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古典擅釈(32) 至孝天に通ず『雲萍雑志』③

 『雲萍雑志』のこの逸話は、それなりにおもしろい話ではあるものの、実際にはこんなうまい具合にゆくはずがない、というのが正直なところでしょう。
 人を脅して金品を奪い、時には殺人さえいとわないというのが盗人です。
 世の法度や礼節に背を向け、人の思いやりとか良心とかを捨てると決心したから盗人になったのです。
 いかにけなげな女の子の気の毒な話を聞いたからといって、盗人たちがもらい泣きし、命がけで略奪した戦利品をやすやすと女の子に与えるでしょうか。

 今でも勧善懲悪の物語は人気ですし、涙を誘うドラマも自ら求めて視聴する人が多いことでしょう。
 チンピラに絡まれた若い女性をニートの青年が助けたら、その女性の父がやくざの親分で、恩に感じたその親分はニートに堅気の仕事を斡旋し……みたいな話は、今もショート動画界隈に見られ、コメント欄には称賛や感動の書き込みが溢れています。
 その大半は作り話だと承知で書き込んでいるようですが。
 『雲萍雑志』の話もそのような「大人のお伽噺」なのかもしれません。


 実は、私は本当にあった話だったろうと思っています。


 小泉八雲に『停車場にて』という小品があります。

 明治26年6月、巡査殺しの犯人野村某が裁判のために熊本の駅に護送されてきました。
 駅には兇徒を一目見ようと、大勢のやじ馬たちが集まっています。
 八雲もその一人でした。
 やがて犯人と護送の警官が現れます。
 改札口を出た警部は群衆に向かって、杉原という名の女性を呼びます。
 それは殺された巡査の妻でした。
 子どもを背負った未亡人が前に出ると、警部はその子に「この男がお前のお父さんを殺したんだ。坊や、辛いだろうが、よく見るのだ」と言って、犯人の顔を持ちあげました。
 怯えつつ男の顔をじっと見つめる坊やと目を合わせ、男は自責の念に駆られて膝から崩れ落ちます。
 そして、顔を地に打ち付け、坊やに嗚咽しながら謝罪しました。

 その時、なんと群衆たちはすすり泣きを始めたのです。
 警官も涙していました。
 この光景に八雲は衝撃を受けます。
 そして、次のように記しました。

 「この人たちは、人生の困難さや人間の弱さを純朴に、また身にしみて経験しているので、激しい怒りではなく、罪についての大きな悲しみだけで胸塞がれ、後悔の念と恥を知ることで満足しており、またあらゆることに感動し、何もかもを分かっているのであった」


 今の日本でもし同じような場面があったとしたら(あり得ませんが)、どんなことが起こるでしょう。
 大半の人は無視し、一部のやじ馬が犯人を罵倒するのではないでしょうか。
 すすり泣きが起こるとは思えません。

 当時の群衆はなぜ泣いたのでしょう。
 それは、八雲が言うように「人生の困難さや人間の弱さを純朴に、また身にしみて経験してい」たからではないでしょうか。
 貧しさがデフォルトであった時代です。
 「わがこころのよくて殺さぬにはあらず」(親鸞)と口にはしないけれど、その心は身に沁みてわかっていたのではないか。
 だから、すすり泣いたのです。
 犯人のことを許しはしないでしょうが、自分も犯人の境遇に近い立場に立っていて、もしかしたら自分も誰かからものを盗んだり、誰かを殺すことになったりしていたかもしれないと思うから、「罪についての大きな悲しみだけで胸塞がれ」たのです。


 毘沙門堂の盗賊たちも同じであったのでしょう。
 「わがこころのよくて盗まぬにはあらず」とは、裏返せば「わがこころのあしくて盗むにはあらず」です。
 盗賊にもすすり泣いた群衆と同じ心が宿っていたのでしょう。


 八雲は『停車場にて』の最後に石川五右衛門の逸話を載せます。
 彼は盗みを働こうと忍び込んだ人家で、無邪気な赤ん坊の微笑みに心奪われ、所期の目的を達成する機会を失った、と。
 そして、次のような言葉で作品を結びます。

――これは信じられない話ではない。
 警察の記録には、毎年、プロの犯罪人たちが子どもらに示した同情の報告がある。
 地方新聞に載った、数ヶ月前の凄惨な大量殺人事件は、強盗が睡眠中の一家七人を文字通りに切り刻んだものであった。
 警察は、一面の血の海の中でひとり泣いている小さな男の子を発見したが、まったくの無傷であった。
 警察によれば、犯人らが子どもを傷つけまいとしてかなり用心した確かな証拠があるという。――


 「至誠天に通ず」(孟子)という言葉があります。
 これが真理なのかどうかはわかりませんが、確かに真心が困難を打開し、成功や幸せをもたらすことはあるでしょう。
 『雲萍雑志』のこの話は「至孝天に通ず」とでもいうべき話です。
 古びた教訓話ではありますが、人の真心、特に子どもの真率な思いが天に通じてほしいという願いが込められています。
                              〈了〉
 

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