nufonia must fallの美しさの根拠と心的現象。アウラ。ベンヤミンとヒップホップ。
今まで映画を見ている時、エンドロールでの没入感てやっぱりなくて、出演してる俳優達の演技が主役で一番手前に来るし、監督の意図的なモノを探るところに、またそれに重なる衣装や美術、音楽を合わせて観るのだけれども僕は昨日全く違う体験をした。
ninja tuneでもお馴染みのKid koalaがnufonica must fallという新しいショーで来日するということを知ったのは東京現代美術館にダムタイプを観に行った時ふとinfo棚に置かれていた一枚のフライヤー広告。
懐かしいビーボーイ心で彼のスクラッチと音の遊び方を今新しい形でやるらしいと知り、その紙を一枚取り家路に帰った。
久しぶりに体験したいなとレスポンスをくれた友人を誘って見に行った所、これまで見たことのない本当に人生最高の「映画」を見てきた。
今回の演技に出演するのは人形達。その人形には人形クリエイターの姿を一体一体見るし、役も命も宿っている。
それをあやつる人形師達、それに命を吹き込んでいる人達。
舞台セットや演出には今回の東京公演という事もあり小道具には渋谷の街や日本の都会、東京の風景。今回の会場であった渋谷さくらホール大和田のある桜ヶ丘という土地も映し出されていた。今回のこの舞台を作るコアラも含めた全職人達のフィールドワークや日本のインスピレーションや調査でのアウトプットを見れた一日になる。
それは日本の観客に向けて、この会場でしか見られないという僕達日本人に伝える為の愛が感じた。
そして撮影、照明するスタッフの姿は、その姿と同軸でライブモニターで生で観ることが出来る。会場のスクリーンに映し出される映画は、
その舞台で今行われている。
スクリーンに映る映像と舞台にあるジオラマ舞台セットを撮影するカメラワークとライティングの動きからこういう映像が出来るのか、と体感できる。
そしてそれを映す、照らす人達の動きも表情も。席が一番前なので目視出来た。
映画の全部を「今ココ」で生で丸ごと観た。そしてその時間軸に音を合わせるストリングスのカルテットとコアラのスクラッチやサンプラーは常にモニターを見ながらスクリーンを見ながら演奏される。鍵盤や色んな楽器達で映画の音楽や効果音、台詞を重ねていく。人形一つ一つの仕草や動き聴こえない言葉を見えない言葉を質量化する。映画冒頭から「マジかー。」と心の中で驚いた。そして覚悟した。
その一部始終の作業のシンクロと観客の反応も全て合わさる事を前提とした体験映画。
そして今ココ感は彼らスタッフ作り出す動きも当たり前に人の作り出す生きたモノなので今ココにしかない。2度とない。ミスや間違いもその定義もない。それも全て映画になる。テイクは一回のみの映画だから正解はない。一回のみの体験。
この映画が始まる前にコアラは自分のメッセージを日本語で会場の人達に下の写真のように伝えた。
演奏する、撮ったモノを見せる、演技を見せる、というモノではない。コアラは「サウンドチェックを今からするね。」と伝えると会場の観客に声を出させた。指揮者のように会場の発声を確かめる。そんなに多くもない。満席でもない。「開演後にサウンドチェック?」との疑問を何回かの発生練習と今日の集まる観客のレスポンス、そして彼の笑顔がスッキリさせてくれた。
ここにはアイスブレイクを込めた彼らの意図がある。一方的なモノではなく、インタラクティブする、映画の一部である事に「魅せる」という価値感覚がある。生という、今ココという「アウラ」を最大限に映し出すコトが行われている。
今回の映画のストーリでもあるスペイシーな未来都市感と現実と夢、宇宙のコンセプトにもピッタリだった。
脚本やストーリーが全て同時間軸でスタートする、僕が見た中で一番最高の映画でありショーだった。間違いなく。
体験、というものを最大限に今ココを生かそうとする映画で舞台でショー。
最強の引き算の人形浄瑠璃をこの舞台を見ながら考えた。紙芝居なんかもそうだ。
横の友人が一つ一つのシーンでスンスンッと泣いている音も映画の一部だ。前の隣の後ろの席の観客の感情が感染る。後ろの席の白人の組の手を叩く音に僕のレスポンスも鼓舞されるし、今回会場に沢山の子供がいた彼らの大人しく見る姿やそのまんまの笑い声を肩にも背中にも感じた。
その反応も今ここにしかない。映画のエンドロールに観客の皆が一人一人刻まれる訳だ。最後のエンディングはその日の舞台に関わった人達、出演者に全て興味を持てた。
一人一人の人形師達の表情を自ら見にいくし、名前も知りたかった。ほとんどフランス系カナダ人達が今回の映画の製作スタッフとして舞台で彼らの日常やバックボーンその他の仕事も気になった。ストリングスの人達の他のオーケストラの作品や演奏はどんなものだろうと開演中から気になってくる。一人一人が全員が主役というのは、当たり前、前提。
でもそれは今ココを生きる人達の日常の営みや生活でもそうだ。
日曜日が憂鬱になる。月曜日のデスクに座っている事や会議の席の自分をロボットの様に虚無感を感じる。日常を過ごす人達も居ると思う。でもそれも今ココの日常の営みで生活で主役のはずだ。脇役でもない社会の一部でも主役だ。
今回の映画の主役やロボットだった。しかしそのロボットは恋もするし、最新のロボットの性能を前に自分の存在にも虚無感を感じている。星を見たり音楽で踊ったりする。恋する相手とうまくいかない時は少し寂しそうだし、筋トレすると自信に満ち溢れる。
ベンヤミンが今この時を生きていて、当時の感覚と今の僕達の同じ感覚を併せて持ち、この映画を観たらアウラの塊と言うのではないだろうか。
この公演が終わった後に横に座っていた友人と言葉のない言葉と「本当良かった。」「感動した。」という同じ言葉を一定の間隔で何度も繰り返した。
公演後には舞台に上がり舞台セットや機材、コアラのDJブースや出演した人形、人形師、撮影、照明、全てと触れ合える。撮影も可能だ。
作品を見終わって僕達が思ったのは、「この仕事をしたい」と思えるほどそれぞれの職人達の仕事に夢を感じた。凄く多くの努力と技術を見てこそだ。とても大変な事に魅力を感じる。だからこそ仕事に対する憧れとか夢というのは、夢ではなく、現実なのだなと感じて、自分の会社の若い子達の「自分がやりたかった仕事とはイメージと違った。」という仕事と夢の問題についても考えた。(※ここはまた別記事に書きます。)
僕達がこの舞台の人達の一人一人の技術と仕事に「やりたい」「なりたい」という夢を持ったのは、作品の一部になったからこそだ。
多分他の観客の人達にも同じ感覚があったと思う。
SNSでこの映画を観た(つまり関わった)他の出演者(観客)のいいね!のレスポンスからの皆のポストを見ると同感覚だった。
映画が映画館で観る、という体験をNETFLIXでいつでも何処でも見られるようにいつか観れるのだろうか。
この「nufonia must fall」は今の時点では観る事が出来ない。もしかしたらテクノロジーが発達して、5Gよりも更に空間伝送とリアルのアウラがどの空間軸でシェアすることが出来たとしてら叶うかもしれない。
時間軸も常にリアルライブ配信で叶うかもしれない。そこにベンヤミンも想像出来ない、「複製時代の芸術の更に未来の未来」をアウラが生まれるかもしれない。
ヒップホップとは、サンプリングの文化でありアウラをどう取り扱うか、を僕も踊りに携わっていた事もあり若いながら悩みもしながらこれらの課題とダンスしてきた。
VHS世代の「fuck you tube!!!」との葛藤は、20代の複数回の渡米で生まれたものだ。
「DJ KID KOALA WAS PLAYING "AURA" AT NUFOOIA IN TOKYO.」
いつも長々しいタイトルを付けるnote記事に更にサブタイトルを付ける。
絵本やアニメ作家、クリエイターとして存分なヒップホップをこの試みに見せてくれたコアラの遊び心を存分な愛溢れる雪降る東京に感じる2020年1月の出来事でした。