鏡越しの君 #5 魔が差す
「これ、落としましたよ」
顔を上げると、差し出されたボールペンを受け取った。
「ありがとう」
後輩の山本さんだ。
薄化粧に髪の毛はいつもボブの黒というなんの変哲もない彼女。
特別、話も上手くなく同期の友人も多くないため、いつも一人でいる。
コツコツと仕事をしているところしか評価が上がらない。
今まで意識すらしたことがない。
正直、どっちかと言うと昔から目立つタイプでそれなりにモテてきた俺は、山本さんみたいなタイプは殆ど、接触したことはなく苦手としていた。
それから席に戻ると上司から手招きをされた。呼ばれた会議室に入ると山本さんがいた。
「今度の出張は山本さんと一緒だから、よろしく」
彼女は席から立ち上がり、ペコペコと慌てながら頭を下げた。
「出張にはまだ数回しか行ったことなくて、お役に立てるかどうか、わ、わかりませんが。よろしくお願いします」
男性と喋りなれていないのか、俺の一挙一動に変に反応する。
「この通り山本くんを頼んだよ」
上司に肩を叩かれて頷くしかできない。
正直、とてもやりづらい。
これで営業につれていけるのか。
上司にはメンバーを変えてほしいとは言えるはずもなく、できる限りにこやかに対応した。
当日、駅で待ち合わせた俺達は新幹線に乗って出張先に向かい、営業周りをした。
夕方頃に取引先の約束の時間までまだ時間があった。二人で立ち尽くすわけにもいかず、彼女の顔色を伺う。
「次までまだ時間があるな。どこかで休憩しよう」
「あそこの珈琲が美味しいですよ」
彼女が指差した方を見ると、こぢんまりとしたチェーンの喫茶店があった。
二人で店に入ると、意外にもカップルが多かった。いかにもスーツの二人でまさかカップルとは思われないだろう。
「俺は珈琲頼むけど、山本さんも珈琲でいい」
「はい。私は自分で払います」
「いや、いいよ。ここは俺が出すから」
「いえ、大丈夫です」
それから、俺の方が先輩だから奢ると言っても頑なに断った。
女の子なら「嬉しいです。ありがとうございます」とか言えば可愛げがあるのに、そこまで断られると俺のことが嫌いなのかと思ってしまう。
「あの、奢られるのか嫌とかじゃなくて。他部署の先輩後輩という関係ですし、甘えるわけにはいかないので」
隣の部署の平野さんと来ればよかったな。
なぜだか一緒にいてもつまらなさが勝ってしまう。
ぼーっと店内を眺めていると不意に目の前で子供が転んだ。俺が慌てて手を伸ばして立ち上がらせる。
「大丈夫?」
「すいません、ありがとうございます。もう、お店で走ったら駄目でしょ」
お母さんに抱き抱えられて、子供は席に着いた。
席に戻ると、カップに肘が当たり珈琲がこぼれた。
あちゃー、俺は側にあったテーブル拭きで机を拭いた。なんとか片付いたところで、黙って見ていた彼女が俺に手を出した。
「その上着とネクタイ貸して下さい」
彼女はハンカチと鞄から取り出した染み抜きで上着とネクタイについた珈琲の染みを抜いた。
「ありがとう」
あっという間に染みを抜いて、その手際は慣れたものだった。意外にも家庭的な面という強みがあるんだな。
そういえば、毎日、バランスの良さそうなお弁当を持ってきている。
仕事を終え、ホテルに戻ると予約は隣の部屋で取っていた。
チェックインを済ませ部屋の前で彼女に声をかけた。
「じゃあ、下のロビーで明日は8時に待ち合わせで」
彼女は何か言いたそうにモジモジしていた。
「はい。あの、これからお時間は」
「あるけど」
正直、疲れていて部屋でお酒でも飲んで寝たかった。
「お部屋にお邪魔しても」
一瞬考えたが、彼女の手が震えているのが見えた。
「いいよ」
勘弁してほしい。
俺がいくらお人好しでも話をいまから聞くのはかなりしんどい。
これから人生相談か、会社を辞めたいとか言われたら知ったこっちゃないけど、人員が減るのは困るし、上司に俺が後押しして辞めさせたなんてことになれば、何か言われる。
「悪いけど今日は疲れてるからビールが飲みたい気分で。今からコンビニで買ってくる。山本さんは何かいる?」
「いえ。ご迷惑でなければ、一緒に行きます」買いに行きたいのは本当だが、咄嗟に考えた断る言い訳が通用しなかった。
俺達は近くのコンビニでスイーツやおつまみ、缶ビールとチューハイを買った。
勿論、山本さんがしつこく食い下がり割り勘だ。
部屋に入ると、彼女は遠慮がちに立っていた。こちらもいつ話を切り出されるか警戒している。
「その辺に座ってもらっていいよ。何か飲む」
俺はソファへ座るように促して、コンビニで買ってきた缶チューハイと缶ビールを見せた。
「では、チューハイを」
「明日はまだ仕事が沢山あるから二日酔いにならない程度に。お疲れ様、乾杯」
それから、同期の話やうざい上司の話で盛り上がった。
「実は珈琲が苦手で」
チラリと舌を出して笑う。
「言ってくれれば良かったのに」
彼女は鞄から何かを取り出した。
「これ、珈琲です。この間、珈琲好きだって言ってましたよね」
彼女は上目遣いで俺を見る。
「先輩のために準備したんです」
確かに出張前の打ち合わせでそんな話もしたな。悪いけど彼女は好みではない。
「ありがとう。それは明日の朝に頂くよ」
彼女はいつもは見ない笑顔を見せていた。
「山本さん、本当はよく笑うんだな」
言うことも意外にもノリが良く面白い。
「いつもは緊張して、何を話していいかわからなくて。同期とも上手く話せなくて」
「いまは普通に話せてるじゃんか。その方がいいよ」
彼女は頰を赤くして前髪を触る。
「これはお酒の力を使ってるからですよ」
彼女は強めのチューハイを飲んでから俺のビールまで飲み干した。
暫くして、流石に彼女の顔が赤くなってきた。
「先輩、本当に彼女いないんれすか」
「いないけど。っていうか飲み過ぎ」
明らかに呂律が回っていない。
「私、先輩とならいいですよ」
「それって」
彼女の顔をまじまじと見返す。
「だから、一夜の過ちになってもいいって言ってるんですよ。私に恥をかかせるつもりですか」
恥ずかしそうに手で顔を覆い隠した。
そんな事あっていいのか。据え膳食わぬはなんとやらって言うし。
「いや、今のは聞かなかったことにして下さい。先輩にその気がないのに誘うなんて恥ずかしい」
この子気は遣えるし、丁寧だし健気で本当はいいな。
そのまま流れで押し倒し、キスをした。
俺はこの日、一夜の過ちをおかした。
隣で目覚めた山本さんは昨晩とは打ってかわって、いつも通りに戻っていた。
「あ、ええと。おはようございます。部屋代、一つで良かったですね」
「経費だから大丈夫」
それからトントン拍子にデートや二人暮らしを始めて、結婚が決まった。
俺だってまさか、山本さんと結婚するとは思っていなかった。
結婚の報告をすると、矢本や豊島には、何で山本さんなんだと言われたし、山本さんのことを知っている女性は「ああいうタイプが一番早く結婚するなんてムカツク」と言っていた。
本当のことを言うと、もっと条件のいいこんな人がよかったなとか色々思うとこはあるけど、後ろめたさが勝って妥協してしまった。
彼女の初めての責任を取らなければいけない。
「お母さんが一人暮らしだから、ゴールデンウィークはお母さんのところに行こう」
俺は始めはそんな妻の言葉に違和感はなかった。
「あぁいいよ」
優しくしてあげないと。そんな生ぬるい空気が流れていた。
義父が亡くなり、一人になった義母。
義父は遺産を残してくれず、ポックリ亡くなったそうで、これまで由美と二人きりで生活していた。
俺達の結婚をそれはもう喜んでくれた。
息子が増えたみたいで嬉しいらしい。
「俺が運転するから」
淋しいだろうと年末年始は妻の母と暮らした。
結婚報告をして、時期的に少し余裕が出るからハネムーンを兼ねた旅行にでも行こうか。「ハネムーンはどこに行きたい」
共働きで普通のサラリーマン(ブラック企業だったことを除いて)お金はそこそこある。
「ええと、どこがいいかな。考えておく」
俺の両親は近所に住んでいて、1ヶ月に数回は母さんがくる。
「そういえば、母さんが今度うちに来るけど」
露骨に嫌な顔をする。
「早く言ってよ。それなら片付けないと駄目じゃない」
どちらかと言うとうちの母親は能天気な方で、妻に口うるさく言わない。
「なぁ、俺の母さんは嫌なのか」
「嫌ってこともないけど、だって血の繋がってないお母さんでしょ。姑さんだし。
料理の味や片付けまでみられるのよ」
「母さんだってそこまでみてないよ」
正直言って俺の父親は65まで大手メーカーに勤めていたこともあり、給料は沢山貰っていたし貯金や年金も沢山あり裕福だ。
仕事人間だったところとヘビースモーカーな点を除いては優しくていい父親だ。
ある日の夕食後、改まって話があると言われた。
「お母さん仕事やめたの。お母さんの年金は言ってもしれてるし、遺族年金だけじゃ生活も」
「仕送りをしたいってこと」
「勿論私のお給料からでいい」
いつもいつも優先されているな、と思いつつ波風を立てまいと黙っている。
「分かった。勝手にしていいよ」
二人の給料はそこそこで俺もまだ多くはない。今後、子どもができることも考えると、貯金しておきたい。
義母の家に行くといつも材料は俺達が買っていく。
それは妻の気遣いらしい。
「母さんに三人分を買いに行かせるのは悪いじゃない。それに、近くにスーパーがなくて大変だろうし」
車で行く俺の方がもっと大変だけどな。
「いつもありがとうね」
義母は優しくておおらかな人だ。
それだけで帳消しにしてしまう。
「二人がくるから果物とおつまみ沢山買ってあるからね」
「お気遣いなく。でも、ありがとうございます」
世話を焼くのが好きらしく、色々と良くしてくれる。
この間、郵便の伝票を家で見つけた。
送付先と内容を見ると、生活用品と米だった。
俺に隠れて送っていたようだ。
問い詰めようかとも思ったけど、こんなことで夫婦仲を悪くしたくない。
だけど、そこまでする必要はあるのか。
真っ青な顔をした彼女がキッチンからやってきた。慌てて伝票をポケットに隠した。
「お母さん階段から落ちて、怪我をしたみたい。腕を骨折して腰を痛めたって」
「本当か。急いで様子見に行かないと。
どこの病院か聞いたか」
「ええ、実家の近くみたい」
車を出して、すぐに病院に向かった。
薬のような匂いとじめっとした感じがやっぱり病院は苦手だ。こんなところに幽霊やらがたむろしてもおかしくない。気が滅入る。
大部屋に通され、ベッドに向かうと腕は上から吊られていたが、お義母さんは意外にも元気そうだった。
「あら、来てくれたの。早かったわね」
「お母さん大丈夫?心配したのよ」
「うん、検査は怪我以外は異常なしだったって。3日したら様子みて退院できるらしいわ。暫く、リハビリは必要だけどね」
妻は安堵した表情を浮かべた。
どうやって怪我をしたのかまでは聞くことができなかったが、一先ず安心した。
「暫くは私達の家で住みなよ。お母さん何も出来ないだろうし」
彼女の真剣な横顔を見る。
同居については聞いてないし、相談もされていない。
勝手に決められて少しムッとしたが、それもそうだ。当然かもしれない。
暫くはしょうがない。
「本当に?助かるわ。やっぱり、あの階段危ないと思ってたのよ。お風呂も昔ながらだし」
「確かに。今後のためにリフォームしないとね」
「そうね、でもリフォームするにもお金がかかるでしょ」
「そうねぇ。でも、私達も出すから。いいでしょ、孝輔さん」
彼女とお義母さんは俺の方をじっと見つめた。
全額とあっては、この先の俺達の新婚生活や子供に支障が出る。
義母が思いの外ピンピンしていて、ここぞとばかりにおねだりしてくるのが、もやっとくる。
お義母さんもまだ六十代だし、まだ介護する年齢まではいかないし。
一つの考えが頭をよぎる。
同居した方がリフォームよりも安くつくのでは。
でも、一度同居してしまうと介護も全てが俺達に降りかかり子供に不自由をかけるかもしれない。
「少し考えさせて下さい」
家に帰ると由美は気が気でないようで、家事も手につかない様子だった。
暫くは買ってきたお惣菜を食べて過ごしていた。
それから数日して、お義母さんを病院に迎えにいき家に招いた。
お義母さんの家は遠いこともあり、普段は頻繁に俺達の家には来ない。
寧ろいつもはこちらから出向いている。
「わぁ、久しぶりにきたけどやっぱり綺麗ね」
「お母さん、お茶か紅茶、珈琲どれがいい」「珈琲を頂こうかしら。これから1ヶ月くらいはお世話になるわね」
それから我が物顔で家事に口を出していた。口を出すというより手を出すのほうが正しい表現なのだが、勝手に片付けをしていたり、家具が移動している。
もっとも妻の方は母と住めて嬉しそうだが、食べたいものを食べたいときに作っては食べ、妻と買い物に行っては和菓子やお菓子を買ってくる。
味の好みもお義母さんの好きなメーカーの牛乳やヨーグルト、お茶まで買い込んだ。
快適に住んでもらうのは構わないが。
「貴方達みたいな新婚に言うのはなんだけど、いつ子供はできるのかしら。孫が楽しみだわ」
「お母さん気が早いよ。そのうちね」
「それと、カーテンはこっちの方がお洒落よね」
会社から帰るとカーテンを勝手に変えられ、自分の家かのように家具や電化製品を配置していた。
嫌な気はしないがなんか心の底に渦巻くものがある。
はっきりと口には出せない。
「本当に毎日楽しいわ」
孤独死するかもしれないお義母さんがこんなに楽しそうにしていると、やっぱり俺達が面倒をみないといけないなと思う。
松葉杖無しでも歩けるようになり、お義母さんが一度家に戻った。家の片付けやなんやで忙しいと言っていた。
郵便物は週に一度取りに行ってあげていたため、溜まっていなかった。
この先どうしようかと考えていた。
引っ越すなら一人で出来ないだろうから、段取りをしないと。
けれど、俺は一緒に住もうと申し出ることは出来なかった。
一緒に住むことはすなわち、この先の自由はない。
「話があるんだけど、いいか」
「いいけど、なに」
「本当にお義母さんと住むのか」
妻は目を丸くした。
「それがどうしたの」
考える余地もなかったのか。
まるで拒否しないのが当然のようだ。
ここで一度話し合っておかないと。
それから、妻と何日もかけて話合いをした。
俺達の結論はリフォーム代を俺達で七割出し、お義母さんが要介護になれば、施設に預けるということだった。
この先の子供のことを考えると、やっぱり介護の面で子供の世話を出来なくなってはいけないし、子供部屋をお義母さんに貸していたのもある。
お義母さんの方にはリフォーム代を出す旨を話した。
見積もりを取ってきてもらい、口座にリフォーム代を振り込んだ。
完成した後に家に出向くと、バリアフリーにもなっていてこれで暫くは心配しないで大丈夫だろうと胸をなでおろした。
壁には見たことのない絵画が飾ってある。
義母は何かいつもと違い晴れやかな表情をしていた。
服もいつもは婦人服のシンプルなものを着ていたが、フリルのついたお洒落なものを着ている。なんだか色気づいたみたいだ。
妻に目配せをしたが、気づいていないようだ。
「いつもありがとうね。
そうだ一緒にランチに行きましょう。
いつも孝輔くんには良くしてもらってるもの。今日は私が出すわね」
そのまま俺が車を運転し、案内されるまま行くと、近くのホテルに着いた。
ホテルのラウンジには料亭や高級なコースが沢山ある。
「お義母さん、あのこんなところ」
お義母さんに促されるまま、景色の良い窓際の席に座る。
それぞれ1万円もするコースを頼んでくれた。
「お母さんそんなに出して大丈夫なの」
「大丈夫、大丈夫。気にしないで」
流石に妻も心配そうにしていた。
お義母さんは今にも笑い出しそうなくらい、ニコニコしていた。
微笑むと真っ赤なルージュが光り、ブランドの鞄とその指には指輪が光っていた。
お義母さんを家まで送り、帰りの車の中で釈然としない気持ちを吐き出した。
「なぁ、最近なんか派手になってないか」
「んー、確かに今まで服なんか何でもいい感じだったもんね」
「好きな人が出来たとか。お義母さんも全くない話じゃないだろう」
「いいや、それはないと思うけど」
そういって笑い飛ばした。
「やっぱり変だよな。もしかして、大病して余命が僅かしかないとか」
バシッと俺の腕を叩いた。
「変なこと言わないでよ。あんなにモリモリ食べてた人が大病に見えるの?」
「見えないけどさ、お財布に万札が4枚。サラリーマンはまず持ってないな。今度きいてみよう」
「なんて聞くのよ」
頭を捻っていた。嫌みなく何か聞けるだろうか。
「たまたま今日は沢山持っていただけかもよ」
まさか、良くない投資話に手を出したり、宗教に入信して買わされたのだろうか。
俺の入金したお金が余ったのか。嫌な想像をしてしまう。それにしても、そんなに多額でもないし。
豪遊できる程のお金をあげた記憶はない。
「確かに領収書は見せてもらったもの」
妻に確かにリフォーム代の領収書を見せてもらった。
そんな心配も杞憂に終わり、お義母さんの方から打ち明けてきた。
言いたくて仕方なかったのと、あまりにも奥さんが心配するから話すしかなかったのだろう。
「実はね宝くじが当たったの。誰にも言わないでね。強盗とか入ったら怖いでしょ」
「いくらなの」
由美は眉をひそめた。
「5000万。あと十年そこらでは十分すぎるでしょ。勿論、唯一の家族の貴方達には残しておくわ」
「そんなのいいのに」
いいわけないだろう。
同じ会社でも年上の分、給料が多い俺の給料で生活をしていて将来の資金と言って残りは殆ど貯金。
俺はお小遣い生活の割にお義母さんと妻は色々と買っている。
その上、妻は自分の買い物の時以外は俺のクレジットや口座を管理している。