったと記されています。
要するに、中世の桟敷は古代のサズキの伝統を受け継ぎながら変貌してきたと言えるのです。
「桟敷」の「さ」は「桟(さん)」の文字をあてています。これは、この施設の構造が「棚」のように掛け渡す「かけづくり」の意味になります。
江戸時代の歌舞伎小屋の「桟敷」を、劇書の中に、棚、劇棚、観棚、看棚などと書かれている例が多いことからもわかります。
要するに、歌舞伎小屋の桟敷は、高級な特別観覧席で、原則として芝居茶屋を通じて入場する上客だけのための場所でした。
そのため、歌舞伎役者や劇場経営者にとって、桟敷は採算上、欠くことの出来ない存在で、歌舞伎の側からいえば、桟敷客の好みに合い、好評を得ることが「当たり」を取るための条件でした。つまりは、常に「桟敷」の客を意識せざるを得ない立場でした。
繰り返しになりますが、
歌舞伎成立期の女歌舞伎の頃は桟敷は備わっておらず、見物人は地上の、文字通り「芝居」に座って見物し、貴賤の差別はありませんでした。
しかし間も無く、勧進猿楽に倣って桟敷が作られました。初期の頃はごく素朴で高く作られた一層式で、床下は吹抜けでした。後になると屋根のある桟敷には御簾や幕を掛け、勾欄には緋毛氈を敷き、高級な見物席であることを誇示するようになりました。
こうして見物席は高級な桟敷席と一般の芝居(のちの土間)との差別を生みました。
元禄時代には、桟敷は二層式になって、上桟敷(二階桟敷ともいう)、下桟敷と言われるようになり、これが近代まで続きました。
「桟敷」に関連して平戸間に設置された「枡席」について説明します。
芝居小屋の枡席は一般に「土間」と呼ばれ、料金も比較的安く設定されていました。これは初期の芝居小屋には屋根を掛けることが許されておらず、雨が降ると土間は水浸しになり、芝居見物どころではなくなってしまうからです。
この頃の土間には仕切りはありませんでした。
瓦葺の屋根を備えた芝居小屋ができたのは享保9(1724)年で、雨天でも上演可能になって、この頃から土間は板敷になり、座席を仕切ることも可能になりました。その後、明和の初め(1760年後半)から次第に枡席が出来るようになりました。
当時の枡席は7人詰で、料金は1枡あたり25匁(約45000円)で、家族や友人と見物しました。1人が飛び込みで見物する時は「割土間」といって、1枡の料金の7等分の一朱(約6500円)を払って「よそ様とご相席」ということになっておりました。