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古典擅釈(7) 命の重み『本阿弥行状記』①
日本にも多くの偉大な芸術家が現れましたが、本阿弥光悦(1558~1637)ほど多方面にわたって優れた業績を上げた人物はそうそういません。
本阿弥家は古来、刀剣の鑑定や研磨をなりわいとする家柄でしたが、光悦は書や絵画、茶、作陶、漆芸、印刷などにも優れた天分を発揮し、さらに晩年には家康から洛北鷹が峰の地を賜って、そこに芸術家の理想郷を建設しました。
まことにルネサンス的天才であると言えましょう。
光悦の言動は『本阿弥行状記』という書によってうかがい知ることができます。
ここには光悦に限らず、本阿弥一族の興味深い言行が書き残されています。
光悦の両親は光二、妙秀といいますが、天才光悦を育てた父母もまた他に抜きん出た才能、人格を持つ人でありました。
特にその母妙秀の考え方には、私たちの心を揺り動かすものがあります。
妙秀がまだ若いときの話です。
ある時、妙秀の家に血刀をさげて走り込んできた男がいました。
どうやら人を殺してきたようです。
男は妙秀を人質に取ってその家にたてこもろうとしました。
ところが、妙秀は顔色ひとつ変えずに言いました。
「おまえを助けてやろう。こちらへ来なさい」
妙秀は男を納戸の中に引き入れると、外から掛け金をかけ、自分は何食わぬ顔をして縁側近くに座っていました。
普通なら、人殺しがこのような言葉に従うはずがありません。
しかし、妙秀には人殺しをも信服せしめる胆力が備わっていたのでしょう。
やがて追っ手がやってきました。
しかも、数十人という数でなだれ込んできたのです。
家には若い女が一人座っているだけです。
妙秀はけげんそうに尋ねました。
「どうなされたのじゃ」
「人をあやめた者が、たった今この屋敷に逃げ込んだはずだ」
「さてさて恐ろしいこと。裏へ走って行ったのでは。よくよく捜してたもれ」
妙秀の騒ぐ様子を見て、男たちは、さては隣家に逃げ込んだかと出て行ったのでした。
日が暮れてから妙秀は男を納戸から出してやり、着物や編み笠、銭まで与えて男を逃がしたのでした。
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さて、妙秀のこのふるまいをどうとらえるべきでしょうか。
妙秀は殺人犯を助けたことになります。
現代なら犯人蔵匿罪に問われかねません。
しかし、当時はまだ天下一統ならぬ戦国時代でありました。
人殺しが日常茶飯であったわけでもないでしょうが、平凡な庶民が人殺しに関わることは、戦を除いても現代より格段に多かっただろうと思われます。
正当防衛としての殺人や、凶悪な犯罪に巻き込まれぬための殺人も少なくなかったことでしょう。
妙秀はこの男を見て、やむない事情を感じ取って助けたのではないでしょうか。
追っ手の数十人という人数にしても、何か尋常ならざるものを感じさせます。
男の正体が何であったかわかりませんが、一歩間違えれば妙秀も男ともども殺されていたことでしょう。
妙秀は命の粗末にされた戦国時代にあって、人の命の重みを自分の命で受けとめようとした人でした。
〈続く〉