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日本における「失われた30年」までの流れ、プラザ合意とバーゼル合意(BIS規制)との関係性


1. 高度経済成長期(1950年代〜1970年代前半)

第二次世界大戦後、日本は戦後復興とともに経済成長を加速させました。1950年代から1970年代にかけて、製造業(特に自動車や家電)の発展と輸出拡大を背景に、年平均10%前後の高い成長率を達成しました。この時期、日本は世界第二位の経済大国へと成長しました。

2. プラザ合意(1985年)

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、輸出の急増により日本の貿易黒字が拡大しました。これにより、日米間の貿易不均衡が問題となり、1985年に「プラザ合意」が締結されました。この合意では、ドル高是正のために円高が誘導され、日本円は急速に上昇しました。この円高により日本の輸出産業は打撃を受けましたが、国内での資金が膨張し、低金利政策と相まって、余剰資金が不動産や株式市場に流れ込みました。

3. バブル経済の到来(1980年代後半)

1980年代後半、日本は金融緩和政策により不動産と株式市場が急騰し、いわゆるバブル経済が発生しました。企業や個人が借入を増やして資産に投資し、銀行も積極的に融資を拡大しました。これにより資産価格が過剰に膨張し、バブルが形成されました。

4. BIS規制の導入(1988年)

1988年に国際決済銀行(BIS)は、自己資本比率8%以上を求める新しい規制を導入しました。この規制は、銀行がリスク資産に対して十分な自己資本を保持することを求めたもので、グローバルな金融の健全性を確保するためのものでした。日本の銀行もこの規制に適応する必要がありましたが、バブル期には融資拡大が進み、BIS規制が後々影響を及ぼすことになりました。

5. バブル崩壊(1990年代初頭)

1989年以降、日本銀行は過熱する経済を抑制するために金融引き締め政策を実施し、金利を引き上げました。これにより、不動産や株式市場は急落し、バブルが崩壊しました。バブル崩壊により、多くの企業や個人が膨大な不良債権を抱えることとなり、金融機関の経営も悪化しました。

6. BIS規制とバブル崩壊の関係

バブル崩壊後、銀行は不良債権を大量に抱え、資産価値が大幅に減少しました。これにより銀行の自己資本比率が低下し、BIS規制の8%を維持するために、銀行は資産売却や貸出の削減を余儀なくされました。この「貸し渋り」は経済全体に悪影響を及ぼし、景気の回復を妨げ、1990年代以降の「失われた30年」に繋がる結果となりました。

まとめ

戦後の高度経済成長からプラザ合意による円高、バブルの到来と崩壊、そしてBIS規制の影響は、すべて日本の金融政策と経済成長に密接に関連しています。特に、バブル崩壊後のBIS規制が、銀行の行動に制約を与え、日本経済の停滞を長引かせた重要な要因となりました。

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