誰かのために自らを捧げる!それが私の生き様!山岸達矢さん
もともとは人と関わるのが大嫌いだったという山岸さん。さまざまなご経験をする中でその価値観を反転させ、今では「自らを捧げる」という生き様を追求することでたくさんの人の夢と夢の繋ぎ役としてご活躍されています。そんな山岸達矢さんにお話を伺いました。
プロフィール
出身地 新潟県柏崎市
経歴 2006年 柏崎工業高校 電子機械科 卒業。2010年 新潟工科大学 工学部 機械制御システム工学科 卒業。2010年 オザキエンタープライズ株式会社 入社。アミューズメント部門ホールスタッフ、スイミングスクール部門インストラクター。2016年 損害保険ジャパン日本興亜株式会社 入社。生命保険、損害保険のトータルアドバイザー。2018年 ふれあい保険サービス株式会社 入社。
現在の職業および活動 保険代理店の営業マンの傍ら、ドリサラ講師や各種営業代行など、多くの方と関わりながら人生を楽しんでいます。保険やお金のことはもちろん、夢の応援、成し遂げたいことのサポートなど、私と関わってくれた方に山岸達矢を捧げます。
座右の銘 おもしろきこともなき世をおもしろく すみなしものは心なりけり
記者 よろしくお願いします。
山岸達矢さん(以下、山岸) はい。よろしくお願いします。
「自分を捧げるという生き方」
記者 山岸さんは、現在はどのような活動をされているのですか?
山岸 本業は保険屋なんですけど、ITベンチャーの執行役員として営業や戦略の提案などにも関わっています。あとドリームサラリーマンミーティング(ドリサラ)というNPO法人で講師としても活動しています。
私には今までたくさんの肩書きがあって、色々なことをしてきました。今の仕事をする前はスイミングのインストラクターをしていましたし、その前はパチンコ屋の店員をやっていました。ただ、それらの全てに共通して言えるのは、人と多く関わる仕事だということです。
記者 一番大切にされている価値観を聴かせてください。
山岸 誰かのために「山岸達矢を捧げる」という生き方ですね。これは全くもって私の価値観です。誰かのために動くことが、私にとって一番のモチベーションなんです。たくさんの人と出会って、その人が何かを必要としているときに私を頼ってくれたら、そこには全力で応えてあげたいんです。お金になろうがなるまいが、誰かの役に立つということが、私にとってのガソリンなんです。
最終的には、自分が死んだとき、お葬式に参列してくださった方々がみんな笑顔で夢を語っているというのが私の夢なんです(笑)。
「何を成すのかよりもどう生きていくのか」
記者 他にも具体的な夢やビジョンがあれば聴かせてください。
山岸 世の中には素晴らしい夢やビジョンを持たれている方はたくさんいらっしゃいますが、それらの夢やビジョンが個々で発展していくのではなく、私が優秀な参謀として関わることで、その夢と夢が連動し、世の中が発展していってほしいと思っています。
具体的には、すごく端的なイメージになってしまいますが、ビジネスマッチングですね。そのマッチングによって化学反応が起きてほしいです。私はそのきっかけを与えられたらと思います。それが私の夢であり、ビジョンですね。
記者 その夢やビジョンに気づかれたきっかけは?
山岸 今、私が講師を務めているドリサラの夢発見会に参加したときですね。「山岸達矢を捧げる」という価値観を見つけたときは、もうかなりの感動でした。「俺、これが指針だったら生きていける!」って思ったんです。自分を捧げることが世の中の発展に繋がる。その発見はもの凄く大きなものでした。
実は私には、”自分で” 何かを成し遂げたいという夢がないんです。明確なものがなくて、夢発見会にも4回も足を運びました(笑)。そこで、その都度、新しい夢を見つけるんですが、一貫性がなくて、なんかぼんやりとしていて、ただその場でやりたいことを言ってるだけだなって思ったんです。でもようやく4回目で「山岸達矢を捧げる」というキーワードが見つかって、そのときに、どうやら自分が求めていたものは「やりたいこと」ではなくて「生き様」だったんだと思ったんです。
「やりたいこと」に対してはそんなにモチベーションが湧かなくて、その過程が重視されるような「生き様」が見つかったときには、これは面白い世の中になりそうだと思ったんです。山岸達矢を捧げることで世の中が発展していってほしいと思います。私にとっては「何を成すのか」よりも「どう生きていくのか」そっちの方が大事なんです。
「大きかった祖父の存在」
記者 その生き様を大切にされる背景を聴かせてください。
山岸 祖父の存在がとても大きかったですね。祖父は私が20歳のときに亡くなったんですけど、道理に反したことをすると愛ある拳が飛んでくるようなじいちゃんでした。野球が好きで巨人ファンでした。共通の趣味が野球観戦だったので、例えば、誰かがホームランを打ったときとか、お互いが風呂に入っているところに言いに行ったりして、そういったやり取りはよく覚えています。それ以外の日常会話は実はあんまり覚えていないのですが(笑)でもじいちゃんのところには、よく人が会いにくるなぁとは思っていましたし、あと、よく人に物をあげているなぁとも思っていました。
私が20歳のときに、わりと元気だったのに突然逝ってしまい、びっくりしたんですが、その話が地元の町内にひろがったときには、たくさんの人がじいちゃんの死に顔を見に来てくれて、何だかよくわからないけど、この人は凄い人だったんだなぁってそのときに思ったんです。じいちゃんは、何を話すにも主語が自分以外の誰かで、いつも誰かのために、自分が出来ることは何でも率先してやる人でした。じいちゃんのお葬式でそのような生き様を見せつけられて、自分もこういう死に方をしたいと決めたのかもしれないですね。
「はじめて自分で人生を決めた瞬間」
記者 今までの人生のなかで一番のターニングポイントは?
山岸 就職のときですね。大学までは地元の新潟にいて、そのタイミングでぼんやりと東京に出たいなと思っていたんです。私は一人っ子だったので、それまで親には何でも好きなことをやらせてもらいました。親に言えば何でも叶ったので、今回も簡単にいくかなと思って「俺、東京に出たいんだけど」って言ったらめちゃめちゃ反対されたんです。しかも就職先がパチンコ屋さんだったからなおさらですよね。
でも反対された後にそのパチンコ屋さんの経営者の方が、東京から新潟の私の実家にまで足を運んでくださり、親に挨拶をしてくれたんです。私もそのときは親と真剣に話をして、やっとOKが出て東京に出られるようになりました。生まれてはじめて自分で自分の人生を決めた瞬間だったと思います。
記者 それまでは何でも好きなことをやらせてもらったと仰っていましたが、自分で決めたことはなかったのですか?
山岸 確かに好きなことをやらせてもらってはいましたが、そのときの動機はいつも自分の外にありました。例えば、野球がやりたいと思ったときは、“周りのみんながやっているから” 自分もやりたいとか、逆に野球を辞めるときも周りや環境のせいにして辞めたいと言ったり、だから本当の意味で、全部を自分で決めて、親とも真剣に向き合った経験は、生まれてはじめてだったと思います。
はじめて就職をしたそのパチンコ屋さんは、私の礎となる会社でした。人を大切にすることや感謝の気持ちなど、そういった人間としての基礎を全て教えていただいた会社で本当に有り難く思っていますし、就職して本当に良かったと思っています。
「私がやる気になる条件」
記者 今後はどのようにしていきたいですか?
山岸 繰り返しになりますが、私でお役に立てることがあれば、何でもしていきたいです。それが時には保険やITベンチャーの仕事かもしれないし、ドリサラの講師かもしれない。私が日々、人間関係をつくっているのは、そのトリガーをつくるためでもあるので、私を信じ、頼ってきてくださる方には、それなりのことを返していきたいんです。
誰かの役に立っていることが私にとっての生きる価値なんです。「人と関わること」と「その人に必要とされていること」この2つが私にとってのやる気になる条件なんです。
記者 素晴らしいですね。人との関係性を大事にされ、山岸さんを介して、多くの人が発展していく、そんな夢で溢れる世の中が創れると良いですね。本日はありがとうございました。
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【編集後記】
今回、インタビューの記者を担当した、見並(圭一、香織、義一郎)、森川です。
インタビュー中は、終始、笑顔でお応えいただき、とても和やかな雰囲気でお話を伺えました。個人主義が進む世の中ですが、誰かのため、何かのために自分を捧げるという山岸さんの生き様には、自他ともに愛し、何よりも関係性を大切にする、本来の日本人としての魂を垣間見ることができました。貴重なお話をありがとうございました。