「元プロアカペラー」を作った人たち ~岩城の場合~ 第1話 「兄」
長い文章を書く機会を得ると、どうしても半生を振り返りたくなる悪癖がある。
自分が芯から自己顕示欲に支配された人間なのだなぁと、恥ずかしくなる。
今後の文筆活動のためにも、早めに「封じ手」として片付けておこうと思う。
昭和が終わるほんの少し前、東京の調布という町に僕は生まれた。
地元最寄り駅は京王線の仙川駅である。
よく「え?仙川って世田谷区でしょ?」と言われるが、仙川駅は調布市仙川町である。
あと、「せんかわ」と発音される場合がある。
地元民的には正直どっちでもいいが、どちらかと問われれば、どう考えても「せんがわ」である。
「せんかわ」の付け入る隙は全くない。
そんな仙川の隣町「緑ヶ丘」に、三兄弟の次男坊として生を受けた。
2つ上の兄は文武ともに優秀であり、幼い頃から今まで自慢の兄である。
鈍臭い僕を、小さな頃は色々な所に連れていってくれた。
小学校に上がってからも「岩城の弟」として、随分楽をさせてもらったと思う。
しかし中学校に上がる頃には、それも少し疎ましく感じ始めることになる。
成績優秀で人前に立つことを好む兄は、校内でも注目される存在であった。
1学年2クラスの小さな学校で、全員が全員の存在をなんとなく認知している中にあって、兄は特に際立った存在だったと思う。
その弟として、如何に振る舞うか。
今思えば気にする必要など皆無であるのだが、当時の僕としては、何をしても兄と比べられているような気分であった。
先生方や保護者方、同級生たちの「お兄さんすごいね」の言葉を何度聞いたかわからない。
そこに一切の悪意はないし、こちらもただ誇らしく思えば良いものを、そこは僕も、一丁前に中学生だったわけである。
ましてや、後に半生をわざわざnoteに綴ろうとするような奴である。
「自分の話をさせたい」と思うのは、仕方のないことである。
ある日担任に、真っ向から「兄貴を超えなきゃね」と言われたことがあった。
今だったら、なかなかの問題発言かもしれない。
同窓会で先生にこの話をしたら、メチャクチャに謝られた。
でも僕は謝ってほしかったわけではない。
心からお礼を言いたかったのである。
兄には、勉強では到底勝てない。
運動なんて足元にも及ばない。
当時はユーモア面でも大きく差をつけられていた(中3と中1じゃしょうがない気もするが)。
才気活発な岩城の、ちょっと暗くて気持ち悪い弟。
それが僕だったわけである。
兄を超えるどころか、日々兄のスペックの高さを思い知らされながら、気付けば進級が近付いている。
兄にとっては卒業の3月、人生の転機は突然に訪れる。
僕の通っていた中学校は、やたらと合唱好きな学校だった。
3年生が卒業前に体育館でミニコンサートを開くのが、慣例になっていた。
学年全員合唱の他に、持ち技を持っている有志が各々の特技を披露する時間もあった。
ピアノを弾く人、リフティングをするサッカー部、漫才を披露する強者など様々である。
その頃世間は、空前の「ハモネプブーム」であった。
後にRAGFAIRがオリコンでワンツーを獲得する2002年、その年である。
多分に漏れず我が校でも急造アカペラグループが結成され、兄はそこに居た。
幼少の頃から歌が好きだった僕は、兄がテレビのアレをやるんだ、と非常にワクワクしていた。
疎ましく思いながらも、兄は常に畏敬と羨望の対象であったのだ。
遂に兄のグループの出番。
歌い出した刹那、僕の体に電流が走った。
これだ!!!!
ハーモニーの素晴らしさに感銘を受けた、訳ではない。
むしろ中学生の急拵えチームがバチバチにハモられては、こちとら商売あがったりである。
そう、上手くはなかったのだ。
だから、良かったのだ。
少年岩城慧は、遂に見付けたのだ。
これなら兄貴に勝てる!!!!!
あまりにも幼く浅はかな興奮であるが、だからこそ長きに渡って僕を突き動かすことになったのかもしれない。
まだ未熟で柔らかな心だったからこそ、芯の芯までギュッと掴まれたような、そんな感覚を得られたのだろうか。
兎に角、僕のアカペラ人生は純粋な「憧れ」ではなく、
そこに劣等感と自尊心をグチャグチャに混ぜた、
言ってしまえば「思春期のそれ」を原動力にスタートすることになる。
この話は随分前、プロになる以前に、兄にもしている。
僕がハモネプの決勝に行った少し後のことだと思う。
俺はアンタに勝ちたい一心でアカペラを続けている、と言うと、
兄は「それはアレだな、すごく嬉しいな。」と、感慨深げに言った。
あ、お兄ちゃんには、何やっても勝てないのだなあ、と、
僕も嬉しくなったのだ。