何が書かれているではなく、自分がどう感じるか。読書という荒野を行く。

最近、久しぶりに小説を読んだり、読み返したりしています。

コルクラボのキャプテン・サディ(佐渡島さん)の影響で平野啓一郎さんの小説をデビュー作から順に読んでみたり、自分が好きな伊坂幸太郎さんの小説を読み直したり。

もともと、学生時代から本を読むことは割と好きだったんですが、社会人になり、仕事にのめり込むにつれ、ビジネス書ばかり読んでいて、小説は稀にしか読まなくなりました(年に読んで1、2冊くらい)。

もちろん、ビジネス本を読んで最新の業界の動向だとか、注目されている仕事人から教訓を得ることはとても大切だと思います。

ただ、年齢も30代なかばにさしかかり、これから自分にとって、何が必要かと考えたときに、人間の内面というものに、もっと深く考察を持ちたいと思ったんです。感情とか、心のありかたとか、そういったものです。

なぜなら、これからの時代、客観性より主観性のほうがより重要さを増していくと思っていて、データや数値で表せない非合理的な感情の部分が、人の判断や行動に及ぼす影響が高くなっていくのではないかと考えているからです。

そのためにも、まずは自分の心を磨きたいと思いました。

そんなことを考えていた時に、見城徹さんの著書『読書という荒野』を読んで、「コレだ!!」と思ったんですね。

ビジネス書や実用書には「結論」しか書かれていない。本来、優れたビジネス戦略の裏には、当事者が胸をかきむしりながら思考し、汗と血を流しながら実行するプロセスがある。理論やノウハウではない人間の格闘がある。しかし多くの場合、そうしたプロセスは十分に表現されず、成功体験だけが、方法論の形をとって描かれている。そのままなぞっても、自分が同じに再現できることなどないだろう。
もちろん、仕事のために必要な情報を本から取得するのは悪いことではない。しかし、僕が考える読書とは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨くことだ。重要なのは、「何が書かれている」ではなく、「自分がどう感じるか」なのである。

見城さんが言うように、知識を得る以上に、読書を通じて感じたことを自分の言葉で表現し、己の血肉としていくことが、心を磨く上で大切なのではないかと思ったんです。

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伊坂幸太郎さんの小説「モダンタイムス」の作中で、登場人物の小説家が、こんなことを言っています。

「いいか、小説ってのは、大勢の人間の背中をわーっと押して、動かすようなものじゃねえんだよ。音楽みてぇに、集まったみんなを熱狂させてな、さてそら、みんなで何かをやろうぜ、なんてことはできねえんだ。役割が違う。小説はな、一人一人の人間の身体に沁みていくだけだ

確かに、小説には『明日から使えるTips』みたいなものもないし、自己啓発本のように「これをこうせよ!」といったわかりやすいメッセージも存在しない。

でも、振り返ってみると、自分のスタイルに静かに影響を及ぼしているのが、小説なのかなと思ってます。

例えば、伊坂さんの小説を読んでいると、目に見えない社会の渦のようなものと対決が大きなテーマとして描かれているように感じるんです。

流されるな。自分の頭で考えろ。想像力を駆使しろ。

これ、現在の僕の価値観の源流に流れているものだと思ったんです。

伊坂さんの小説で感じたことが、自分の血肉に気づかぬうちになっていたと、最近になって小説を読み返した時に気づきました。

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感性を磨きたい。

自分の心を振るわせることで、思考や言葉を磨きたい。

そして、自分ではない誰かの心に響くものを届けられる人になりたい。

そんな風に考えたときに、小説を読むことって、草花に水を与えるように心にとって大切な体験だと、最近、やっとハラ落ちした感じです。

小説を読んだら、不器用でも、まずは自分の感じたことを言語に落としてみ要と思います。noteで。

そして、同じ小説を読んだ人たちと、心行くまで語り合ってみたいなぁ…と思う今日この頃です。

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井手 桂司
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