健康的な社会との接続をしているか。海を見ながら確認してみる。
少し前の下書きを見つけて、少し面白い内容だったので追記して挙げてみました。
理想と現実
夢と現実
虚構と現実
◯◯と現実の中を僕達は生きている。
心を動かすのは非日常と日常のギャップ、「覗き」の欲求にみる他人の物語と自分の物語の投影がテラスハウスなどのリアリティーだった。
膨れ上がる虚構はSNSによって作られた。
これは映画、テレビを生んだ近代の映像の世紀と呼ばれた時代の狭間の生き方だ。
Youtuberやインフルエンサーマーケティングも過渡期。
何を見せたくて、何を見ようとしたのだろうか。淘汰が繰り返される中身のないインフルエンサー達が飽和して崩れていく音は聞こえないだろうか。
20世紀後半のインターネット世紀は、日常の中の他人の物語と自分の物語の融合。
発展途上のインターネットの公害を見るようだ。
映像の世紀のようなインパクトはない。
それほどテレビや映画というものは影響が大きいものだった。
しかし常に生活の一部に入ってくるインターネットの世紀のソーシャルネットワークや仮想、拡張現実は大きなものになる。
テレビのようにこういった事を繰り返していくだろうが、インターネットは熟成していくだろう。
他人の物語への感情移入から自分の物語を発信する時代のどこに健康的な社会との接続はあるのだろうか。自分と社会との接続を人はどこにみるのだろうか。
下らない接続は皆はしていないだろうか。
自分の物語を常に非日常に見せる事に体験を求めて「映え」に走る行動が、目立つ中で自分の日常は置いてけぼり。
皆が通った後に人が通らなかった道や見なかった景色や置き去りにされたモノがある。
それを見るのが自分の日常である身近な股旅であって、そこに惹かれる人達が少しずつ少しずつ増えてきている気がする。
社会接続に民主主義というキーワードがある前提なのか。
民主主義にしがみついているかのような 人を目の前にした事があるか。
公務員のように一般企業もぬるま湯の安定を見る共産社会のようなものを見て見ないふりしていないだろうか。
コロナでガラガラになる渋谷と原宿近辺の小売店と飲食店のテナントを見ていない人にとっては、全く社会の状況はわからないぬるま湯か本当の勝ち組のどちらかをちゃんと客観するべきだと思う。
資本、民主、共産社会の縮図が街や企業、国と代償問わず至る所で入り混じった叫びが聞こえてくる。