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漏れに気づかないで
起床
黒パーカーがまたもや必要になってしまった夜の翌朝。凝り固まった私の体は服に包まれてまだ涙を流していた。
少し発散しすぎたかな。
重い体を起こして部屋を見渡す。昨晩片付け損ねたものはあったけれど、爪楊枝だけだった。外はもうすっかり明るくなっていて、朝というよりは昼頃っぽい。
ルームメイトのYは夜勤バイトから帰ってそんなに時間が経っていないというのに、もう起きて勉強していた。いつも通り私の返事に聞く耳持たない癖に話しかけてくる。集中してる時は私の身動き一つに苛つきを隠せないのに自分からは物音を立てないよう努力をしない、可笑しな人間だ。
「もう午後二時半だぞー。そろそろ起きたらどう、廃人さん?」Yが徐に煽ってくる。「食堂ももう夕食まで閉まってるし。全く昼食逃すなんてどうかしてるよ」
「うん、そうだね。」私はストレートに返す。こういう時は反応するだけ疲れるので馬鹿のフリで流すのに限る。
性格に幾らかは思うところがあるけれど、私はYはルームメイトとしては一緒に暮らし安い方だと思っている。生活のリズムが近いし、部屋も割と綺麗に保ってくれる。そして何よりYは金曜の夜にバイトがあるから毎週私が一番泣きたい週末の頭に部屋を空けてくれる。
体を動かしてみる。
うわ、べちょべちょだ。これは前汚した時より酷くない?今週末はシーツの洗濯という仕事が増えた。
意を決して布団をめくってみる。
うへぁ…これは絶っ対にYに見られたらダメなやつじゃん。というか布団も見つかってはいないけれどギリアウトだ。流石にシーツと一緒に洗濯するほど寮の洗濯機は大きくないし、布団は来週までお預けかな…
だけどYも普通に話しかけて来ているしバレてないって事だよね?慎重に後片付けの残りをしよう。
そうはいってもまだ涙を流している状態で動き回るのはやっぱりちょっと厳しい。片付けは簡単に済ませて、ベッドに再びよじ登って右手を携帯に持っていたら通知音が鳴った。
ピアノトリオのグループからだった。バイオリンのTが今日のリハーサルは行けるか確認を取るメッセージだった。先週はピアノのJが実家に帰っていてキャンセルになったからだ。
まずい。明日のチェロサークルのリハーサルまでは泣き止みそうだけど、今日の午後七時はかなーり怪しい。というか着れる黒パーカーが全部びしょ濡れだ。四時間ちょいで乾くかどうかわからないし、チェロを濡れた服で弾くなんて問題外だ。
ドタキャン一択か。
『ごめん 私やっぱり今日は無理かも。 明日でいい?』
『いいよ、僕も明日の方が都合良いし』とJ。
『オッケー』とT。
Tのそっけない反応には少し肝を冷やす。Jはただの中学校の頃の知り合いで私は地区内では有数のチェロだったけれど、Tは別次元だ。同じ生物化学専攻とオーケストラのメンバーとして知り合ったけれど、私と違ってTは音楽学部にも受験して受かったし私が三年連続落ちた州の音楽大会にも受かってる。
趣味程度でやってる私とJに対してTのレベルが高すぎる。一番怒らせちゃいけない存在だ。あまり失望させないように細心の注意を払わなければ。
夕食時
結局夕食時になっても涙は止まらなかった。寝ている間は着る方の黒パーカーの袖を捲っていたから活動を始めた時点で伸ばしたけど、パーカーが濡れるだけだった。
時は午後五時。泣いた影響か食欲はあまりなかったけれど、二十四時間以上食事していなかったし流石に何か食べないと大変な事になる気がした。
あと、まだ涙を流している状態で人混みに入りたくなかったのもある。こんなに汚い状態で人に近づかれたらどうなるかわからない。バレるかもしれないし、単純に私にとって過ごしにくい。午後五時前半ならまだ食堂は空いているはずだから食べに行くなら今に限る。
怠いけど食堂まで足を運ぶか…
そんな思いでズボンを履き替えているとYがまた話しかけてきた。
「今度こそ食べに行くの?」
「うん、流石にお腹空いて。結局お昼抜いちゃったしさ」
大嘘だ。
「へえ、じゃあ何?まぁた北の食堂にでも行くの?」
北の食堂は私達が住んでいる南の寮からは徒歩十分ほどで、南の食堂より数段料理が美味しいとされている。まあ最終的には両方学食なの絶対的な評価はそこそこ低いから、それだけ南の食堂の方が不味いとも言える。
Yが言うには食べ物の為にそんなに歩く人の正気を疑うとの事。私からしてみれば十五分の歩きはなんてことないから割と通い詰めているけれど、確かに食にこだわりのない人なら南の食堂の方が楽だろうとは思う。
「うーん…Yがそう言うならどうせだし行こうかな」
普段泣いた翌日は歩くのすら億劫で南の食堂を使いがちだけれど、今日はなんだか色々失敗したし美味しい物を食べたい気分だった。
私は準備を整え終えて寮部屋を後にした。
「やーい簡単に流されてんのー」と声が後ろから聞こえた気がするけど、気にしない気にしない。
私は歩く事が好きだ。以前電話した時姉は音楽を聴いていないと歩くのが苦痛だと言ってたけれど、私にはそれこそ理解できない。考えることがないことが苦痛らしい。Yも多分そんな所だろうと思う。
私も暗い思いだけを供に過ごす事は嫌いだ。例えば寝る前なんかは携帯を持っていないと自問自答自責がどこからか湧き上がってきて精神的ダメージを喰らう。
だけど歩く事は違う。ADDなのか、私は気を逸らされ易い。だから歩いている時は変わりゆく周りの景色に思考を引かれて、落とし穴に落ちる機会がない。まとまりはつかないけれど思考に耽る事ができて面白い。
例えばTもよく北の食堂に通ってたなー、とか…会わないといいな。
道中体を動かしているからか、袖に染み込んだ涙が手首に付いていくのに気づいた。もうすっかり袖はそれを吸いきって飽和状態になっていた。摘めば指が濡れる程度に。
濡れた指先をズボンで拭って誤魔化す。
やっぱり歩いて部屋の遠くまで出るのは失敗だったかな…
そう思いながら北の食堂に到着した。
で、やっぱりTはそこにいた。
馬鹿かな、私は。多分馬鹿なんだろうな。Tもいつも早めに食べてるんだし、会わない訳がなかった。
私からTの方を見つけた形だけど、後ですれ違った方が絶対に怪しまれる。今のうちに話しかけないと。
「あれ、Tも今食べるんだ。」
そこまでおかしな事を言ったつもりは無いのに自分のことが怪しく思える…ってそっか、いつもTがこの時間帯に食べてるのに驚いたかのような発言は不自然か。
「へ?あ、K?!びっくりしたぁ、Kも今日はこっちで食べるんだ」
流石に話しかけるタイミングを間違えたかもしれない。後ろから声をかけられたら普通驚くよね…
「うん、流石に週末は美味しいもの食べたくてね。」
また嘘を吐いた。実際は慰めの為に来たようなもの。
「よかったら一緒に座らない?僕は席決めてもう荷物を下ろしてるんだ。」
「あ、そうなの?助かるよー、私まだ席決めてなかったからさ、」
別に混んでる訳ではないのでTの提案に乗る必要もないけれど、下手に避ける方が絶対に怪しまれる。
二人で食べ物をとって席に腰を下ろしてところでTが持ち掛けてきた。
「それで、今日は何か忙しかったの?」
そうですよねーやっぱり超絶怪しいですよねー、ドタキャンしたリハーサルの予定開始時刻の二時間前に呑気に夕食食べてたら…
「単純に今日は調子が悪くて」
嘘は吐いていない。実際本調子ならキャンセルしてない。
「え、そうなの?大丈夫?というかK具合悪いのにここまで歩いてきてよかったの?」
ほら、やっぱり怪しまれてる。
というか確かにここまで歩いて来てよかったのかな。ここで本格的に漏れ出したらTが見てるから拭けないし、帰り道の十分間涙を垂れ流すことになる。
ふと袖口に目を向ける。やっぱり袖はとっくに飽和状態になっていて、涙が手首を汚していた。ここまでは袖が少しは吸ってくれていたから大きな水滴にならないで分散した状態で皮膚にくっついて行ったけれど、そろそろ大きな水滴なままで腕を伝い始める頃かもしれない。早めに帰らないと。
「K?どうかした?」
「あ、なんでもないよ!」はっと意識をTに戻す。「確かに失敗したかもって考えだしちゃって…」
また嘘は吐いていない。
「え、そんなに?というかKは明日それで大丈夫なの?僕は今週も休みでも構わないけど」
いや、流石に二週間休みはマズい。チェロサークルにも出席しないとだし、明日は意地でもリハーサルに参加しなければ。
「あはは、ちょっと失敗したかも。今朝午前四時まで宿題やっててさ、今ちょっと倒れそうなんだ。多分一晩寝たら元に戻るよ。」
「午前四時??そんなに宿題多い単位とってた?」
「プログラミングの宿題に吸い込まれちゃってね…」
「あちゃー、確かにそんなこともあるよね…」
なんとか誤魔化せたけど、これじゃまるで私が自分の体調を保てない無責任な人みたいだ。
ってあれ、まんまその通りか。謹んで呆れを受け入れます。
帰り道
二人して食べ終わって帰路に着く。
「あれ、Tは今日は徒歩でここまで来たの?」
Tは基本どこでも自転車で移動してるから、普段は食べ終わったら私はTが自転車を開錠するのを待つ。
「そうそう。言ったでしょ?今日は税金相談所に行ったって。バスで行ってその帰り道にここに寄ったから自転車は持ってきてないんだ。」
そうだった。Tはバイトしてるから税金を払わなければならない。単位も同じ数(最大限超え)取ってるのにTはそれにさらにバイトを掛け持ちしてる猛者だ。
よく考えたらTの方が全然私より忙しいはずなのに、私は宿題を口実に今日休んだのか…
「そっか、じゃあ一緒に帰らない?」
「あはは、元からそのつもりだよ」
「そういうことじゃなくてさ、いつもは通らない裏通りを通ってみない?って話。普段は階段あるから通らない所。」
「いいよいいよー」
裏道通ることを提案したのは最近開発した近道を共有したいの半分、これ以上知人に会いたくないの半分だ。
もうそろそろ袖は限界だ。目から漏れ出た涙が流れて腕を伝う段階まで来てしまった。袖口からその水滴が顔を出すまで時間の問題だ。鼻に意識を向けるとそのちょっと生臭くも甘い香りがする。頭の奥をざわつかせ、興奮させる危険な香りだ。Tの前でそんな気分になってはいけないから急いで意識を逸らす。
こんな状態で人目の当たる所に居たくはないし、万が一Tに気付かれても他人に見られない場所がいい。
結局無事寮に帰ることができた。前学期大学の敷地内を隅から隅まで探検した成果を共有するのは本当に楽しい。手首がぬめっと生温かい感触に支配されつつあるのを無視できるくらいには。
「それじゃあまた明日」
「また明日。身体をお大事に」
やっぱりTのことは好きだ。なんとなくだけど、そんな気がする。話してて楽しいし、なんか真面目なのに悪戯っ子な側面があるから面白い。
私がこんなダメ人間じゃなければもう少し素直に好きになれたのかな。
ふと手に視線を降ろす。
涙は手首を越えて手の甲、小指まで伝っていた。想像以上に危なかったんだなーとぼんやり思った。
私は被害妄想気味なのでその場では気づきませんでしたが、Tは多分普通に気遣ってくれていたのだと思います。
疑ってごめんなさい。愚かな私をいつも気にかけてくれてありがとう。