共感を生まない、言葉が交わせない、文字を読む気力のない人となんとなく一緒にいること。
テキストを読まない、読めない、というは人が多くなった。というホリエモン氏の見解を少し前に聞いた。本の出版やWebでの記事、NewsPicksなどでの出演で一極個性を出す中でyoutubeという動画を始めた理由もそこでなるほどと思った。
共感を生まない、言葉が交わせない、文字を読む気力のない人となんとなく一緒にいることを辞めている。
僕もそうだなと思った。話して書くことの可能性や価値観、チャレンジを今ここで楽しんでる。各々のツールで伝わる人が違う。僕はこの文字という表現と、直接という「今ココ」に惹かれている。
1000字以上の文字を読まない、言葉を意図を聞かない、客観的に相対的に考える事を辞めてしまっている人がいる。なんとなくという表現をする。そんな人と一緒にいる事を辞めている。
感情と感覚がどうやって作られるのかを考えない。そればかりに捉えられている人がいる。そこに人間的なもの感じている。感情的でないといけない、という価値観にも似ている。
なんとなくな人達は、感情とか感覚を振り回し捉えられている。感情を求めてくる。
共通しているのは、お互いの情報量も計らずにお互いの価値観や感覚や感情とか価値観を話し合おうとする。議論で終り対話にはならない。
コミュニケーションで大切にしていることは「対話」だ。
僕は文字を愛して、テキストを愛して、本を好んでいる。だから教養という好奇心に惹かれるんだと思う。なんとなく一緒にいなくてもいいと感じる時や場面がある。そこに時間もお金をかける事を辞めている。
この前公園で友達とフリスビーを持って走った。対話の出来る友人たちとあんとなくな時間を過ごすのはとても楽しい。
この社会でなんとなく過ごさない人、一人で過ごす事に重きを置く人を引きこもりとかオタクというカテゴライズにするのかもしれない。
ふとそんなことを思った祝日の兜町。