令和の虎に出演して変わった等身大の自分
いつもXのポストをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
旧受験生版Tiger Funding30人目の志願者、日本プロ麻雀協会23期前期の木村洋晟です。
旧受験生版Tiger Fundingに出演、動画が公開されてから1年と7ヶ月経過しました。旧受験生版Tiger Fundingに出演して人生が変わった私ですが、出演前の人生と出演時のこと、そして出演してから人生がどのように変わったのかを振り返りながらまとめたいと思います。現在は「青い令和の虎」とチャンネル名が変わり、本部が運営する大学生版、林社長が主宰となった大学受験版、そして私の出演会で最後希望金額上限の100万円を全額積んでいただいた水木先生が主宰をされている医療系版…など、ジャンルが分かれておりますが、青い令和の虎に出演したい、学生でできることがまだまだ少ない中、人生を変えたいと考えている方へ向けての参考になればと思います。また、当時出演後、考えられないほどの応援DMを頂戴しました。私は当時法政大学合格を目指しておりましたが、高校へ行かずにバイトを続けていた為基礎学力があまりにも乏しい状態でした。あれからお金が振り込まれ、バイトを辞めてから試験本番まで約1ヶ月、1日20時間以上ほぼ睡眠を取らず勉強をしました。あれからX(当時はTeitterだったでしょうか)のDMの通知が大量に来てそれを合間に見て励まされていたことが強く記憶に残っております。そんな方や、純粋に木村洋晟について気になっている方へこの文を読んでいただけると嬉しいです。
生い立ち
生まれとクソガキの自分
私は2004年10月22日に大阪府四條畷市で生まれました。幼稚園に入って1年半経過した頃、両親間の関係(詳しくは分かりませんが、両親は物心つく前に離婚していました。)大阪府富田林市へ引っ越しました。当時の親は教育熱心で、私立の幼稚園に入れて頂き、幼稚園に併設されている右脳教室(幼稚園児向けの学習教室)へ通わせて頂き、ピアノも小学校の頃まで9年ほど通いました。
小学校5年生の頃、母親の職が不安定になり、その頃から家庭崩壊が始まりました。転職を繰り返す母は、当時は相当大変なように見えました。私は幼い頃は自転車で訳のわからないところまで走りこけて大怪我をしたり、木に向かって子供ケータイや家の鍵を投げてケータイの防犯ブザーが鳴るピンを抜いたり鍵を無くしたり(筒を抜くと自動でそ母へ連絡がいく仕様でした)して母の仕事中に迷惑をかけておりました。その度母が仕事を早退して、、、とそれが原因で転職をすることになったかもと推察をすると、その面に関しては頭が上がりません。
小5から始まる家庭崩壊、有頂天な私の鼻を根元からへし折る富中生、母の期待ほど賢くなかった私
小学校5年生の夏ごろから変化がありました。徐々に母が私に口を聞いてくれなくなり、日々の暴力が多くなってきました。
小学校6年生12月、母親が地元の新聞の切り抜きを見せてきました。そこには、「大阪府初の府立公立中高一貫校」と書かれており、名前を大阪府立富田林中学校・高等学校としておりました。既存の公立高校に中学校を併設し、6ヵ年教育で京阪神(京大・阪大・神大)に1学年120人中40人入れるというものでした。母には
お前は学校で成績が1位なんだから、、、と、ここに入るように言われました。しかし内心地元で初恋の女子がおり、また友達もいたので地元の中学校に進学をしたかったのですが、ここに合格して入学すると母も喜ぶのでは、、、と、母が塾に入れてくれたのもあり入学に向けて猛勉強をしました。倍率5倍を突破し、無事入学できたのですが、塾の仲間は私以外全員落ちてしまい、またどうやら入学した生徒のうち半分は1つの大手中学受験塾出身らしく、すでに大きいコミュニティがあり、友達0から始まった私は少し怖っかたのを覚えております。正直当時の私は合格した事実に有頂天になってしまい、この120人の中で一番天才なのは俺だと思っていました。しかし、入学式の自己紹介でその伸び切った鼻ははなからへし折られました。世界遺産検定1級、英検2級、漢検準1級、帰国子女でアメリカから帰ってきました、等意味のわからない経歴がポンポン飛び交いました。最初の中間テストでの私の成績は396/500点。平均以下でした。数学好きの先生が中1に対して授業中フィボナッチ数列を延々と語っている学校です。まるで天才が天才にする授業でした。私はこの成績を親に見せたくありませんでした。しかし見せざるを得なくなり、見せると母親の顔が綺麗に青ざめ、ボコボコに殴られその日は自分だけ晩飯抜きでした。この瞬間に私は母の期待を裏切ったことになりました。そこから母の家での態度がガラッと変わりました。
負の係数の2次間数のように悪化する家庭環境
それからの崩壊のスピードは早かったです。なんせ食事や風呂など生きる上で最低限のものが与えられなかったので、体調を崩し、不登校になり、の負のループに突入していました。学校の友達にも家庭環境をバカにされ、気分が悪かったので居場所がなく、たまに行って入り浸る場所は近所のゲーセンでした。太鼓の達人が好きでした。家族での会話は全くなく、弟が1人いるのですが、弟と母の談笑は私にとっては不協和音のBGMでした。なんの脈絡もなく殴られたりすることはザラで当時近くに住んでいた小学校の友人が数人いたのですが、彼らからは会うたびに心配されました。
食事はというと、その友人の実家が太かったのでお金を借り、スーパーでカップ麺を買ったりして生活していました。イオンのTOPVALUの1個68円のカップ麺には助けられました。旧受験生版Tiger Fundingの私の動画の切り抜きがバズり、そこにはカップ麺高校生と書かれていましたが、この頃からカップ麺ヘビーユーザーでした。
始まる施設での生活
一時保護
そんな中2の2月のある日のこと、夜中に親が発狂を始めました。その日は友人の両親にご飯に連れて行ってもらって帰宅した後でした。いつも通りまたサンドバッグかと思ったいたら、「お前財布から抜いたやろ、5万」といわれ、頭は真っ白。そんな記憶はありません。やってないと否定しても信じてもらえず、その日はとってもいないお金を夜中中布団叩きで殴られながら探させられました。そもそも取っていないのでどこにあるかわかる訳もありません。しかしどこかにないかと祈りながらないお金を探しました。
結局見つからず、翌朝。その日はもう体もボロボロだったので休もうとしたら、学校へ行くように言われました。行かなかったら父親を呼んでお前を半殺しにすると言われました。(当時の両親の関係は、縁を切ったのではなく、父は母に養育費を払い、たまに電話して近況報告をしている状況でした)そんなこと言われても、、と思った時には、リビングで立ったまま寝落ちしていました。何寝とんじゃ、と母が私に向かって投げた茶碗の淵が私の額に直撃し、私は目覚め、目を開けたら大量の血が流れていました。母が急に焦ってガーゼとテープで私の頭をぐるぐる巻きにしましたが、これで行けとまた言われたので、休んで父が来たらほんまに殺されると思った私は自転車を漕いで学校へ行きました。着いたとはいえ、ぐるぐる巻きのテープ状態で教室に入ったらまたバカにされると思い、保健室へ直行。いつも母のことを愚痴っている先生にどうしたのかと聞かれたので、母には電柱にぶつかったといえと命令されましたがありのままを伝えると、いつも殴られて飯もありませんと行っても冗談と思われあしらってくるその先生が急に態度を豹変し、私に巻いているガーゼを外し出しました。どうやら結構な傷ができていたらしく、額の骨が見えていたらしいです。すぐに外科へ向かい、7針ぐらいでしょうか。額を縫うのは人生初の経験でした。学校に戻る頃には今朝母に巻かれたガーゼの10倍ほど大きいガーゼでぐるぐる巻きにされてました。6,7限の英語だけ受けました。
帰る前に担任に呼び止められ、カウンセリングルームとやらに行きました。そこには、大阪府の児童相談所の職員がいました。どうやら保健室の職員が通報してきたらしいです。その夜から一時保護所での生活が始まりました。1ヶ月ほど続いた保護では、久しぶりのまともな飯と寝床が確保されました。天国かと思いましたが、次第に数少ない友人が恋しくなり、担当した職員には早く帰りたいと伝えていました。戻ってきた頃には春休みでした。天国と言えども、食事と寝床以外は苦痛で、中の他の保護児童は変わった人が多く(私も変わっていたかもしれませんが)、施設の中では小学校の頃ゲームの広告がきっかけで覚えた麻雀のことばかり考えていました。
最初は担当した職員も私に対して災難やったな、、、と優しくしてくれていましたが、帰る頃には態度が180度変わっていました。家庭内での虐待に関する私の訴えは全く聞いてくれず、信用してくれず、親が言う嘘まみれの内容が記録として残りました。春になり、自宅での生活が再開し、時々面談をするのですが、毎度怒られてばかりでした。5月にまた一時保護されるのですが、その頃の私は完全に限界を突破していて、病むの三段階先のような状態でした。友達もお金をもう貸してくれなくなり、家族は毎回私を置いて外食へ行くので冷蔵庫には何もなく、この3ヶ月間はまともなものを口にしていませんでした。職員が書く面談記録には、私は毎日母親の財布から5万円ほどを盗み、(月150万円です)弟にはフライパンで暴力を振るうどうしようもない非行少年という内容が記載されていました。その年のGW、ついに友人から、このまま借りたお金を返さないなら縁を切ると言われてしまいました。1人ではありませんが、当時友人から借りていた額は合計すると5万円を超えていました。当時の私はカンザキイオリというアーティストが好きでした。有名な曲の中に、親に虐待され、学校でも家庭環境を理由にいじめられており、いじめっ子を不本意で殺してしまって逃げてきた事が契機で2人で家出をして金を盗んで財布とナイフを持って家出をして、逃避行の旅をし、最後は片方は誰も何もないところでナイフで首を切って死を選択し、もう片方は死にきれず警察に捕まり、自由になった後回想するという歌があります。当時このアーティストが東京でライブをするという情報を友達から聞いた私は、東京でそれを見て死んでやろうと思いました。ただ借りた金は返さないとと思い、母の財布から6万6千円を抜き、とりあえず近所の丸亀製麺でたらふく飯を食い、コンビニでジュースを買い、友達の借金を全て精算し、新幹線に乗り、家出をしました。しかし、切符を有人の窓口で買い、いざ乗り込むとなった時とてつもない恐怖が私を襲いました。そう、私にはこのクソガキにはあまりにも無謀な計画を実行する勇気が欠けていたのです。結局横浜で折り返し、その日の夜には帰宅してしまいました。友達にお金を返せて、たらふく飯を食って正直満足でした。元から携帯に母からの鬼のような着信があったのですが、案の定帰ったらボコボコに殴られ、椅子を投げられ、無茶苦茶でした。その場で警察を呼ばれました。その日は翌日親子で出頭することを条件に帰られましたが、夜中中殴られたことは言うまでもありません。翌日警察の判断で、2回目の一時保護が決定しました。2回目は1回目と違い、個室というVIP待遇でした。(保護所に入る前、またはその中で問題児と判断されたら個室になるらしいです。)そこは24時間窓とカーテンが閉まっていて、陽の光が全く当たらず、人との会話は10日に1回の完全に親に洗脳された担当職員からの罵詈雑言だけなので、本当にノイローゼになったのかと思いました。そこでも勿論非行少年のいうことは信用してもらえず、ついに私は家庭裁判所送致となり、鑑別所に1ヶ月ほど入っておりました。これでついにグレた非行少年の仲間入りです。昔どこかで刑務所をモチーフとしたドラマか映画を見た記憶がありますが、完全にその中に入ったような生活でした。思い出したくないので生活の詳細は割愛させていただきたいですが、一つ言えるのは、なんで私がここにいるのかは全く理解できませんでした。暇な時間が多く、本を読めますが制限があるので、残りはその中にある高校生が読む数学の参考書をずっと読んで、それでも暇な時は1,2,4,8,16,32,64,128…65536…と、2の累乗を紙に書き連ねていました。(今でも2の19乗までは暗記しているのですぐ言えます)1ヶ月後の少年審判のために国性弁護士さんに弁護を依頼しましたが、職員の記録は覆せないと一蹴され、残りの面会時間で中1の頃学んだフィボナッチ数列の話と、暇な時間に書いた2の累乗の夥しい量のメモを見せると、今まであった少年の中でこんな話をしてきたのはお前が初めてやと言われ、そのあとは会うたびに指数関数(2の累乗のメモを見せたからでしょうか)の話をしていました。何かの小説で読んだ、オイラーの等式の話をしたら、対数(log)の話が始まり、少ししたところで、審判の日になりました。弁護士の方からは、私にも君が職員が書いたような飛行をする人間には思えないので弁護したい。このような数学の話はいくらでもできるが、今回の場合は証拠がないので、力になりたいが、残念だが力にはなれない。と聞いていました。罪状(?)は虞犯で結果は児童自立支援施設送致でした。虞犯というのは、少年法にのみ適用されるもので、過去の行動から将来犯罪を犯す可能性が考えられる少年に対して宣告される犯罪予備軍の証(?)のようなものです。(詳しい弁護士さん間違っていたらごめんなさい。)翌月から、児童自立支援施設での生活が始まりました。
8月末の地元の花火に好きな女子を呼ぼうとずっと前から思っていたのですが、そんな夢は儚く散りました。
(現在これが原因で前科持ちにはなっていません。ご安心ください。)
施設っ子
施設には半年ほどいました。児童自立支援施設には、私のような虞犯程度の、実際に犯罪を起こしていない非行少年がいました。施設は寮生活で、久しぶりに同年代の人間と言葉を交わしました。午前中は施設の中にある中学校で授業を受け、午後は量の掃除をしたり、鎌で草を刈ったりなんかして時を過ごしました。今から振り返ると、この頃は人生の中で一番健康的な生活をしていたと思います。なんで私がこんな所に、、、と言う雪辱は以前から変わりませんでしたが、精神衛生的に考えるとこの半年間で結構回復しました。寮には寮ごとに寮長先生とその奥様の寮母さんがいるのですが、今でもたまに施設に伺っては顔を出したりします。旧受験生版Tiger Fundingに出た話をするとめっちゃ喜んでました。寮長先生も最近昇進したらしく、嬉しかったです。このお二人結構高学歴で、特に寮母さんは早慶を蹴って一橋を卒業した方らしく、たまに難しい言葉を使うので寮のメンバーは時々あれなんて言うてんのって話をしてました。あの時食べてた飯が一番美味く、今もカップ麺生活の私は時々あれを食うために戻りたいなと思ったりします。その中で趣味の話をしていた時に麻雀の話をしたら怒られました。笑
施設の中の面談で、高校への内部進学を蹴って就職して母と別居するか、内部進学して実家で暮らすか聞かれましたが、高校生になったら念願のバイトをして飯が食えると言うことと、初恋の子から離れてまで言ってつかんだ進学校の切符をしてたくなかったので実家での生活を選択しました。
高校生
バイト三昧
15回目の春が訪れ、実家に戻ってまた生活が始まりました。当時はコロナで緊急事態宣言が出ていたので高校生活は6月から始まりました。親にはバイトを禁止されていましたが、生きていけないので早速バイトを始めました。夕勤を希望していたのに早朝のコンビニ勤務→時給が最低賃金を割っている居酒屋はすぐに辞め、近所のファミリーマートでバイトをし、同時に引越しと倉庫、ポーカーのディーラーのバイトを掛け持ちしていました。コロナのせいでなかなか思うように稼ぐことができないながらもなんとか食い繋いで高校生活を送りました。内部進学の生徒とは全く話すことすらしませんでしたが、高校から入ってきた外部進学の生徒と仲良くなり、友達もできました。当時はやはり生活費を稼ぐことが最優先でしたので、年間の単位ごとの授業数を計算し、その33%未満のギリギリの日数を休みバイトに捧げたりしていたお陰で、評定は常に2でした。(1がひとつでもあると留年です)学期終わりにはどうにか2をくださいと、各授業の先生に土下座して課題をもらってなんとか凌いでいました。2年生まではそれで良かったのですが、いざ3年生になった時、受験という言葉を学校でも多く耳にするようになりました。受験のZの字も考えていなかった私は、時が経つにつれ焦りの感情を覚えました。進学校なので就職や専門学校に行く生徒は殆どおらず、受験モードに入っていきました。学校に行かずにずっとバイトをしている私はクラスの中では浮いていて、バイトするなら高校辞めろと言ってくる生徒もいました。親が受験料を払うわけがないので、高3の9月頭までにバイトで50万円ほど貯金をしました。しかし、その50万円は母に盗まれてしまいます。口座番号とパスワードを把握されていたのでしょうか。勝手に全額母の口座へ振り込まれていました。殺意を覚えて聞くも、母は認めず。当時の家庭はというと、母&弟と(3行ほど改行して、、、)私と言う関係が見事に完成しており、暴力こそ消えましたが会話は全くありませんでした。競馬で手元の1万円を50倍にするか、はたまたパチンコで12万5千発出すか、、、窮地に追い込まれてしまいました。とりあえず、学生ローンや市の福祉施設の公庫など、ネットの知識を頼りに検索して出てきた所に全て行ってみますが、社会的信用のかけらもない高校生に融資をするお人好しは誰1人としておりませんでした。せっかくこの時期から勉強に専念しようとしていた私でしたが、八方塞がりかと思いました。
令和の虎
何か打開策はないかと模索していた時、ある一つの申し込みフォームが目に入りました。googleで何か調べ物をすると下にGoooooooooogleと文字が出てきて、oの個数で検索の奥深くまで行くことができると思うのですが、それは6個目のoの中に隠されていました。「受験生版Tiger Funding 志願者申し込み」と書かれているそのサイトには、googleフォームがひとつ添付されていました。すぐにこの名前を調べると、Youtubeチャンネルがヒットしました。試しに一本動画を閲覧してみると、私の脳内にあり得ないほどの電撃が走りました。「これだ」と思いました。気づいた頃には申し込んでおり、私はこの番組に強い関心を持ち、何本か動画を見てみました。「これなら人生を変えられるかもしれない」と希望を感じました。連絡が返ってきて大歓喜。Zoomでの面談を済ませ、12月の頭に出演することが確定しました。誓約書を事前に書かないといけないのですが、嬉しくて翌朝投稿前に100均で木村のハンコを買い、1限の古典の授業中にウキウキして記入していたら、先生に見つかりました。「木村さん、何しているんですか」と言われたので、「人生を変える書類を書いてます!」と意気揚々に言ったら、クラスのみんなに笑われました。もう馬鹿にされても良かったです。周りの目など気にならないくらい私の眼は前を向いていました。とはいえ、出演する準備で何をすればいいかもわからず、ただ嘘だけはつけないと、法政大学E判定、東洋大学D判定、日本大学C判定のボロボロの模試の結果と単語帳を持って夜行バスで上京しました。
早朝、目に飛び込んできた東京の景色。「やれるものならやってみろ」と言わんばかりの景色でした。会場の新宿に行くと、夥しいほどの人の量。時間が1,5倍速されている様でした。3年前、本当に死ぬつもりでここにきていたらそうには感じなかったでしょう。12月のことなので、3年前のGWより気温は明らかに寒いですが、体感温度は当時より絶対に高かったと思います。
人生が変わる時
収録
指定されたビルは考えられないほど高く、私の前に立ちはだかりました。
中に入る前に携帯を見ると、高校から不在着信が入っていました。折り返すと、担任の先生に「木村、学校は。またバイトか。」と言われました。私は過去何回もこの言葉を聞き、「すみません。バイトです。」と返していました。しかし今の私は違います。「すみません、学校にはいけません。今私は東京にいます。人生を変える時間が今から始まります」と、どこかで聞き覚えのあるフレーズを自信たっぷりに言いました。どうせ止められるので、出演のことは詳しくは学校には伝えていませんでした。「はあ?」と呆れられましたが、それで良かったのです。
中に入ると控え室に案内され、今日当たる虎の一覧、収録時の注意事項を伝えられ、後は自由にとのことでした。何をしたらいいかわからなかった私は、とりあえずボロボロの単語帳を開きました。手は震えていました。単語は何ひとつ頭に入ってきませんでした。
少ししたら、岩井主宰がわざわざ挨拶しにきてくれました。完全に画面の向こうの方です。動画通りの見た目と言葉遣い、熱量で、動画の中で見ていた時から好きだった私はさらに好きになりました。
コンコンコン、、、と3回ノックをして会場に入った瞬間から、私の頭は真っ白になりました。あの1時間半の出来事は緊張しすぎてあまり覚えていませんが、皆さんが優しく少し緊張が和らいだのと、お金が積まれる度になんともいえない達成感を極度の緊張の中感じたことは覚えております。
完全ALL
「法政大学に合格して、独自の奨学金制度を作りたい。」収録中は虎の皆様からの質問にありのまま、等身大に回答しました。正直、プレゼン力は今も同じですが皆無でした。みなさん優しく、お金を積んでいただき最後には水木先生に100万円一気に積んでいただき完全ALLとなりました。「私になら騙されてもいい」と言っていただいたのを忘れることはありません。喜びと、現実感がないまま、帰路につきました。
それからは、このボロボロの学力を上げるため、1日20時間以上勉強しました。英単語をシス単1800まで覚え、古典はほぼ1から勉強し、社会は政治経済を選択し、蔭山先生の本を熟読、単語を覚え、代ゼミの直前無料講座で蔭山先生の授業をとり、質問し、解決し、長い1日を消化し続けました。朝からやっている喫茶店はなかったので朝5時の電車で代ゼミのある難波へ行き、朝からやっている喫茶店で勉強し、無料講座がある日はそこから塾が閉まるまで無料の分際でありながら居座り、閉まったらマクドナルドで終電まで勉強し、返ったら25時、といった1日を過ごし続けました。もちろん4時間の睡眠で足りるわけがなく、1日あたりモンスターを平均8本ほど飲んでいました。それでも眠い時は、小6の頃読んだ古典の吉野先生が執筆された「だからおまえは落ちるんだ、やれ!」に書いてあった手に針を刺して勉強しました。 (私の場合はシャーペンをブッ刺してました。)努力が実り、なんとかC判定の日本大学商学部経営学科にN方式で合格をいただきました。法政と東洋は落ちていました。
東京での新生活
いつまで経っても学ばない私
4月。17回目の春を私は東京で過ごしました。人生が変わりました。大学では友達が無限にできました。サークルは最初4つ入りました。(結局軽音サークル以外辞めました。)大学に初めて行った時に、同じ学科の人たちの中で親睦会を企画したりしました。正直、調子に乗っておりました。代償として、すぐにお金がなくなってきました。また、私は大学入学後の学費のことを全く考えておりませんでした。その為、岩井主宰に半期の学費分を融資していただきました。また令和の虎に助けていただきました。反省した私は、必殺技の猛バイトの末、学費の51万円をなんとか8月1日に返済しました。翌月、調子に乗ってしまい、友人からの誘いで免許合宿を計画しました。この頃から、ローンをあまり未来を考えずに組んでしまうという愚行をしてしまう様になりました。
年が明け、私は一つ考えました。奨学金も借りていて、バイトもしているのに、何故こんなにもお金がないのか。答えはあまりにも明瞭でした。家賃、交通費、食費、そのほか最低限の生活費、そして半期に一度の学費で、元から私に遊ぶ金などありませんでした。それに気づいた頃は時すでに遅く、免許合宿に行き、ローンの支払いが始まり、全く貯金ができていない私は、何度も破産しかけては必殺奥義の猛バイトで耐え、、、の繰り返しでした。
強制引越し
そんな私にもとうとう太刀打ちできない、奥義ではなんともならないことが起こりました。引っ越しを余儀なくされたのです。というのも、私は元々大阪でバイトをしていた頃のバイト先の先輩の家に家賃を半分払い居候させてもらっていました。しかし、理由は割愛しますが(トラブルとかではないです)居候ができなくなり、引っ越しせざるを得ない状況になりました。と言ってもアホな私には貯金など微塵もなく、八方塞がりになってしまいました。そこで、また岩井主宰に融資していただいたのです。またご迷惑をかけてしまいました。申し訳なさすぎて、土下座しました。引っ越しはアホの為とった運転免許で車で行い、サークルの友達にお願いして手伝ってもらって終わらせましたが、家具家電初期費用でどれだけ頑張っても70万円ほどしてしまいました。(もしかしたらもっと安く済ませる方法があったかも知りませんが、相当リサーチしましたがわかりませんでした。)現在は、主宰への返済と各種ローン、家賃光熱費水道費定期所持費用分割日本プロ麻雀協会年回費分割(?!)(後述します。)で食費等を抜いて17万円ほどかかってしまっている状況です。(家賃は5万円強です)学費は一部免除になっているのですが、半期で16万円ほど納めないといけなく、今口座に17万円しかなくまだ前期分払っていないので破産寸前の限界大学生です。
最後に
この記事自体0時の令虎ラウンジ(こちらも後述します。)の出勤終わりから書いているのですが、生い立ちから書いていたら5時半になっていました。1万文字以上書いてしまいました。皆様、最後まで読んで頂けましたでしょうか。長くなってしまい本当に申し訳ございません。冒頭の通り、私の人生の変わりぶりを描くことで、少しでも人生を変えたい学生の方の助けになればと思い書かさせていただきました。皆様にお伝えしたいのは、「人生はなんとかなるのではなく、己の力でなんとかするものである。」ということです。私は、令和の虎に人生を変えていただいた人間です。生い立ちからALLになった18年間を踏まえて、私の今の最終的な人生の目標は「あの時出資していただいた虎の皆様の席に座って、その時の苦学生を自らの手で救うこと」です。これからも、今後行う合っているかはわかりませんが、挑戦を続け、必ず、この目標を達成しますので、どうか応援していただけると幸いです。
近況としては、あまりにもお金がなく、冗談抜きで本当に破産してしまいそうなのです。麻雀業界に限らず、私にできることはなんでもやりますので何か美味しいバイトをご存知の方がいらっしゃいましたら紹介していただけると本当に嬉しいです。よろしくお願いいたします🙇♂️🙇♂️🙇♂️
後述1 麻雀プロについて
先ほど固定費で麻雀プロの年会費分納と出てきてこいつどうした急にと思われている方がいらっしゃると思います。
私は今年の4月から日本プロ麻雀協会に入会いたしました。金がないアピールするならそんなことせず勉学とバイトに専念しろとおっしゃる方、本当にあまりにも正論でございます。しかし、経緯や目的は麻雀編で書かさせていただきます。近日中に公開いたしますので、読んでいただけると幸いです。よろしくお願い致します。
後述2 バイトについて
私は状況時に主宰からジュケメンタリー(志願者後追い動画)の中でお誘い頂き、現在令和の虎のファンクラブの会員の方限定で入場可能の、令虎ラウンジというところで1年半ほど働かさせていただいております。ここのお客様は経営者の方が非常に多く、目の前で商談が成立したり、普段聞けない話が聞けたりと、自給以上の価値を感じている素晴らしいバイト先です。本当にありがたいです。令和の虎のファンクラブは、一般¥3,300-/月学生¥1,100-/月で入会可能のオンラインサロンです。特に経営者の方におすすめのサロンで、中にはオンラインサロンに入ったおかげで年商が1桁増えたという方もいらっしゃいました。素晴らしい方がたくさんいらっしゃいますので、ぜひ入会して、私に会いにきてください!お待ちしております!(案件とかではなく勝手に私が宣伝しているだけです)