見出し画像

古典擅釈(15) 正気と狂気 増賀②

 増賀はまじめで一途な男でした。
 そして孤独な男でした。
 若いころから学問・人物ともに人々の賞賛の的となりながら、自らは深く世を厭う気持ちを募らせていました。

 ある時、納得ゆくだけの道心が生まれないことを嘆いて、延暦寺の根本中堂に千夜参籠し、夜ごとに千回の礼拝をして道心を祈ったことがありました。
 初めは、礼拝のたびごとにいささかも声を立てることはなかったのですが、六、七百夜に至って、「付きたまえ、付きたまえ」とつぶやくようになりました。
 これを聞く人たちは、「この坊主は何を願って、天狗憑きたまえ、と祈っているのか」と怪しみ、また嘲りました。
 ところが、参籠が終わるころになって、「道心付きたまえ」とはっきり聞こえるようになると、人々も「感心なことだ」とほめたのです。(『発心集』)

 夜ごとに千回の礼拝をしながら、「付きたまえ、付きたまえ」とつぶやく僧の姿は確かに異様です。
 彼のまじめさ、一途さは、彼を奇行の一歩手前まで追いやっているようです。
 人々は初めそんな増賀を嘲笑しますが、彼の行為が道心のためであると知ると、一転して賛嘆します。
 しかし、人々はほんとうに増賀を理解したのでしょうか。

比叡山延暦寺 根本中堂

 次は『撰集抄』にあるお話しです。

 増賀自身は、千夜の参籠によってもまだ思うままの道心を得ることができませんでした。
 そこでただ一人、伊勢大神宮に参詣し、道心を祈りました。
 ある夜の夢に、彼は神のお告げを得ました。
 「道心を起こそうと思うのなら、我が身を顧みてはならない」
 はっと目覚めると、増賀は次のように決意しました。
 「名利を捨てよとのお告げであるのだ。よし、捨て切ろう」
 なんと彼は身につけているものをすべて脱いで乞食に与えると、赤裸の姿で比叡山に戻って来たのでした。
 四日の道中を物乞いをしながら帰って来たのですが、人々に囲まれて「狂ったか」「何と見苦しい」などと言われても、少しも動揺しなかったといいます。

 さて、寺に戻りますが、僧の中にも増賀を狂人扱いしたり、目を背けたりするものがいました。
 やはり、彼はほとんど誰からも理解されていなかったのです。
 彼の「道心付きたまえ」という突き詰めた心が、彼を赤裸にして山に戻らせたはずです。
 それなのに、彼の千夜参籠を賛嘆した誰一人としてその意味を推し量ることができなかった。
 彼らは結局、増賀の千夜参籠の姿、つまり道心を求める形を賛嘆しただけです。
 同じように、この時も赤裸で帰った増賀の形をしか見ていません。

〈注記〉裸体に対する感覚は今と昔とではかなり違っていました。増賀の行為は今ではもちろん犯罪です。

 師の良源はどうだったでしょう。
 彼だけは、増賀の心に目を向けていたようです。
 良源は増賀をたしなめます。
 「名利を捨てたことは、よくわかりました。しかし、これほどの振る舞いは行き過ぎです。早く威儀を正して、心に名利を離れなさい。」

 名利を離れるとは、形の問題ではなく、心の問題なのだ、と良源は教えています。
 赤裸になるというのは、まだ形にとらわれている証拠です。
 しかし、増賀は答えました。
 
 「名利を永く捨てはてなんのちは、さにこそ侍るべけれ」とて、「あらたのしの身や。おうおう」とて、立ち走り給ひければ、大師も門の外に出で給ひて、はるばると見送り給ひて、すずろに涙を流し給へりけり。
 「名利を永遠に捨て果てることができたなら、そのように致しましょう」
 そう答えると「ああ、楽しい我が身よ。おうおう」と叫んで、走って出て行かれた。
 大師(良源)も門の外に出ていらっしゃって、増賀の後ろ姿を見送りなさりながら、そぞろに涙をお流しになるのであった。 

「増賀上人行業記絵巻」より

 「人間の価値は外見では決まらない」
 このような言葉は正論ですが、嘘も多いものです。
 形に現れることのない心など、どれほど信頼するに値しましょう。
 当てにならぬ心に、増賀は自らを託すことはできなかったのでしょう。
 赤裸になることによって、自らの心を試したとも言えます。

 あらたのしの身や。おうおう。
 裸のまま立ち去る増賀を、良源は涙を流しつつ見送ります。
 奇矯な振る舞いが、増賀の場合は極めて自然なものとして私の目に映ります。

 それにしても、良源はなぜ涙を流したのでしょう。
 優秀な弟子が狂ってしまったからでしょうか。
 しかし、良源には増賀の振る舞いの意味がよくわかっていたはずです。
 良源の涙は、増賀個人への憐れみの涙とは思われません。
 恐らくそれは、人が一途に生きようとすることの困難さを哀しむ涙ではなかったでしょうか。
 一途に生きようとすれば、世間と合わなくなる部分が生じます。
 今までの自分と合わなくなる部分も生まれます。
 その時、人の振る舞いは、反世俗的なもの、奇矯なものに見えてしまう。
 良源の涙は、人間の生のあり方そのものを憐れむ涙のように思われます。
                            〈続く〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?