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「普通」に取り憑かれないように、考えて生きていきたい

こんにちは
かがみこころです!

ぼくは普通という言葉が得意じゃないです。
「普通の人生」「普通な考え方」「普通の恋愛」

普通の人生ってどんなものか、
ぼくを納得させられたら全財産をあげます。

そもそも「普通」って誰が決めてるんでしょうか。

人間が平均的に経験するから「普通」なんでしょうか。
無作為に選んだ人間で過半数の賛成が得られれば「普通」でしょうか。

ぼくが思うに、「普通」は自分の脳が勝手に作り出した幻想です。
何のために作り出すかといえば、社会適応と自己暗示かな。

社会適応というのは、その社会に馴染むことです。
アウトサイダーにならない。コミュニティ内の別の人間とうまくやっていくという社会的活動が達成できていること。

社会のルール、慣習、しきたりに沿って考えたときに、「普通」か「普通ではない」か。これに関しては規則を破るか破らないかのように、線引きがはっきりしています。(慣習を普通だと思い込むのも好きではありませんが。)

しかし、人生や考え方、恋愛など、ルールが曖昧なものに対しての「普通」は、こんなものでは説明できない。

この時に作り出される「普通」こそ自己暗示なんだと思うんです。

「普通」という幻想を比較対象として作り出すことで、自分の考え方を正当化、否定、または昇華させることができます。つまり、「一般的にはこうだから」と、思考の足がかりにしたり、思考を放棄したり。

自分がどう考えたいかを規定するために、無意識に採用されているのが「普通」ではないでしょうか。自分で自分に暗示をかけて、物事をありのまま見て考えることを避けるためでもありますかね。

常識と似たような話でもあると思います。

常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。

アインシュタイン

「ものを観察して思考する」という手順を放棄したくないと思って、今日も生きていきます。


では
また次の記事で。



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