しろいろの街の、その骨の体温の
この本は私の中でトップクラスに好きな本だ。
作者に渾身の一撃を喰らった気持ちになった。私が若い頃、言えなかったことが沢山詰まっている。
ちなみに、古傷を抉るので、自室に一人の状態では、絶対読めない。
まず、大好きな一節を抜粋する。
主人公が小中学生の時期の話なのに、
嫌い、とか死ぬとか、墓場、とか物騒なことを言っている。
でも、確かにその頃が私もそのように思っていた。保護者に、教師に、許可された世界しか与えられておらず、その与えられたものに、馴染めない。保護されなくてもいいから、外に出ようと思っても、常に誰かの許可が必要で、その不自由が苦痛だったのだ。
この本は、千葉の開発途中、のちに頓挫したニュータウン、新興住宅街が舞台だ。建物は画一的で、まっしろ。剥き出しの、マンションの白い鉄骨が思い浮かぶ。
作者はそれを骨の街と表現している。今で言うと、タワーマンションなのだろうか?
画一的なのは建物や道だけでなく、この街、学校、クラスを支配する価値観もそうだ。
教室は学ぶためのものではなく、画一的な価値観を植え付けられる象徴として描かれる。
教室において、勉強することだけに集中してたら、気にもならないかもしれない。
私も作者も、教科書の文字よりも生々しい人間に夢中だったせいで、その世界にうんざりしていたのだろう。
何が美しくて、誰が人気で、嫌われて、評価されるのか。その価値は、私ではない他人が決め、私はそれに従うだけ。
街が嫌で、学校が嫌で、なによりそこにいて、その価値観をを拒否できずに、従い、されらに一体化してしまう自分が、自分が嫌だ。
嫌な自分を許せないことからうっすらと感じる希死念慮の香りは、本当に死にたいのではなく、変わりたいという意思だ。
私だけがおかしいのだ。私だけが教室の窓から外に接続している。
この"私だけが気付いている"という感覚に、身に覚えがある。孤独と共に、優越を感じていた。
みんなは幼いからわからないよね。何も考えてないからわからないよね。愚かだからわからないよね。この街や、この教室の息苦しさを。本気でそう思っていた。
街や家や教室が世界のすべてだった。その頃はインターネットもフィルタリングがかけられて、本を読んでも語彙がないから何を言ってるかわからないし、新しい出会いは制限されるし。狭い犬小屋で飼い殺しにされている感覚だった。
中学にあがると、しろいろの街は予算がなくなって、開発が止まってしまった。それはまるで新品の廃墟のようになった。
嫌いな街は死んだ街になった。
その死んだ街で主人公は初恋をするのだけれど、それは恋というよりも憧れだ。
幸福な鈍さを持った"幸せさん"に猛烈に憧れている。
定められた価値に従うことに必死なクラスメイト、その価値に抗う必死な主人公、そしてその価値自体を認識せず、その閉塞的な世界から外れている"幸せさん"。誰が一番幸せなのか、一目瞭然だ。
最終的に主人公に救いは来る。それは大嫌いな世界から拒絶されること。主人公は教室を流れる暗黙の了解という地雷を踏み抜いて、立場を失うのだ。
そこで初めて、私という輪郭が浮き彫りになり、主人公は呪縛からとかれて自由になれたのだ。拒絶されるのは、つまり、大嫌いな価値観と、私が異なる証拠だ。それは、絶望ではなく、希望だ。
それが、大嫌いな、私の最期だった。
という文章から最終ページまで15ページほどだけど、そこが主人公にとっての始まりと言える。大嫌いな自分を手放した後に見える世界は一変して、しろいろの街にも、鮮やかな色彩を見つけている。
わたしはこの結末が大好きで、仕方ない。
私は自分がよくやったと思った時は褒めるし、
逆に自分を許せなくなることはしないと決めている。
主人公のように明確に一度死んだわけじゃないけれど、緩やかに死んだことがある。でも明確に、今は生きている、生きたいと確信して言える。