鏡越しの君 #6 ダブルパラレル(完結)
まるで、妻とお義母さんの生活を支えているATMみたいだ。もやもやとした気持ちを抱えたまま、なんとなく妻との距離が離れていった。
家に届いた請求書を見ると、またこんなに出費が増えてる。妻は休日も友達と遊びに出掛けて殆ど家にいない。
貯金もどんどんと減っていき、弁当は作ってくれなくなり、会話が減った。
お小遣いは増えず、弁当はコンビニで出来るだけ節約する。
最近、夜遅く帰ってくるようになったり、触れられるのを嫌がり同じタイミングで寝室に来なくなった。妻がトイレに行った時に妻の携帯からメッセージの受信音が鳴った。
携帯に手を伸ばし、思いとどまった。
見てはいけない、見たことによって夫婦関係が破綻したと聞いたことがある。
いくら家族でもプライベートは侵食してはいけない。
友人とのメッセージの一言一句まで見られて良い訳じゃないんだ。
だけど、確かめられずにはいられなかった。
震える手で携帯のロック画面を見ると、メッセージが一件入っていた。
ー裕太 明日、夕食にいこう。いつもの場所で待ち合わせしよう。ー
自分の携帯で写真を撮り、何事もなかったかのように元に戻した。
ある日家に帰るなり、俺は妻に打ち明けた。
「いくらか分けて貰えないのか」
彼女は呆れたようにため息を付いた。
「何を言ってるのよ、お母さんのお金なのよ」腹の奥からふつふつと何かが湧き上がってきた。
「今までいくら援助したと思ってるんだよ」「それは」
彼女は口籠った。
煩わしそうにスーパーの惣菜を取り出した。「そんなこと思ってたの。家族だから助け合いでしょ」
「お義母さんが一人で使いきれないじゃないか。だから、分けてもらって、リフォーム代も返してもらおう」
彼女はキッとこちらを睨んで言った。
「こんなに勝手だとは思わなかった。本当は援助なんかしたくなかったんでしょ。
偽善者ぶって」
カッと頭に血が上った。
彼女と結婚しなければ良かった。
そうすれば今よりもっといい生活をしていたかもしれない。
「離婚だ。早くここに書いて出ていけ」
机に既に記入済みの離婚届を出した。
「離婚するなら、慰謝料と財産分与の納得いくまで裁判だからね」
やっぱりこういう奴だったのか。
「どの口が言ってんだよ。お前なんかと結婚しなければよかった」
目の前にスマホの写真を突き出した。
「何これ。後をつけてたの。信じられない」
興信所に依頼して浮気調査を行っていた。
信じたくはないが、完全に黒だった。
いままでモテてこなかったのに、結婚した瞬間、合コン通い。
妻の浮気のことは知っていた。男に貢いでいることも。どこのどいつかは知りたくない。
こいつより俺は雄として劣っているのか。
「私が悪いっていいたいの。ろくに相手もしないで放っておいた貴方も悪いでしょ」
全て魔が差したんだ。結婚さえしなければ。
暴れる彼女の首に手をかけた。
はっと気がついた時には、既に動かなくなっていた。
ここに来て、犯罪者になってしまった。
息を整えて、手探りで手鏡を探した。
自分の部屋の引き出しにしまってあった手鏡を取り出した。
息を吹きかけて埃を飛ばし、服の袖口で鏡を拭き上げると前のように綺麗に光っていた。
真っ暗な部屋に月明かりを反射して、鏡が光っている。
反射光で自分の顔の半分が照らされる。
ゆっくりと息を吐いて、鏡に手を伸ばした。
ここの矢本もとてもいい奴だった。
どこまで戻るか分からないし、賭けに出るしかない。
次こそ上手くやろう。
頭痛に顔をしかめ、目を開けると目の前は実家でもなく、見たことのない天井だった。
ゆっくりと起き上がり、周りを見回した。
スーツがソファに掛けられていて、色の統一された家具が並んでいる。
見るからにどこかのホテルのようだった。
上質なベッドの手触りを確かめていると、誰かが隣で寝息を立てていた。
恐る恐る顔を覗き込むと、元妻だった。
一気に緊張感で息が詰まる。
この分岐点に戻ってきたのか。
音を立てないように服を着ると、荷物を持って部屋を飛び出した。
一度家に戻り、出社した。
会社の玄関ホールで見慣れた背中を見つけ、声をかけようと近づいたが、矢本は俺の顔を見たのに完全に無視をしてきた。
後ろからやってきた豊島とは挨拶をしている。
同じエレベーターに乗り込んでも、まるで俺がいないように振る舞っている。
「お、おはよう」
怪訝な顔をした矢本と豊島は俺を見た。
「おはよう、田渕」
そのまま前に向き直り、話の続きを始めた。
エレベーターを降りると、肩を叩かれた。
「おはよう、田渕。今日の昼はあそこのカツ丼食べに行こう」
遠くから見ると球体に見える多田とガリ勉の下川だ。この二人は冴えないクラスの三軍タイプだ。
俺も同類だと思われる。
よりにもよって、つるんでるのはこの二人なんて。
溜め息が出そうになって思い直す。
こいつらは害がないし、仲間内で楽しくやっているだけで、まだ、高木たちとつるんでるよりはマシか。
高木たちはマウントの取合いで足の引っ張り合いだ。気に入らないやつがいるとすぐにグループから追い出す。
矢本はいつも追い出されたやつとも仲良くやっていた。
この際、矢本とは友達ではないとしても、仕方ない。
自分の席につき、仕事を始めた。
暫くして休憩しようと給湯室に向かっていると、山本さんと廊下ですれ違った。
俺に小さく手を振ってきた。彼女ヅラかよ。
それから何度も話しかけようとしてきたが、
目を合わせずに無視をした。
昨日の夜のことがチラッと頭を過る。
こいつに関わるとろくなことが無い。
あの時は後ろめたさで、付き合おうと言ったがそこから間違いだった。
もう、惨めな思いはしたくない。
書類のコピーを取っていると、背後に立たれる感覚があった。視線を感じる。
「孝輔さん」
「馴れ馴れしく話しかけないでくれる」
「そっ、そうですよね。ごめんなさい」
矢本を遠くから眺めていると、悔しさに歯噛みする。
豊島の位置が俺の場所だったのに。
楽しそうな笑い声が執務室に響いている。
多田と下川と昼食を食べていると、一つ向こうのテーブルに座っている人がチラチラとこちらを見ていることに気がついた。
俺があっちを見るとサッと仕切りの向こうに隠れる。トイレに行くふりをして後ろを通ると、見覚えのあるバレッタの女性がいた。
俺の見間違えでなければ、山本さんだ。
おいおい、勘弁してくれよ。俺は今後一切関わりたくないっていうのに。
気づかなかったふりをしてトイレに行き、テーブルに戻った。
「何か顔色悪くね。何か良くないものでも食べた」
心配そうに二人が俺を見る。
「いや、大丈夫」
「ならいいけど。それより、昨日のテレビ見た」
美味しそうに多田がラーメンをすすり、大盛りのチャーハンを口に運んでいる。
こんなに美味しそうに食べ、気持ちいい食べっぷりを見ると、純粋に感心する。
ここの俺は多田のそういうところが好きなのかもしれない。
矢本は変にカッコつけた店に行っていたし、誰が魅力的な雄か常に戦っていて、合コンなんてお手の物だった。
その正反対にいて何も考えていない、この二人が平和で羨ましくもある。
多田達とクリスマスに男ばかりで集まってワイワイ騒ぎ、彼女がいなくても楽しくやっていても、家に帰ったら現実に引き戻されて、どこか虚しさで急に寂しく感じてくる。
俺はこの先このままなのか、このままでいいのかと矢本と一緒にいたときを顧みる。
俺は結局のところ、ないものねだりだ。
仕事が欲しいけど、ブラック企業には勤めたくない。彼女は欲しいけどメンヘラは嫌。
友達の幸せを純粋に祝えなかったり、この生活でいいかと妥協点を探す。
結婚した場合の柵(しがらみ)も知れたし、暫くは恋愛はいいかな。
少し癒されお腹も満たされたところで、会社に戻る。席につくと、目の前に珈琲の入ったカップが置かれる。
湯気が立ち、良い香りが鼻をくすぐる。
「ありがとう」
顔をあげると山本さんだった。こういうのをやるのは田中さんあたりだと思っていた。
驚きで固まって、口をパクパクと動かした。
周りを見ると俺にだけ入れてくれたらしい。
落胆ぶりを見せないように、会釈だけした。
豊島達には特別扱いされてるとからかわれた。
それから執拗に飲み物を入れてくれたり、机の中に何度もお弁当が入っていたりした。
気持ち悪いから中身は捨てた。
厄介なやつに引っかかってしまった。
後悔をしてももう遅い。
会議室に荷物を運ぶ後ろ姿を見つけた。
明らかに大きい荷物を両手で抱えて重たそうにヨロヨロと歩いている。
絶対に手伝いたくない。
だけど、不器用で要領が悪い彼女は荷物を何度も落としているのを見ているとつい、後ろから声をかけてしまった。
「それ、貸して。運ぶから」
彼女に話しかけられないように、早足で会議室まで何も話さずに運んだ。
「美味しかったですか」
彼女は顔を赤らめて恥ずかしそうに言った。
「迷惑だからもうやめて。お弁当箱は洗って返すから」
荷物を置くとそそくさと部屋を出た。
部屋を出たところの廊下にいた多田が声をかけてきた。
「俺、こういうのあまり邪推とか、からかったりしてはいけないと思うんだけど。
田渕って山本さんと何かあった」
いい奴の多田が微妙に気まずそうな顔をしている。
「いや、別に。なんで」
まさか。周りに俺としたことバラしたんじゃないだろうな。冷や汗が背中に流れる。
「俺が荷物運ぶの手伝おうかって言ったら、山本さんが手伝わなくていいって言ったんだよ。田渕さんに手伝ってもらうからって。名指しだったし」
ほっと胸をなでおろした。
「なんだ、そんなことかよ」
「田渕に気があるのかなぁって。っていうか、付き合ってる?
田渕は喫煙室にいたけどって伝えたら、意味ありげに笑ってたから」
顔が熱くなるのが分かる。
自分の知らないところで俺と付き合っていると匂わせていたのか。多田だけでもちゃんと弁解しておかないと。
「それは違う。完全に否定しておく。
俺は山本さんとは付き合ってないし何も無い。他の人にも俺のこと聞かれたら言ってくれ」
それから山本さんはイヤリングやネイルをしてきていて、髪色も明るくなり周辺の男性社員は裏で彼氏が出来たのだと噂していた。
暫くしてある話が俺の耳にも届いた。
山本さんは彼氏は会社内にいて、イヤリングは彼氏にプレゼントしてもらったと言っているらしい。
本当にもしかすると、俺以外の誰かと付き合っているのかもしれないが、俺の知らないところで勘違いされているとしたら。
でも、俺の勘違いではないことが証明されつつあった。
どこにいても彼女の視線を感じる。
書庫にいるときも、書物の向こう側にいた。
スーパーで買物をしていると、向こうの棚越しに目があった。
コンビニで立ち読みをしていると、硝子越しに目があった。
気づかなかったふりをして、その場を立ち去った。
家に帰れば、母さんと父さんと妹がいる。
それなりに仲良くやっているし。
何でもないことが幸せなのかもしれない。
奮発して、ケーキを買った。
「おかえり。コウスケの好きなカレー作ったよ」
聞き慣れない声に身体を強張らせる。
「た…ただいま。ってお前」
キッチンにはニコニコと笑う山本さんがいた。母さんは彼女の横で料理を教えている。
「水臭いわねぇ。彼女の山本さんでしょう。
ずっと隠してたって聞いたけど」
「急にごめんね。挨拶はちょっと早いかなって思ったんだけど」
山本さんは料理を作りながら、母さんと仲良さそうに肩を寄せ合っていた。
「い、いや。そうじゃなくて。なんで俺の家知ってんの」
彼女は俺が変なことを聞いたように首を傾げた。
「めっちゃ料理上手ねぇ。今度は筑前煮教えてあげるから」
「楽しみにしてます。コウスケ、今日はね夏野菜入れてみたの」
「あぁ、そうなんだ」
パニックのあまり、問い詰めることができない。
腕には包帯が巻かれていた。
見るからにリストカットだった。
親の世代では馴染みがなく、恐らく気づいていない。
彼女は母に勧められるまま席に座って、俺の横で夕食を食べていた。
父さん母さんは嬉しそうにニコニコとこっちを見て、俺達の馴れ初めなどを聞いてきた。
俺はまるで知らない人のプロフィールを横で聞いていた。
流石に家まで来て、親に1年半前から付き合っていると言うのは限度を超えている。
夕食を食べ終えると母さんは泊まっていくように言ったが、俺は家に送ると伝え彼女の家に向かった。
二人きりで話をする必要があったからだ。
街灯だけの薄暗い道を彼女の後ろを歩いていた。
「どうして家に来たんだよ。山本さんと俺は付き合ってなんかないだろ。デートも行ったことないし」
彼女は振り返ると俺を見て目を細めた。
「行ったじゃないですか。二人でホテルに泊まって」
「待ってくれ。あれは会社の出張だろ。
しかも、別々の部屋を取ってたのにやってきたのは君だ」
記憶のすり替えか既成事実を作ろうとしているのか。
「髪の毛を乾かしてくれたじゃん。愛しそうに」
動悸が止まらない。選択を間違えた。
基本的には前回の分岐点より前には戻れないようだし。
確かに、あの日はどうかしていた。
会社の後輩と一夜を共にすると、何かしらトラブルになることは目に見えていたのに。
「何度も思い出して」
笑いながら、彼女は自分の髪をゆっくりと撫でた。
「幸せだった。愛されてると思った」
彼女の微笑みは優しく聖母のようにみえる。
「愛してると言ってくれた」
流石にそんなことはないと思う。
だけど、100%ないとは言えない。
兎に角、トラブルなく別れるためには、なんとか俺のことを諦めてもらおう。
その為に幻滅させないと。
既に会社の人にはバラされているのかもしれないが。
俺が屑だと言われるのはこの際、どうでもいい。
上手い切り抜け方を考えていると彼女が立ち止まった。
一旦、落ち着いて声をかけようと息を吸った。
「ここにいるの」
ここにいるって、どこに、なにが。
耳の奥がぐわんぐわんと鳴っている。
さっきの言葉を何度も反芻した。
自分の耳を疑った。
「…なんて言った」
本当に聞こえなかったんじゃなくて、確認したかった。
聞き間違いであってほしいと、願っていた。
息が止まる。
街灯に照らされた横顔が物憂げに瞬きをして、ゆっくりとお腹を擦っている。
「DNA鑑定したら誰が父親って分かるね。そうなれば、一緒に育ててくれるよね」
狼狽えているのがバレないように、ゆっくりと後ずさる。
まさか。もう俺に逃げ道はないのか。
「初めてだったんだから、1人しかありえない。あぁ、楽しみだな」
今回も駄目だったか。次はどこまで戻れるだろう。ここで逃げても会社で会う。
いっそ殺してしまおうとも考えたが、ここでまた、罪を重ねたくない。
少なくとも前回の世界線では俺は捕まったのかもしれない。
「もう俺に関わらないでくれ。兎に角、そういうことだから」
踵を返して家に帰ることにした。
またやり直そう。
背後から笑い声が響いている。
「そっかぁ、階段から落ちたら。
あなたに突き落とされたことにしたらいいんだ」
低い声色に一気に体温が下がった気がした。
「そうしたら面倒見てくれるよね」
考え方が普通じゃない。
あることに気が付き、血の気が引いていく。
もしかして、お義母さんが落ちたのって。
こいつの入れ知恵か、こいつが突き落としたのか。
彼女は目の前の階段を見下ろした。
コンクリートのかなり長い階段が続いている。
「やめろっ」
悪い悪夢であってほしい。
「幸せになりましょう」
次に目が覚めるとベッドの上にいた。
腕を動かそうとすると、固定されていて点滴や呼吸器など色々な機械に繋がれていた。
薬のツンとくる匂いに周りを見渡すと、病室のようだった。
ベッドの脇の椅子に母さんと父さんが座っている。
声を出そうとしても上手く話せない。
目の前で医師が俺に気がつくと、母さんと父さんも泣きながら俺に抱きついてきた。
精密検査の結果、腕と足の骨折はあったものの、奇跡的に脳に損傷は見られなかったらしい。数日で退院できる。
「暫く、意識が混濁してしまうかもしれませんが、怪我などは確実に良くなっているので、徐々に元に戻っていくでしょう。
ゆっくりと治療していきましょう。
後遺症が全く無いとも言い切れないので、覚悟はしておいて下さい」
説明を聞いて驚きとショックはあったものの、両親の顔を見て安堵した。
ふと、母の後ろで動いた影がゆらりと俺に近づいてきた。
目を腫らしている彼女の顔を見て、絶句した。
「足を踏み外した私をコウスケさんが助けてくれたんです」
泣きながら母さん達に必死に謝っていて、母さんは肩を抱きながら、あなたが気にすることはないと彼女を慰めていた。
あの時、彼女を助けたと思ったが彼女に突き落とされたのは鮮明に覚えている。
否定しようにも呂律が回らず、言葉もうまく発せない。
「孫ができたなんて嬉しいわ」
母さんに言ったのか。身体の力が一気に抜けた。
母さん達が帰ったあとも献身的に世話をしてくれた。
彼女は薄暗い部屋で俺の身体に繋がっているチューブに手をかけた。
「ここなら、ずっと一緒だね」
奈落の底に突き落とされたようにグラリと意識が遠のいていく。
彼女の鞄からチラリと手鏡が見えた。
接点のなかった彼女と俺が出会ったのは赤い糸だったのか。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
僭越ながら、最後にイメージソングがあるのでお伝えさせてください。
ダーリン/須田景凪 様
ずうっといっしょ!/キタニタツヤ 様
交わることの少ないそれぞれ小説と音楽を知って興味を持っていただき、年齢やジャンルを問わず良い作品が広まっていけばいいなと思っています。
是非、聴いてください。