鏡越しの君#3 絶望と喪失
ぼんやりとご飯を口に運ぶ。
「お腹空いたな。腹が減ってはなんとやら」矢本は俺の隣に座った。
「今日はハンバーグ定食か。得した気分だな」
「うん」
昨日のことでそれどころではない。
ご飯が喉を通らない。
「なんか元気ないよな」
やっぱり矢本には見透かされている。
だけど、こういう時はいじってこない矢本の優しさに余計に惨めな気分になるから言うのはやめておく。
「俺の唐揚げあげる」
唐揚げ定食の大きな唐揚げを一つご飯にのせてくれた。
「ありがとう」
へこんでいても何も始まらない。
こいつのこういうところが憎めないんだ。
思わず目の前が滲んでくる。
矢本とは入社からずっと一緒にいて、これからも一緒だ。
倉庫に文書を探しに行くと、同期の豊島とはちあった。
「おお、田渕。今度の合コンくるよな?」
「行くけど」
豊島は嬉しそうに俺の肩を叩いた。
「了解。そうこないと。
あー、それよりさ。矢本と小山さんうまくいってるのか」
思わず豊島の顔を見返す。
「なんのこと」
まさかな。何をふざけたことを。
「まさか知らないのか。水臭いなぁ」
豊島は驚いたように俺に近づいた。
声が遠くなっていくのを感じた。
探していた資料が見つかったかのように誤魔化す。
「なんだよそれ。俺に隠してたのかぁ。
豊島も言ってくれれば良かったのに。
それで、どれくらい付き合ってるんだよ」
「ええと、1年くらいだっけかぁ」
文書倉庫の前を丁度今、話題に上がった矢本が通りすがった。
豊島が廊下に顔を出して声をかけた。
「おい、矢本」
矢本は豊島と俺に気がつき、手を上げた。
「二人共揃ってどうしたんだよ。サボりか」
嘘だと、言ってくれ。
矢本は笑いながら近づいてきた。
「なぁ、小山さんと付き合ってるって本当か」俺の顔を見ると一瞬にして表情を曇らせた。
言おうか言わまいか悩んでいるのだろう。
「あぁ」
俺と矢本の間の空気が凍てつくのが分かった。
どうして。俺が好きだって知ってるのに。
矢本は選び放題なのに、よりにもよって何で小山さんなんだよ。
出来るだけ明るい調子で矢本に笑いかけた。
「ええ、お前。なんだよ隠して。
言ってくれればよかったのに。社内恋愛だと会社でムフフなことになってんじゃないのか」
「うるせぇよ」
矢本は何かを言いかけて、やめた。
「あまり長居してると上司に怒られるから、先に帰るな」
俺は二人を置いて、自分の席に戻った。
いつの段階で付き合ったのか、どっちから告白したのか。俺のことを応援にしてくれてたんじゃないのか。
もう何も信じられない。
家に帰り、ご飯も食べずに布団に潜り込んだ。
真っ暗な部屋の中で何か光っているものが目に映る。
起き上がって見てみると月の光を反射して手鏡が光っていた。
よく見ると、鏡には僅かなひびが入っていた。このひびはいつ入ったのだろう。
嵌め込まれていた宝石の一つがない。
あれは確かガーネットだった。
また、鏡が水面のように揺れたような気がした。ここだ。
そもそもの始まりはここからだ。
夢なのかもしれない。夢なら早く覚めてくれ。
ここでチャンスを掴まないと。
俺は指先を鏡の中に入れた。吸い込まれるような感覚がした。
はっと気がつくと会社の廊下にいた。
頭痛とぼんやりとする意識に顔をしかめた。
「サボりかよ。随分と長いトイレだったな」声のした方を見ると、矢本は俺の顔を見て笑っていた。
寝てしまっていたのか。
「戻るぞ」
胸糞悪い感じを抱えながらオフィスに戻った。
ポケットに入れていた携帯が振動してメッセージを受信した。パソコンを打つ手を止め、携帯を見ると小山さんからだった。
驚きつつ、気持ちを落ち着かせてメッセージを見た。
―こーくん、今日はもう帰れそう?―
それに対する俺の返信はと言うと、ー近くのいつものカフェで待ち合わせしようーとなっていた。
パソコンのディスプレイを見ると、あと十五分で終業時刻だ。近くの席の豊島が俺の手元を覗いた。
「今日も帰りにデートするのか。羨ましいな」
「あぁ、そうだな」
スマホのカレンダーを見ると、どうやら時間の経過は同じのようだ。
今日は俺が失恋したあの五月十四日の翌日だった。
信じられない気持ちと早く仕事が終わって欲しい期待が膨らむ。
口角が上がったままで、ソワソワした気持ちでカフェに行くと、外から見える窓側の席に彼女がいた。
信じられなかった。
俺があの小山さんと付き合ってるなんて。
吹き出る汗と呼吸を整えて、平静を装う。
「お待たせ」
彼女は俺に気づくと手を振った。
「こーくん」
「加奈子。お疲れ様」
豊島によると俺があの飲み会の後に告白したらしい。分岐点はここだったのか。
彼女の顔を見た瞬間に記憶が一気に頭の中へ流れ込んできた。
今まで行ったデートやお泊り、国内旅行など。そのどれもが幸せな時間だった。
この世界線の俺は幸せに生きているんだな。
ただ、心の中にしこりが残っている気がした。
今はこの妙な違和感には気が付かないフリをしておこう。
「今日はどこに行こっか。私はビビンバ食べたい」
「じゃあ隣駅のビビンバ専門店に行こう」
ここでは俺の彼女だっただけ。
彼女との夢の空間を楽しんだ。彼女とはもう二年も交際しているらしい。
彼女は俺にぞっこんだ。
この先、結婚も夢じゃない。
「じゃあ帰るね。おやすみ」
そう言って彼女は俺に口づけた。
もう、何十回以上した口づけと口づけ以上のことその全てがフラッシュバックしてくる。
どうせなら、お泊りしたかったなという心の声は掻き消して、今日は帰路に着くことにした。
まだこの先、何度でもデートは出来る。
鼻歌を歌いながら、いい気分で家に帰ると明かりがついていなかった。妙に家は静かで自分の家じゃないみたいだ。
胸騒ぎがした。あれ、母さんとばあちゃんは。もう寝てしまったのか。
鍵を開けて家に入ると、玄関には誰の靴もなかった。
「ただいま。母さんいないのか」
がらんとした客間は埃を被っていて、綺麗好きの母さんなら必ず掃除をしているであろう台所まで殺風景だった。
頭痛がして、鼻を突く匂いが充満している。隣の和室に入ると、大きな箱があった。
そうだ、ばあちゃんが引っ越しの時に持ってきた、じいちゃんの仏壇を置いていた。
花は枯れていて、お供え物もない。
手探りで壁の電気をつけた。
目の前のじいちゃんの仏壇には遺影が三枚あった。
「母さん、ばあちゃん」
思い出した。母さんとばあちゃんは死んだんだ。
リビングの机の上にファイルが置いてある。そのファイルを見た瞬間、背中に寒いものが走った。
自分の中が拒否反応を起こし、見てはいけないと危険信号を送っている。
それでも俺は見なければいけないと感じていた。
恐る恐る開いたファイルの中には何枚かの写真や新聞、雑貨などの切り抜きが挟まっていた。
開けてはいけないパンドラの箱だった。
元夫が義母と妻を殺した。
被害者は田渕由紀恵さんと田渕道子さん。
当時、大学生だった子供はたまたまその日は大学に行ったあと、友達と遊びに行っていて無事だった。
「全員殺すつもりだった」と男は供述している。動機は不明。現在、調査中だ。
写真は俺の家を映していて、亡くなった人の名前と写真は母さんとばあちゃんだった。
腕が震える。
加奈子と付き合えたこの幸せを次は手放すことになるかもしれない。
でも、母さんとばあちゃんが俺のせいで死んだ。本来は死なない未来のはずだったのに。
ずっと一人で育ててくれた母さんには感謝してる。
いつか読んだ本に載っていた。
タイムトラベルや並行世界(所謂、パラレルワールド)に移動の出来る主人公が何度もやり直すと、その度に因果律が歪んでいってしまうため、小さな歪みが結果的に大きく影響してしまうことがある。
バタフライエフェクトと言うらしい。
自分の部屋に行き、手鏡を見ると、またヒビが増えていた。
次に消えたのはアメジストだった。
もう一度、賭けたい。別の運命に。
怖くない訳じゃない。次はどうなるかなんて分からない。
俺はゆっくりと息を吐き、震える手で鏡の方へ手を伸ばした。