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人は「機能する」ためでなく「幸せである」ために生まれた

人は「機能する」ためでなく「幸せである」ために生まれたんだと思う。

◯成長ってなんだろう。できるってなんだろう。

誰かの思い描く「人」になることを人は「成長」と呼んでいる気がする。

そしてそんな成長をしている人は「良い人」や「できる人」と言われる。

小さなことから「良い成績をとること」「人よりできること」を先生や親はよく褒める。「良い子だね」「できる子だね」そうやってほめる。

その一方で、「成績がとれないこと」「人よりできないこと」を先生や親は「あの子はできるのになんであなたはできないの?」と責める。

そうやって、できるかできないばかりに目を向けて、「本当にあるその人自身のユニークさ」に目を向けず、勝手に存在している正解のものさしで、目の前の我が子と比べ、その差に対して「勝手に」思いを馳せる。別に目の前の人は、そもそもそんなこと求めていなかったのに。

◯「社会的に」という主語が僕を打ち消した。

僕はとても小さな頃ユニークだったと思う。

「一般的な」ポジティブなユニークでいえば、足が速く、いつも笑顔で周りに気が遣える人だった。そこをみんなほめてくれた

ただ「一般的な」ネガティブであった吃音であることに、周りは気がついているのに触れず無関心で、触れられても「治るようにならないとダメだ」と言われた。
いつも、社会的に「このままだと困るよ」と言われてきた。

それならそうなんだなと、いつも社会的に見て、「スポーツができ」「笑顔」で、「周りに気が遣える自分」を正として、吃音である自分を「負」と定義した。

そこからはいつも、「社会的に見て良いか悪いか」の意思決定を積み重ね日々生きてきた。

中学時代、サッカー部キャプテンとして、社会的な正を盾に、一生懸命やること、やりたくないことをやることを正として、社会的に負の行動をとる人たちとの対話から逃げ、ダメなやつらだと決めつけていた。

高校時代、一度決めたサッカーをやらないという選択を、高1で失敗であったと気づき、後戻りしたいが、それは社会的にダサいと思い、サッカー部に戻るという意思決定をできなかった。

たくさんの社会的な基準で「自分」と「相手」の主語である心の声から逃げてきた。わかっていたのに、感じていたのに、いつも逃げることしかできなかった。

誰もネガティブなことなんて、「そう感じて良いんだよ」って「そういうこともあるよな」って受け止めて、肯定してくれるなんて思えることがほとんどなかった。

どれだけ社会的に成功しても、どれだけ上り詰めても、いつも冷めた自分がただそこにいるだけだった。いつもほっとするだけだった。

僕は安心感あるからこその熱狂を、していたい。
そしてそれが、当たり前の社会を創りたいのだ。

◯社会的に機能する前に大事なことってないのか?

社会に出ると、「社会人」として機能できる人がすごいらしい。

僕も「社会人として」機能するのは得意だ。なんせ周りの人に以上に気が遣えるのだから。

でも僕ら人間は果たして、「社会人として機能するために生まれてきたのだろうか?」社会的なこととは明文化されていないのに、そのルールに則った人格をまとい、お金を稼ぐことを目的として生まれてきたのだろうか?

◯愛と熱狂のある場を僕は創っていきたい

「僕は」そんなことないと思う。
僕らはただ「幸せであれるために生まれてきた」と思う。

本来「社会的に」なんてことがないはずなのに、
そのせいで僕らは生き辛くなっている

お互いの背景や存在をわかりあう前に、「社会的に」だの「普通は」だの、その人にとっての都合のいい言葉で語られることばかりだ。

そりゃ、子どもも良い返事ばかりする。主体的なはずな子どもも、それっぽいことしかしなくなる。

本来共有したいと思うのは、お互いの日々の葛藤と思い。だからこそ日々、「私は〜〜〜って思うけれど、あなたは本当のところどう思うのだろう?」という感覚が交わされる、関わりの中で生まれる「安心感」から、「無条件の信頼」が生まれ、だからこそ話し気づける「願いと勇気」なんじゃないだろうか?

僕はそんな安心感から勇気が生まれる、
愛と熱狂を心から愛している。


そしてそのために人生を捧げたい。

この愛と熱狂を僕は社会と呼ばれる日を待ち望んでいる。

基盤にあるのは機能することじゃない。愛だと思う。

そう「僕は」こう思ってるんだ。心では。

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高橋 奎  
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