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キャサリン・グラハム わが人生 - 感想・引用

著者プロフィール: キャサリン・グラハム
キャサリン・メイヤー・グラハム(Katharine Meyer Graham、1917年6月16日 - 2001年7月17日)は、アメリカ合衆国の新聞発行者である。1963年から1991年まで『ワシントン・ポスト』の発行者を務めた。グラハムの下で、同紙はリチャード・ニクソン大統領の辞任につながったウォーターゲート事件を報道した。グラハムは、20世紀のアメリカの主要新聞社では初の女性発行者だった。

キャサリン・グラハム

今回の記事は、ワシントン・ポスト紙のジャーナリストして、経営者として、働く女性の先駆者として、 今なおアメリカで最も尊敬される女性、キャサリン・グラハムの自伝です。

この記事では、本の要約をするのではなく、輪読会を行うにあたり、私が読んだ感想や本からの学び、一部引用を紹介するものです。輪読会用のメモなので、一般的な記事のようにきちんと整理されているわけではないのでご了承ください。

感想

  • やっぱユダヤ人すごいな。父方の家計はユダヤ人。

  • 自伝と言うより、アメリカの黄金期の話を聞いているみたいだった。個人的には好きな本。

    • キューバ危機

      • 意外と冷静

    • ケネディ暗殺

      • 本当に突然だったんだな

    • ポストの引き継ぎ

    • 天皇陛下との謁見

    • ベトナム戦争

    • 女性の機会均等

    • ペンタゴンペーパーズ

    • ウォーターゲート

    • 労働組合との対立

  • フィルの不倫

    • ロビンがお金とか権力に興味がなくて良かった。

  • フィルの自殺

    • 銃で自殺

    • 自分の精神がもう治らないことを悟り、迷惑をかけないために自ら。

  • 全体として、「〇〇の時に〇〇であれば良かった。その時には私は若かった、無知だった」という回想がほとんどだなと思った。

    • こういう後悔が多いタイプのパターンは、原動力が強いのかなと思う。

    • また、おそらく母親からの影響が強くてこのような思考になっているのかなとも思う。

  • タイムズ・エラルドの買収

    • ポストを買収

      • 元々500万ドルだったのを80万ドルで買った。

    • 個人資産を大量に投入して、事業化させている。

  • フィル

    • ハーバードのロースクールを出ている。

    • 「藁である」というのは聞いたことがあったので、この人が書いたんだと印象に残った。

  • 人材

    • 父もフィルも才能のある記者も、とにかく素晴らしい人を会社に入れている。

    • 結果、フィルが亡くなり、キャサリンが後を引き継いだ時も、事業基盤が非常にしっかりしているという印象だった。

      • キャサリンが何も知らなくても、それぞれの分野をきちんと回せ、キャサリンの味方がたくさんいた。

  • 躁鬱病の治療

    • 電気ショックはやばすぎる。

  • ウォーレン・バフェット

    • これだけ優秀な人がついていたら、そりゃ伸びるだろうなと。

    • 自社株買いもバフェットの提案で始めている。

    • 取締役にも就任し、長い間そのポジションにいた。


引用

「登山は大変疲れるが、へとへとに疲れた後の小休止でさらにどこまで登れるかを学ぶことは興味深い。これは誰もが登山で学ぶ重要な教訓であり、精神的努力にも適用されるべきだ思う。大部分の人は、私たちが小休止の後の再度の努力と呼んでいる領域があることに気づくことなく生活している。精神的であれ肉体的であれ、仕事に従事している多くの人びとは最初に息切れをした段階でもう諦めている。彼らは真の努力をした後の栄光と爽快な気分を知ろうとしないのだ……」

一八八四年初頭、父の家族はサンフランシスコに戻った。その時までにサンフランシスコの人口は二二万五〇〇〇人にふくれあがり、マイヤー家の大家族が受けられる教育、医療施設もロサンゼルスに比べてはるかに優れていた。

私の父と同様、長姉のロザリーも精力的で威圧的な人間になった。彼女はジグムント・スターンと、その下の妹エリーズはジグムントの弟アブラハムと結婚した。スターン兄弟は、ゴールドラッシュの絶頂期にテント用の重いデニムの布地を鉱山作業員に売るためにサンフランシスコにやってきたリーバイ・ストラウスの甥だった。

今度は大部分ドイツに滞在した。一番忘れられないのは、アインシュタインを彼の家に訪問したことだ。そのことを私は、仕事で家に残った父への手紙の中でこう述べている。

父は新聞は大衆の負託に基づくものと考えていた。つまり民主主義社会で大衆に奉仕することであった。そして、全盛期の新聞が成し遂げたことをさらに一歩進めるような新聞を作り、「優れた質によってのみ獲得が可能なリーダーシップをとること」を望んでいた。一九三五年三月五日の講演で、彼は当初から主張していた原則について述べた。その要旨は次の通りである。

(1) 新聞の第一の使命は、確かめうる限りの真実を伝えることである。(2) 新聞は、米国及び世界の重要事象に関し、知り得た限りのすべての真実を伝えるべきである。(3) ニュースの伝達者として、新聞は紳士に必須の品位に配慮すべきである。(4) 掲載記事、広告は、年長者だけでなく若者も安心して読めるものにすべきである。 (5) 新聞が義務を負うのは、読者、大衆に対してであり、オーナーの個人的な利益に対してではない。(6) 真実の追及に際して、それが大衆の利益にかなうなら、新聞は物質的財産を犠牲にすることを覚悟すべきである。 (7) 新聞は、特定の利害に 与することなく、公共の出来事や公務員に対する態度は公平、自由かつ健全であるべきである。

保守的な気質のせいか、私は、生涯を通してなんとか首尾一貫していた思想を、時々変化させながら、ゆっくりと発展させてきた。「自由を愛する社会にとって資本主義が最良の体制であり、他の社会経済体制と比べて、より多くの人びとにより多くの繁栄をもたらす。しかし、一般大衆に対する心配りを忘れてはいけない」と信じていた──今も信じている。

「生き残るためには、新聞は商業的に成功しなければならない。同時に、他の商業的事業とは異なり、新聞は公共の利益と結びついている。このことは、わが国の自由な制度が最も厳しい試練にさらされ、最も厳しい精査を受けている今日においては、かつてないほど明白である。  自由国家の市民は、市民としての義務の理性的な履行に必要な情報を得るために自由な報道に頼らなくてはならない。憲法が新聞に対して、政府の干渉に対する明白な保護を与えているのはこのためである……新聞の経営いかんによっては公共の利益が損なわれることもあり得る。なぜなら、新聞の所有者に対する第一の抑制力は自己抑制だからである」

死に直面すると誰でも複雑なさまざまな反応をするが、特に親の場合はそうである。なぜなら人がおよそ感じることは、自分自身に関してと、自分と死との間に立ちはだかるものは何もないという感覚だからだ。

彼の演説は一種哲学的な思想の披瀝で終わっているが、その中には、ジャーナリズムは歴史の第一稿を書くという、現在でも引用される表現が含まれていた。

誰の目にも不安定に映る状態に私が固執していた根本的な理由は、ニューズウィークの社員に対する私の思いにあった。それは、利潤追求に触発されたものではなかった。むしろ私はこう考えたのだった。つまり、多くの人を巻き込んで一企業を買収したのに、方針が変わったからと言って数年後にまるごと売却することは、人道にもとる行為だ。必ずしも報いられたという実感はなかったが、私はその企業とそこに働く人たちに誠実でありたいと思っていた。

二月一日に、私たちは天皇・皇后両陛下に謁見する機会を得た。伝えられたところによれば、これは、海外から個人の立場で訪れた女性に対して、陛下が初めて正式な会見を許諾された記念すべき出来事なのであった。

これらはそれぞれ一つの真空状態の中で発生しているわけではなかった。私は当初、一度に一つの問題に集中して解決していけばよいと思っていた。その間、他の問題は静止状態に置いておけるというわけだった。しかし、これはとんでもない思い違いだった。会社全体があらゆる問題をめぐって旋回していたのである。私は、自分の能力不足を呪った。私に欠けている能力のすべてが積もり積もって巨大な欠陥となり、会社全体への損害となっているのではないかと焦燥にかられた。実際に会社が潰れるのではないかと本気で心配し、頭からそのことが去ったことはなかった。

いろいろ教えてもらった中でも印象的だったことは、営業内容の悪い企業のいい経営者になるよりは、営業内容のいい企業の悪い経営者になった方がいいということである。実際にウォレンが理想としたのは、いい企業のいい経営者になることであり、私には彼のいわんとすることが理解できた。

マンガーの「オランウータン理論」とは、「頭のいい人間がオランウータンを連れて部屋に入り、自分の考えをオランウータンに説明するとしよう。オランウータンは座り込んで、バナナを食べているだけだが、説明を終えた人間は前よりも頭がよくなっている」というものだった。ウォレンは自分のことを私のオランウータンだ、と言った。確かに、ある意味では、その通りだった。私は彼と一緒にいる時、自分の考えについて独り言を言っているのに気がついたことがあるが、言い終わった後は、決まって考えは前よりもよくなっていた。

経営改善の成果が随所に見られるようになってきていた。会社の中核事業が利益達成の面で目を見張るような成長ぶりを示したので、数年のうちに会社の業績は全体としても非常な上昇傾向をたどっていた。ワシントン・ポスト社は、その後数年にわたって、いくつかの分野で業界のリーダーであり続けた。

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