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歌舞伎の楽しみ 〜胴抜という衣裳〜

「胴抜」という着物は、打掛の下に着用する部屋着のことで、元々は重ね着の下着に使ったものですが、遊女などは打掛の下に使い、これを部屋着としても利用しました。歌舞伎でよく着用するのは傾城とか遊女の役です。

「封印切」の梅川と「曽根崎心中」のお初、どちらも胴抜を着用しています
これは「三千歳と直侍」の三千歳の胴抜

これも胴抜の衣裳に縞の打掛、半幅帯を前挟みに結んでいます。

チョット「三千歳花魁」について触れておきましょう。
世話講談の名人・松林伯円の「天保六花撰」に登場する一人です。その六人は、河内山宗春、片岡直次郎、暗闇の丑松、金子市之丞、三千歳、森田屋清蔵で、
これは平安時代の歌人の小野小町などを含む「六歌仙」から見立てたものです。
三千歳は大口屋という女郎屋の抱え女郎です。
同じ吉原の遊女でも、「助六」の揚巻とは全く格が違います。揚巻が銀座の一流クラブの女なら、三千歳はいささか格下のスナックの女、彼女は遣手のお熊から100両の借金があり、それを惚れた相手の直次郎に用立てしています。それがなかなか返済もできなく、お熊から厳しく催促されているような始末です。
それでいて直次郎から自分はお尋ね者だから「別れよう」と言われて「いっそ殺していって」と縋り付くような女なのです。
「わずか別れていてさえも・・・」直次郎と惚れあっていて、一日逢わねば千日の想いに患うほどなんです。
 「一日逢わねば千日の 思いに私ゃ煩うて 鍼や薬の験さえ 泣きの涙に紙濡
  らし 枕に結ぶ夢覚めて いとど思いのます鏡」
よく知られた清元「忍逢春雪解(通称・三千歳)」の一節です。
愛する男への限りない思慕の果て、狂おしいばかりに身を責めて、恋煩いに身も細るほどです。たとえ相手が御家人崩れの遊び人で、悪事の末に追われる身になっていても、どうしようもなく男のことが頭から離れないのです。
 ここは前に触れた清元の名曲で幕末の世界を醸し出している、情緒たっぷりの「クドキ」の一節です。
 「クドキ」というのは、繰り返し説くという意味から来た言葉で、一般に慕情、哀愁を表現する音楽用語です。古くは平曲、謡曲にもありますが、歌舞伎では浄瑠璃、長唄の中で主人公(主に女性)がしんみりと心情を訴える個所の詞章・曲節をいいます。 いずれも抒情的、詠嘆的な旋律と詞章が特徴で、曲の聞かせどころ、また、女方の見せ場になっています。また、「クドキ」は恋人同士とは限りません、ひろく、夫婦、親子、あるいは主従のこともあります。
 例えば、
義太夫 「近頃河原の達引」 そりゃ聞こえません伝兵衛さん・・・
    「壷坂霊験記」   三つ違いの兄さんと・・・
    「忠臣蔵・七段目」 勘平さんは三十に なるやならずで死ぬるとは
常磐津 「積恋雪関扉」   わたしもそのとき母上の・・・
    「忍夜恋曲者・将門」 嵯峨や御室の花盛り・・・
清元  「道行旅路の花婿」 それその時のうろたえ者には誰がした・・・
    「忍逢春雪解」   一日逢わねば千日の 思いに私ゃ・・・
長唄  「京鹿子娘道成寺」 鯉の手習いつい見習いて 誰に見しょとて
              紅鉄漿つきょぞ みんな主への心中立て・・
クドキは、普通の状態では口にしにくい突き詰めた思いを訴える、昂まった心を曝け出す場面と思っていいでしょう。
人形浄瑠璃から歌舞伎に移入された演目、また長唄とか、清元、常磐津のような浄瑠璃には1ヶ所、一段のうち、必ず「聞かせどころ」「見どころ」として設定され、日常語から出て音楽の中で心情を告白する場面があるのです。
ちょうどオペラの「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」のアリアと同じです。

話が脱線しました、「胴抜」にもどりましょう。
玉三郎の写真があります。

左は打掛を着ている時、右はそれを脱いで「胴抜」になった時です

まさに部屋でくつろいだり、気の置けない客と相対している時です。

「胴抜」は主に女方の衣裳ですが、似たようなものに、立役では「肩入れ」という衣裳があります。肩の部分に違う布を充てて作った着物のことです。
 例えば、忠臣蔵・五、六段目   早野勘平
     義経千本桜・鮓屋    いがみの権太 などです

立役では貧しい男の普段着です

武士だったら浪人、町人なら貧乏世帯の住人ということになります。
「肩入れ」は、貧乏暮らしの象徴みたいなことを言いましたが、これを様式的に使う例もあります。「菅原伝授手習鑑・賀の祝」で切腹前の桜丸が奥の納戸から暖簾をわけて登場する時の衣裳です。

桜丸の衣裳

このように、「肩入れ」を小桜を染め抜いた柄にした見栄えの良い衣裳にする例もあります。
菅原道真が、、太宰府へ流罪となった原因をつくってしまった桜丸はその申しわけに切腹します。この時着用しているのが藤色の地に桜模様の肩入れです。
はかない命を象徴した名前にゆかりの桜を巧みに取り入れた衣裳になっております。
まだあります。河竹黙阿弥の書いた幕末の名作「十六夜清心」です。
女犯の罪で寺を追われた僧・清心と大磯の遊女十六夜が、稲瀬川で心中しようとする場面で十六夜が着て登場する部屋着(普段着)が「胴抜」です。
十六夜はどちらかといえば、前に触れた三千歳と同じようなチョット下級の遊女です。彼女は上半身の身ごろと袖半分が花柄の染め抜きになった「胴抜」です。

心中を図る十六夜と清心

ここでも先ほどと同じ、この場で清元の名曲「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいつき)」がナレーターの役目をしながら演奏されます。
しっとりとした情緒を表す心中の場面、死を前に、名残を惜しんで抱き合う男女、文句なく情話の世界に浸れる美しく哀れな場面が清元の曲節にピッタリです。
  「朧夜に 星の影さえ二つ三つ 四つか五つか鐘の音も もしや我が身の
   追っ手かと、胸に時打つ思いにて 曲輪を抜けし十六夜が、、、」
ところで、この演目が上演された頃は、
①  初演は安政六年、江戸市村座でした。
 安政といえば、江戸時代も末、開国か攘夷かと国内が混乱する一方、「安政の
 大獄」で、風雲急を告げる江戸で、市民の動揺が極度に高まっていた時期で
 す。その一方、庶民にはその反動でいっときの享楽に走る風潮が蔓延していま
 した。
②  その頃、世間を騒がせた事件が二つありました。
 (一)  安政二年、千代田城御金蔵破り事件
 (二)  上野寛永寺の僧が、遊女と心中事件をおこした
この二つの衝撃的な出来事が、この演目の題材になったのです。
幕府にとってはあまり面白くない演目でした。黙阿弥も幕府に遠慮して
  御金造破り事件 → 頼朝が奉納した祠堂金の横領事件
  時代と場所 → 鎌倉時代の設定、江戸を鎌倉に替えた
ということで、大入満員だったにも関わらず、35日間の上演の後、強制的に上演禁止になってしまいます。
 さて、この場面での十六夜の扮装は、、、
「胴抜」で紫繻子の襟付き、上草履、白いさらしの手拭いを「吹流し」に被っています。
「吹流し」は、主として「道行」(主に男女の駆け落ち、心中などで目的地までの旅や道中の様子を描いた場面)などに、女性が用いる手拭いの使用法です。この場面では、廓を抜けて人目を憚る遊女、という設定で、手拭いは端を縛らず被り、少し髷を出し、手拭いの左端を少し口に咥えています。
ついでに、十六夜は既に清心の子を孕んでいます。遊女が子を孕むことさえ恥なのに、僅か19歳で、しかも相手が修行中の僧なんです。遊女でありながら死場所を探して廓を抜け出したおぼこさが、この役の側面にあるのです。

十六夜はここで手拭いを「吹流し」に被っていますが、歌舞伎ではいろんな手ぬぐいの被り方があります。
例えば「義経千本桜・鮓屋」のいがみの権太、これは向こう鉢巻のように豆絞りの手拭いです。
また「与話情浮名横櫛」の与三郎は源氏店・妾宅の場では、顔の刀疵を隠すような豆絞りを「鉄火」という被り方をしています。
「梅川忠兵衛」の「新口村」の道行では 梅川は「吹流し」、忠兵衛は「頬被り」で顔を隠しています。
「妹背山婦女庭訓」の御殿の場のお三輪、いじめ官女の強要されて苧環を持って歌う竹雀の「馬士唄」、十六むさしの着物に麻の葉の襦袢、頭は手拭いで鉢巻きです。

ところで、前に戻って「十六夜清心」、このドラマは稲瀬川の「心中場面」から始まります。
心中といっても、近松門左衛門の元禄時代の心中とこの頃の心中は明らかな違いがあります。
「心中」には以前から「心中立て」という言葉がありました。本来は、人との約束を守り、義理を立てるという意味です。もっと限定すれば、男と女が愛の誓いを守り通すことで、具体的には、誓詞を取り交わしたり、爪や髪を切って愛の証を立てるようになりました。最終的には男女が一緒に自殺することになり、なんらかの事情でこの世で生ききれなかった男女の恋の果ての死で、未来では結ばれると信じての情死です。
江戸時代の元禄期にはこれが社会現象にまでなっていました。この頃は急速な高度経済発展期で、経済活動の中心だった町人の勢力が社会を動かす原動力にもなっており、その源は「金」でした。
空前の経済盛況期では「奢侈と遊蕩」の気分が社会を覆います。その結果、金銭(かね)と愛欲(いろ)とが蔓延してそれによって追い詰められて破滅の道を辿る輩が増え、心中する男女がマスコミを賑わし、歌舞伎や浄瑠璃へのドラマ化の題材になってきました。そんな中で描かれた近松門左衛門の戯曲が「愛の証」としての心中で、ある意味、心中は幸福の絶頂期で死を願う一つの文化であったといえます。
一方、黙阿弥の書いた幕末の心中は、元禄期のそれとは状況が違います。
幕末、切羽詰まった市民は「明日、どうなるかわからない」いわば不安動揺の中、なす術もわからず、虚無退廃刹那享楽に日を送っていたのです。
「十六夜清心」のドラマ、結局二人は死にきれず、十六夜は旧知の客の妾に、誠心は心を入れ替え(?)、盗賊・鬼薊の清吉と名乗って現世を生きる破戒僧になってしまうのです。それがそのままその時代の市民の願望だったかもしれません。
死に切れなかった清心は、折から聞こえる船の酒盛り騒ぎに
 「しかし待てよ、今日十六夜が身を投げたも、またこの若衆の金を取り、殺し
  たを知ったのは、お月様と俺ばかり、人間わずか50年、守備よく行って10年
  か20年が関の山、同じことならあの様に騒いで暮らすが人の徳、、」
となってしまうのです。
そういった世相を反映した心中事件、いわば、俗世の塵にまみえながら生への欲求が、心中を思いとどまれせるのです。
「愛の証」も少しはあったかもしれないけど、世間に顔向けできない事態を打開する方法としてやむを得ない心中でした。がしかし、実際には死にきれず通りかかった寺小姓の持つ金を奪い、殺し、あげく気が変わって栄耀栄華に暮らすことを決心する、、、。
現実の享楽の世情を生き抜くしたたかな市民の心情が、こんなところにも伺うことができるのです。
言ってみれば、近松の心中は、「理想主義的心中」で、黙阿弥のそれは「現実主義的心中」と言えるかもしれません。要は、世相と時代の違いによる「心中観」の相違とも言えるのではないでしょうか。

歌舞伎に見る手拭いの被り方

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