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文章を書くことは自己療法かもしれない。noteを書き始めたわけ

はじめまして。これから日々感じたことを、noteで文章としてカタチにしていこうと思います。そんな自分へのエールとして、この言葉を贈ります。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

僕の大好きな小説の1つである、村上春樹さん「風の歌を聴け」の冒頭の一文です。

多くの友人がnoteで日々の気づきやら、専門性を持っている領域の情報を書き綴っていく姿を見るにつれ

「あぁ、自分もnoteを書いたほうが良いんだろうなぁ…、書きたいなぁ…。」

と思いつつも、なかなか腰が重かったのが、文章を書くと必ず無力感に襲われるからでした。おそらく、身の程を知らずに完璧な文章を求めてしまっていたからだと思います。

毎回、文章を書くと感じる葛藤がコレです。

「う~ん、なんか違うなぁ。これだと、自分の伝えたいコトがちゃんと伝わっていないような気がする…。」

そして、こんな中途半端なものを発信したくないと思い、原稿をクシャクシャにして、ゴミ箱に捨てるような感じで、途中まで作成した文章の削除を繰り返しているのでした。

「風の歌を聴け」に、こんなことが書いてあります。

それでもやはり何か書くという段になると、何時も絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。

まさに、書くという事に対する自分の絶望感を上手く表現してくれていると思いました。

完璧ではなく、正直な文章を

でも、最近気づいたのが、「じゃあ、完璧な文章といったモノは、存在するのか?」ということです。

読み手の状態やタイミングによって、文章の受け取られ方は変わるわけだし、書き手にしてみても、今日完璧だと思ったものが、もしかすると明日になると微妙なものに見えてくるかもしれない。

もちろん、時代を超えて読み継がれるものもあるので、完璧な文章に近いものは存在するのだと思いますが、永久不変の完璧な文章なんて、ないのではなかろうか?

であれば、完璧さにこだわらず、自分にとって正直な文章を書いていこうと思ったわけです。

「自分のことって、実はよくわからない…。」

これは、この一年くらいで、気づかされたことです。自分が何に共感を感じて、何に違和感を持って、どういう時に心地よさを感じるかって、自分自身の事なのに結構わかっていなかったりするんですよ。

でも、自分がどうありたのかがわかっていないと、いつまで経っても「このままでいいのかなぁ…」と漠然とした不安に苛まれながら生きていくことになってしまうと思ったんですね。

あと、自分を棚卸することで、自分の中でクリアになっていることや、モヤモヤしているところがどこかもわかり、自分の行動や言動に自信が持ててくるんじゃないかと思いました。

なので、自分の感情を正直に文章としてnoteに吐き出すことで、自分のことを理解することを試みようと決めたのです。

今僕は語ろうと思う。もちろん問題は何ひとつ解決していないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書く事は自己療養の手段ではなく自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。

これも「風の歌を聴け」からの引用ですが、この自己療養という言葉が、すごくフィット感があるなぁと感じています。書くことを通じて、自分のコンディションを測ったり、健康に保ちたい。

そして…

今僕は語ろうと思う。

このフレーズは、ようやく重い腰を上げた今の自分にピッタリです。

正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでいく。

「風の歌を聴け」には、こんなことも書いてあって、正直でいることも、実は、とんでもなく難しいように思いますが、まずは、そうありたいという思う気持ちを大切にしようと思いました。

ということで、自己療法を兼ねて、自分の中にある感情や想いをnoteで極力正直に綴っていこうと思います。

…とか、色々書いてみましたが、noteを始めようと一番自分に思わせてくれたのは、コルクラボの存在が大きいです。

『コルクラボの温度』のサディ(佐渡島さん)が語る「ラボの人がnoteをやった方がいい理由」とか、すごく納得したんですよね。

自分と同じようにnoteをやろうとかどうか迷っている人は、是非、聴いてみてください。僕は、結構背中を押されました。



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井手 桂司
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