馬を巡る旅は終わらない(赤塚俊彦)/週刊トレセン通信
前回、私の「週刊トレセン通信」が公開されたのが2月14日。その日の夜、美浦トレセンからほど近い焼肉店で小桧山調教師の送別会が行われた。あくまで今回は厩舎担当記者を中心にということで引退を間もなくに控えた師を囲み、ささやかに行う予定だったが、会には調教助手、原騎手、藤田菜七子騎手も駆け付けた。翌朝、「昨日食べた焼肉は今までで一番美味しかった。夢のような時間だったよ」と小桧山調教師。多分、八割は隣に藤田菜七子騎手が座っていたからだと思うが、先生が喜んでくれたのは何よりだった。
2008年に競馬ブックに入社し、翌2009年から美浦で厩舎取材を始めた。小桧山厩舎担当となり、前任者から先生を紹介してもらった日のことを昨日のように覚えている。
「そうか、厩舎に助手がいるから、助手に何でも聞いて」
そう言われてからは毎週欠かさず厩舎に通った。当時小桧山厩舎には看板馬のスマイルジャックがいた。2008年のダービーで2着したジャックは、2009年も積極的に重賞に出走。GⅠにも挑戦した。必然的に週刊誌用の取材も多くなるだけに、週刊競馬ブックの厩舎レポや当日版のGⅠの原稿の書き方はスマイルジャックに教わったと言っても過言ではない。関屋記念の勝利に歓喜し、安田記念の敗戦に泣いた。ベンチャーナイン、エトルディーニュ、トーラスジェミニの取材を続けるうち
「引退まであと〇年だから」
いつしか先生がそう言い始め、カウントダウンが始まると気がつけば小桧山厩舎に顔を出すようになって15年が経っていた。
2024年3月3日中山8R、小桧山厩舎最後の出走となったタケルジャックの背中には武豊騎手の姿があった。(いち新聞記者でしかない私の立場でこんなことを書くのは大変失礼なのだが)単純に近走だけを見てしまうとトップジョッキーの武豊騎手が乗る成績ではない。それでも小桧山調教師が依頼をすると「断る理由がありません」と二つ返事で騎乗依頼を受けてくれたそうだ。結果はシンガリ11着と振るわなかったが、武騎手の発案により、中山競馬場のハナミチ前で口取り撮影が行われた。「最後のレースを豊で締め括れるなんて、こんな嬉しいことはないよ。負けたのに口取り撮影までしてもらって、ウィナーズサークルではなくてルーザーズサークルだ。ありがたいね」と喜んだ。
馬と一緒にとはいかなかったが、レース終了後には引退セレモニーが行われ、堂々とウィナーズサークルに入ることができた。弟子である青木調教師と小手川調教師が発起人となり、そこに堀内調教師も加わって、お揃いのスカイブルーのパーカーを製作。騎手から厩舎スタッフ、マスコミ、馬主さんや牧場関係者などみんなが同じ服を身に纏って一堂に会したのは圧巻だった。その人の多さに小桧山調教師との集合写真は一度で収まらず、騎手のみ、その他関係者と二度に分けられたほど。またスタンドにもたくさんのファンが訪れてくれた。これほど多くの人が集まったことに小桧山調教師の人望、人柄の良さが表れている。セレモニー終了後にも先生を囲んで多くの人が別れを惜しんだ。
週が明けると小桧山厩舎に通わない日々が始まった。最早、生活の一部となっていたルーティンの変更に当初は違和感が拭えなかったが、徐々に慣れてきた頃、久しぶり(?)に先生から着信があった。また先日3月27日には厩舎スタッフが集まり、最後となる送別会が行われた。今回は新規の厩舎が小桧山厩舎を引き継ぐような形にはならなかったこともあり、文字通り「解散」となりバラバラとなったスタッフも久しぶりに集合。その送別会で、「引退セレモニー凄かったね。まるで何千勝もした人の引退式みたい。実は泣くかなと思ったし、本当は泣きたかったんだよ。でも、周りを見たらみんなニコニコしていてさ。泣けなかったよ。こんな晴れやかな引退式ないよね」と先生は笑っていた。
また調教師を引退後、新たに始めたいくつかの仕事が面白くて仕方がないという。現在は馬に纏わる祭事を取材し、執筆活動をしながら牧場関係や馬術関係の仕事をしているとのこと。「調教師」という肩書きは外れたが、むしろ別の肩書きが増えたようだ。
「まだ勉強したいこと、突き詰めたいことがたくさんあるので、引退後はもう少し世界を見て回りたいと思います」
昨年12月、JRA理事長特別表彰を受けた際、小桧山調教師はこう語っていた。先生の「馬を巡る旅」はもうしばらく続きそうだ。
本稿は2024年4月10日に「競馬ブックweb」「競馬ブックsmart」に掲載されたコラムです。下記URLからもご覧いただくことができます。