鏡越しの君#4 バタフライエフェクト

スマホの目覚まし時計が鳴る。スマホの画面は五月十六日になっていた。
時間は不可逆的だ。

下に降りると、見慣れたエプロン姿が振り向いた。
「おはよう。今日はちゃんと起きてきて珍しいわね。今日は雹かしら」
「母さん。良かった」

じんと鼻の奥が痛くなる。
ほんの数日会っていないだけのはずなのに、懐かしさを感じる。
慌てて欠伸が出た素振りを見せる。

俺が犯してしまった罪の申し訳なさと情けなさ、一瞬でも彼女を取ろうとした罪悪感に襲われる。

「何よ。変なの」
母さんが怪訝に俺をみる。
「何もないって」
母さんの用意してくれたご飯を食べると、何でもない平凡な日常が一番、幸せなんだと感じる。

テレビを観た時に、目の前の景色に違和感を感じた。

いつも目の前のソファに座っているばあちゃんがいない。
歳のためと痴呆が相まって、早起きでつまらないとぼやきながら、ボーッといつもテレビをみていた。

ついでに母さんが朝ごはんに目玉焼きとソーセージを焼いてくれることがまず珍しい。
母さんは基本的には食パンで済ませるし、滅多に朝ごはんは作らない。

「あら、おはよう」
驚いて振り返ると背の大きい、それでいて少し整った顔の男がいた。
「孝輔、遅刻するぞ」
低い声で呟いた。

「父さん」
紛れもなく俺の父さんだ。
反射的に立ち上がっていた。
記憶の奥底に眠る父さんの面影そのものだった。
記憶のなかでは若かったはずだが、時間の経過を考えると妥当だ。
あの新聞の写真と同じだった。

緊張が走り、警戒で全身が強ばる。

ずっと俺は二人家族だったはず。父さんがいる。なぜ、ここに父さんが。
父さんは俺の前の席に座り、朝食を食べ始めた。

また、どこかに作用したのか。
一時期、離婚さえしなければ経済的にも楽だったのになんて考えていた。
父さんは俺を捨てたのかと恨みがましく思っていた時は、母さんに反抗ばかりしていた。それが影響されているのかもしれない。

よく見ると家の中の様子も違う。綺麗でテレビは大きいし、整っている。
明らかに家の中の生活水準が上がっている。
母さんは綺麗好きと言っても適当は適当だし、力仕事は後回しにしていた。
聞いていた父さんは綺麗好きだったらしいな。
離婚の理由は聞けなかった。

「ばあちゃんは」
部屋を見回すと、ばあちゃんの使っていた私物の一つも見当たらない。
でも、確かにばあちゃんがいた痕跡はある。

「何言ってるのよ、おばあちゃんは山口の老人ホームにいるじゃない。
まだ、寝ぼけてるの」
「あぁ、そうか」
食べ終えた食器を片付けながら、父さんと母さんのやりとりを横目で見る。

適応してくると、初めて知るのではなく忘れていたものを思い出すように、父さんと母さんの仲睦まじい姿を思い出した。

「お兄ちゃんまだいたの」
セーラー服の女の子が横にいた。
母さんの作ったお弁当を鞄に詰めながら、生意気そうな横顔をまじまじと見つめる。
「何よ気持ち悪い」
「日向子こそ。早く学校行かないと遅刻するぞ」
「余計なお世話だって」

父さんと母さんが離婚しない未来にいるとしたら、父さんの殺人事件も起きないし、妹がいてもおかしくない。
「じゃあ、行ってきます」
これはこれで悪くないんじゃないか。
家族が仲良く暮らしている。
これ以上は何も望まない。

俺は改めて携帯の中から、加奈子の連絡先を探した。
「あ、これ」
発見した加奈子とのメッセージは、業務連絡のみだった。
やっぱりそうか。
そんなにうまくいっている訳がないもんな。
肩を落として仕事に向かう。

昼休憩に女子休憩室の前を通った時だった。加奈子の声が聞こえてきた。
盗み聞きをするわけじゃないが、現在の俺との関係を知りたかった。

まだ、進展していないだけかもしれないし、今から距離を縮めれば良い。

「絶対、田渕さんも豊島さんも加奈子のこと気があるって」
甘ったるい聞き覚えのある声が聞こえる。
「えー、正直矢本さん以外は眼中にないって。付き合うだけ付き合ってもいいけど、本命にはならないよね。
第一、田渕さんってただのおまけじゃん。
矢本さんの隣にいる取り巻きっていうか、金魚のフン?」

聞かなければ良かった。百年の恋も冷めたな。苦い後悔の味を噛みしめる。
加奈子と付き合えたのは、まぐれだったと諦めよう。

今まで通り、矢本とは仲が良いままで矢本は昇級さえしていたものの、性格は変わっていなかった。

あの時のことは根に持っているし、信用を失っているが、この世界線の矢本には何の罪もない。
世界線によって多少の性格の違いはあるだろうが、矢本には作用していないと見られるから、殆ど影響はないと考えていいだろう。

つまり、危惧すべきは恋愛になればいつか裏切られる可能性があることだけだ。


高校の友人だった高畑亮から連絡がきていた。 二ヶ月に一度は飲みに行く仲だったが、ここ最近、個人的に色々とあって連絡を取れていなかった。

仕事終わりに居酒屋で落ち合う約束をした。
「久しぶりだな、孝輔。元気にしてたか」
人懐っこい笑顔と後ろに流した髪がどことなく取っつきやすさを醸し出している。
「久しぶり、亮。俺は変わりないよ」
今日は彼の背がやけに高く見える。

「痩せたんじゃないか」
「そんなことないぞ。それより孝輔は少しやつれたか」
「そう見えるか」
会社とプライベートの心労が祟り、不眠症と抜け毛が気になってきていた。
「俺は何でも食べられるから、何でも食えよ。今日は俺のおごりだ」
俺よりも大企業に勤めていて、気前がいい。

酒が回ってきて、本気にされないだろうと分かっていながら、話半分で最近身の回りで起こる不可解なことを話した。
「なら、ここが何個目かの世界なんだな。信じがたいけど」
「そうなんだよ。そのせいで加奈子を手放した」
亮は苦笑しながら酒を煽る。
その腕の高級腕時計がキラリと光っていて、無意識に自慢をされている気分だ。

「永遠の物なんてないさ。
いつかは寿命がくる。てか、それはただのキモい妄想なんじゃないのか」
「そんなことないぞ。加奈子とあんなこともしたし。白い肌を」
亮は笑いながら俺の方に手を伸ばして、話を止めた。
「分かったって。その加奈子とやらが恋人だったんだな。信じてやるから。
もういいだろ。
今は前を向いて新しい恋人を探すのが先決だ。ちょっとトイレ」


「立てるか」
俺は咄嗟に亮に手を伸ばした。
「流石にそこまで酔ってねぇっての」
俺は本当に純粋な気持ちで助けようと手を伸ばしたんだった。
彼が手を振ってトイレに向かう。

トイレから戻ってきた亮と他愛のない近況報告をして、なんとなく高校の時の話になった。
「亮、バイクはどうした」
「どうしたって、持ってないし」
亮はバイクが好きだったはずだ。
頭にノイズが入ったように、記憶が所々甦る。

彼は高校三年生の秋にバイクで事故を起こして、下半身不随になっていた。
車椅子生活を送っていたはずなのに、今は普通に歩いている。

「何はともあれ、孝輔からして、この世界線はいいんだろう」
「うん」
「じゃあ、いいじゃん」
亮の携帯に着信があり、彼は焼酎を煽りながら、携帯を俺に見せた。
そこには仲睦まじい夫婦と子供が映っていた。
亮の隣に映っている女性に見覚えがあった。
高校を卒業して十年も経っていないため、あの頃の面影が残っている。
三年間片思いしていた石丸優花だった。

「優花から連絡があった。いつ帰ってくるのかって」
困ったその顔は幸せいっぱいだった。
この世界線では優花と亮は付き合い、三年生のとき「実は優花が妊娠した」と打ち明けられた。

あの時は大騒ぎだったし、俺も一瞬だけ亮を恨んだ。
どうして避妊に失敗したのかと問い詰めた。
結局、優花は出産し、それから二人は高校を卒業して結婚した。

友達としては複雑だ。

俺の思う現実世界では、ずっと亮のことを気にかけていた。
怪我したときにすぐに病院に駆けつけて、何度も病院に通った。
亮は事故にあってから塞ぎ込んでしまって前向きになれなかった。
それから、恋人もおらず一生一人かもしれないという不安をこぼしていた。

常に寄り添っていて、バイト探しや引っ越しするときも手伝っていた。

だからこそ、親友として喜んであげたい。
楽しそうに幸せそうに生活を送る彼を応援したい。
だけど、この世界の俺は好きだった優花をとられ純粋に喜べずにいた。

「忙しくてさ、中々帰れないけど。子供ももうあれから六歳になってさ」
亮は元々頭のいいやつだった。
勉強が良くできたから、いい大学に行けるはずだったのに、あの事故で挫折し気力を失った。
フリーターでアルバイトに行ったりしていた。

この世界では俺とは比べ物にならないくらいのいい大企業に勤めている。

やっぱりこの道が正しかったんだな。
嫉妬や羨望が入り混じる。

「実は、亮は高校のときに事故で車椅子になってるんだ」
俺の中の黒い感情が渦巻いている。
「寝ぼけてるんじゃないのか」
「もしもこの世界がパラレルワールドだったらどうする」
半分酔っている眼で亮がじっと俺の方を観た。
「冗談じゃない。仮にこの世界がお前の言うパラレルワールドだったとしても、俺はこの世界に残る」
しっかりと締められたネクタイに色の統一されたスーツが決まっている。
俺とは住んでいる世界が違う。

ここにいると本当の時間軸のことが分からなくなってくる。
元々車椅子は亮だったのか?
俺じゃなかったか。
「俺はこのまんまがいい。今が幸せだ」
幸せってなんだろうな。

現実世界で最後に会った亮は、全てを受け入れて、それでも前を向こうとしていた。
転職活動に力を入れ、生き生きとしていた。

「それってお前自身が自分を否定してることなんだぞ。
ずっと、俺は足がなくても何でも出来るって言ってたのに」
嫌だ。何度も挫けそうになりながらも頑張って生きてきた亮はどこに行った。

「そんなこと知るかよ。そんな綺麗事。五体満足が一番だと誰でも思ってる」
それは少しの優越感と俺の元から離れないという承認欲求そのものだったのかもしれない。
それはそうだよな。俺の方がどうかしていた。

加奈子は逃したけど、この世界は亮の幸せでもあるし、全く駄目な訳じゃない。
家族は幸せだし。
「ごめん。何か頼むか」

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