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0 ずっと変わらない学校

明治時代の学校を知っていますか?

明治時代、西洋の文化が日本に入ってきていろいろなことが変化しました。
その中の一つに子どもたちを教育する場があります。
1872年(明治5年)に「学制」が公布されて、全国に小学校がつくられました。ここから日本では、学校での一斉一律の授業(みんなが同じ内容を教える授業)が始まりました。
私も平成時代の小学生なので、明治から変わらぬ「みんな同じ」の教育を受けた一人です。

外国ではもっと前から同じ風景が広がっている

さらに、お手本となったヨーロッパ・イギリスでは、19世紀から同じ年齢の子どもを集めて、同じ内容を教える”学級”ができあがっていました。
産業革命が進む中で、効率よく働かせるための「読み・書き・そろばん」を教えるスタイルが出来上がっていたそうです。

つまり、江戸時代後期から最近までの約200年間も、子どもが学ぶ場所である学校では、「同じ」「そろえる」を前提とした教授法が変わらず続いているということです。

以上のことは、様々な教育関係の文献や新聞記事などで論じられている内容なので、なんのオリジナリティもないことなのですが・・・

ここからは、私のこと

私は、この約200年間学校が変わらないでいたことに、
平成の終わり~令和のはじまりの時期に初めて気づきました。

私は、小学校の教師をしています。
当時研究主任という役割で、所属校がその年から区市町村の研究指定を受けるということがきっかけで、ある方のお話を伺う機会をいただきました。その中で、先の「変わらない学校」のお話がありました。
そのある方とは、現在長野県の軽井沢風越学園の校長を務める岩瀬直樹さんです。
当時開学前だった風越学園の考え方の根本となる「学習者主体の授業・学校づくり」についてお話を伺いました。

当時、私はお話を聞いて衝撃を受けました。こんなにも社会は変わっているのに、学校ってなんて「変わらない」「変われない」のかとショックでした。

その日まで10年以上教師をしてきて、
「子どもたちをコントロールすること」を重視してきたこと、
「コントロールできる=指導力がある」という認識をもっていたこと、

これは、
「まず自分が変わらないといけないな」
と思いました。

そして、岩瀬先生に質問する機会をもらったので、
「なにから始めたらいいのか」「岩瀬先生はなにから始めたのか」
ということを聞きました。
そのときは、研究主任という立場というよりも、一教師として何かできる一歩をすぐにでも始めようという思いがわいてくるような感覚になっていました。
(このときの、岩瀬先生の答えは次に続きます。お楽しみに!)

さらに昔の自分のこと

最近思い出したことなのですが、
この「子どもが主役になる授業」を考えてきて、ふと自分が教師になる前のこと。
教師を目指していた大学生の頃、所属していたゼミでは「協同学習」「ソーシャルスキルトレーニング」などを学んでいました。
そこで、出会ったのがアメリカのボストンにある「サドベリー・バレー・スクール」での実践でした。ここでは、学級も時間割も存在しない。子どもたちが自分自身の興味関心を軸に学ぶ学校です。(現在は、日本にも「サドベリー・スクール」として広がってきているようです。)
サドベリーの存在を知り、私は「この学校、すてき!」と胸を躍らせました。ところが、進路を考える中で、当時の日本の授業の基本が教師主導の一斉一律であることを目の当たりにして「これは、私が進もうとしている公立小学校では実現できないじゃないか…」「私のやりたいこととは遠い…」と心と頭の中をモヤモヤが渦巻くことになったのです。
しかし、そのモヤモヤはいつの間にか消え去り、なんとなく折り合いをつけて、卒業後は公立の小学校教師として働くことになりました。

そして、10年のときを経て出会った「子どもが主役となる授業(学校)」の考え方への衝撃は、このときなんとなく封印した自分の奥底にあった「すてき!」の気持ちに響いてエネルギーを湧きあがらせたのだと、
気付くことができたのかな~と最近気づきました。

そして、~今

話を戻して、
その岩瀬先生の話を受けた私は、半分「そんなの私立学校だからできること」と思いつつ、半分は「なにかできることがあるんじゃないか」と自分なりの行動を始めることになります。
(きっかけは、これだけではないので「きっかけ」をタイトルに書きます)

あれから約5年。
世界を揺るがすコロナ禍はあったけれど、私の行動にはあまり影響はありませんでした。
そして、モヤモヤしていた公立小学校の「変わらない」いろいろを、コツコツと崩しながら、確実に進んできた軌跡をこれから記していこうと思います。

まとめ

「変わらない学校」は、約200年間も続いている。

このことに気付いた私は、大きな衝撃を受け、原動力となる過去の自分との再会もありつつ、「子どもが主役になる授業(学校)づくり」を目指すことになった。