沖縄漫画まとめ~やまとんちゅから視たうちなー。
「海の姉弟」(1973)手塚治虫先生
《本土復帰直後の沖縄に対する内地民の後ろめたさの反映作その(1)》
占領下での沖縄の扱い、そして日本の一部に復帰してからの経済復興が豊かな自然と引き換えにされること―それらが生んだ悲劇が描かれます。
手塚先生が経済発展のダークサイドを真摯に見つめる一方で、展示プロデューサーを務められた沖縄海洋博(1975-6)が沖縄の経済的自立にそれほど寄与せず乱開発を招いたというのは悲しき歴史の皮肉です。
〔本作中、そして「美味しんぼ」(雁屋哲先生/花咲アキラ先生)にもあったように、海女=女性の素潜り漁師は本来沖縄には居ません。というより、海女自体日本の本土と韓国済州島のみに存在するレアな職業文化だそうです。〕
「黒い珊瑚礁」(1975)柴田昌弘先生
《本土復帰後の沖縄に対する内地民の後ろめたさの反映作その(2)》
復帰後の沖縄で観光産業が大いに熱を帯びていたであろうことが内容から察せられますが、一方で沖縄女性・座間味萌を通して住民のいささか冷めた目線も描かれます。
また不良米兵2人の存在は復帰後も米軍に脅かされる沖縄を象徴しているようです。
「ドーベルマン刑事」『沖縄コネクション』(1975)武論尊先生/平松伸二先生
《本土復帰後の沖縄に対する内地民の後ろめたさの反映作その(3)》
原作者・武論尊先生が元自衛官なだけに、ベトナム戦争時の米軍による沖縄民の扱いなどは恐らく事実に基づくものと思われますが、一方で“生粋の沖縄民”のはずの金城さんが説く“沖縄民のあるべき方向”は、いささか内地民の願望が入り過ぎている気もします。
〔基地抗争の中で機動隊員が沖縄住民に対し差別的な言葉を使ったと問題になった事件がありました。
この時その言葉を用いたのは機動隊=警察の人でしたが、自衛隊の方には沖縄駐在に際しての要項があり、それが実は米軍の統治マニュアルから作られていて、原文で“住民”に匹敵する単語が敢えてそういう言葉に訳された旨、図書館で沖縄史についての資料を漁っている際に目にした記憶があります。〕
「SEX」(1988~92)上條淳士先生
後述の拙作「恩讐のキジムナー」と同じく、女生徒が学校行事で沖縄を訪れるところから始まります。(その後は福生・横須賀と基地の街をロードムービー)
登場する沖縄の住民がかなりネイティブな沖縄言葉を用いるのに対し、沖縄反社の比嘉武士という人物は、後述の「沖ツラ」でもネタにされていた当地でたいへん多数派の姓を持ちつつ、沖縄言葉は使わず本土仕様の日本刀に魂を込め、ついには姓をも放棄します。だがそれは、断ち難く濃い沖縄の血ゆえの野望を果たす手段であったーという、本土への野心と沖縄への土着心が交錯するキャラです。
沖縄反社の中でもう一人、友利洋介というキャラが登場しますが、こちらは「To-y」の哀川陽司と同じく作者の遊び心が込められた造形で、絵面はまんま“沖縄の江口洋介😆”
「沖縄県民のオキテ」(2014)書浪人善隆先生&伊藤麻由子先生/瀬田まいこ先生
後述の「沖ツラ」と同じく内地民のカルチャーショック、こちらは実話エッセイです。
「沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる」(「沖ツラ」)」(2020~)空えぐみ先生
沖縄言葉はじめ、内地民が沖縄の風土文化に触れての驚きを綴るカルチャーギャップ系の極めつけですが、ラブコメとしても楽しめます。
TVアニメも放映され、
先行するオリジナルアニメ「白い砂のアクアトープ」
に対しこちらはあくまで内地民視点ではありますが、沖縄の魅力を伝えるアニメとして後に続くことになるでしょうか。
最後に拙作
「恩讐のキジムナー」(2023)
煌めかんばかりの沖縄の海と島への憧れと、歴史の紡いできた影(当然、支配的姿勢で沖縄に接してきた本土の民に投げかけられる)とが合わさってこうなりました。
沖縄戦の鉄血勤皇隊員を綿密な取材に基づいて描かれたという小説「殉国 陸軍二等兵比嘉真一」
にあるような、“国のために立派に戦って命を捧げる”というのが当時の沖縄のみならず軍国少年全般の真実だったとも云われますが、自分にはどうにも受け容れ難いところがあり、結果こちらに出てくる沖縄の少年兵には戦後視点が入っているかもしれません。
まとめのまとめ
今回の記事を書くにあたり、沖縄言葉で例えばこちら側の人間を指す言葉一つとってみても、どれが適切か悩みました。というのも、“ヤマトンチュ”が前述の作品(1)や(3)ではかなり敵意を含ませる形で出てきましたので(書き手が内地民である以上、自省自虐的に使われたと説明すべきか❓―戦中戦後の経緯を考えれば当たり前ですが)。
〔一説によると現在的には “やまとんちゅ”はまあ普通ですが、“やまとんちゅー”と伸ばす場合はいささかdisが込められてるとか〕
では内地民=ないちゃーなら良いかというと、こちらも当人たちがドヤって自称するようなものではないそうです。
沖縄言葉あるいは島言葉には、沖縄民の魂が込められているとも聞きます。
沖縄文化を理解するため一つ一つ読み解くことは必要ですが、解っていないのに安易に使えるものではない―。
距離そして長きに渡り受け継がれてきた文化、それらが為す独自性というものを決して軽んじて(甘く見て)はいけないなーと。