誹謗中傷といじめの根底にある「2つの科学的原因」
昨今では、いじめにより精神的な苦痛を強いられたり、SNS上の匿名性を使った誹謗中傷などが社会問題となっています。
それらが自らの命を絶ってしまうほどの選択肢を被害者に取らせてしまうほど、人間に苦痛を与えてしまうことは既知の事実です。
昨今から多く取り沙汰されています「誹謗中傷」について、その根底にあるものを考えていきます。
この内容は、自分を振り返り、自分が批判的に物事を捉えていたことと照らし合わせて読んでいくことが、よりよい思考への導きになるのではないかと思います。
『みにくいアヒルの子』
いじめの歴史は古くから存在します。
例えば、「みにくいアヒルの子」というデンマークの童話は、今から約180年前に詩人によって書かれました。
ヒヨコの中で、白鳥の子がいじめられるというお話です。この例は人間世界でもよくありますよね。
「自分たち大多数と違う奴は、仲間ではない」という「いじめ」の構図を暗に示した「みにくいアヒルの子」の作者の問題提起でもあります。
その他にも、歴史上、ヨーロッパ諸国は世界各地に植民地を増やしていった過去がありました。
その時には「自分たちの文化こそ崇高なもの」と位置づけ、それを植民地に普及させていこうとした事実があります。
これらの例から導き出されるのは、
「人間でも他の動物でも、自分たち大多数と違う者は、自分より劣る者であって仲間ではない。」という考えになってしまうということです。
『自分と違うことが批判を生じさせる』
先の項で「自分と違う」=「仲間ではない」の構図が人間同士で生じていることを書きました。
動物では「羽根の色」でしたが、今アメリカで問題になっている「肌の色」が、なぜ問題になっているのかも想像しやすくなると思います。
さらに、人間はより複雑なことでさえ「違い」を認識するようになっています。
人間は脳機能と言語能力の発達によって、思考回路や考え方でさえも、違いを認識するようになってしまいました。
それが「個々人の考え方」にもおよび、考え方が違う奴は仲間ではないと、「考え方の違い」でさえ、批判・誹謗中傷・いじめの対象となりうるようになってしまっています。
「人間は十人十色」と、今でこそ価値観の多様性は受け入れられていますが、
人間の脳機能の根底にある「仲間意識」は、それを無意識のうちに拒絶しているのではないでしょうか。
これがまず1つ目の原因になります。
『現代だから生じる嫉妬心』
この項では少し見方を変えます。先の項では「人間同士の違い」について書きましたが、
逆に、自分との違いが「嫉妬心となり、批判になる」という事実もまた存在するのです。
相手との違いがあるからこそ、その事実を認めたくないという「人間の脳機能」がバランスを取るために「批判的な思考」を作り上げてしまいます。
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例えば、高級外車を乗り回し、アイドルやキャバ嬢たちとイチャイチャしているイケメンを見て、世の中の多くの男性は何を思うでしょうか。
これは男性向けの例ですが、多くはうらやましさと同時に嫉妬心が生じます。
「嫉妬」という感情が生まれる前には「うらやましさ」という感情が前提にあります。
そしてその「嫉妬心」が人間の心にあらわれると、「脳機能」は心のバランスを取るために、様々な行動をとります。
① 昇華 ⇒ 嫉妬心を芸術やスポーツに向ける。
② 抑圧 ⇒ 視界に入れず、考えないように忘れようとする。
③ 合理化 ⇒ 自分はうらやましくないという考え方を変える。
などなど。学校の保険の教科書にも載っていますが、
これらを適応機制といいます。
この脳機能の適応機制によって「嫉妬心」が「批判・誹謗中傷・いじめ」につながるようになってしまっているのではないか、ということが考えられます。
自分にできない生活をしている人間が存在している。同じ日本人で同じ年齢なのに。という考え方が「批判的な考え」を生み出しているのではないしょうか。
これが2つ目の原因になります。
『2つの原因は根底が違う』
まとめに入ります。
1つ目の原因が「自分との違いが受け入れられない人間の脳機能」
2つ目の原因が「嫉妬心のバランスを取るための脳機能」
この2つが原因となっているのではないかということが言えます。
どちらも「自分と他人を比べたこと」による「他人との違い」に焦点が当たっています。
1つ目は、自分が大多数にいることによって優位な立場であることを考えると、「みにくいアヒルの子」のように、少数派へのいじめが起こってしまうことも納得がいきます。
また2つ目は、ある一個人が優位な立場にいることへの嫉妬心が、SNSの匿名性を利用した「誹謗中傷」につながっていくことも説明がつけれます。
現代の人間は、幸せと感じたり、快楽を感じたりする「ドーパミン」と呼ばれるホルモンの分泌量がぶっ壊れているらしく、
自分も同じことができるのにできないことへの欲求不満が、より批判的な人間を作り出してしまっているのではないでしょうか。
過去、
「自分より低い立場とみなす相手」を少数派と位置付けて、いじめをしていたことに対して、
「自分より高い立場と感じた相手」をまた少数派と位置付けて、その地位から引き下ろす「いじめの一種」になっているのではないでしょうか。
週刊誌で有名人をすっぱ抜いたり、炎上させたり、悪い印象をつけて引きずりおろすのも一種の「いじめ」になります。
大人の世界でさえ「いじめ」がここまで横行しているのに「学校でのいじめをなくせ」とは説得力がないものです。
と元教員の立場では思います。
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