漢詩自作自解⑪「偶詠」
2018年6月21日は、私にとって小さな“大事件”のあった日です。
その日は張冬晢君の大学院修士課程の卒業式のある日で、彼から式を見においでと誘われていました。
彼は紺地に臙脂色の襟のついたお洒落なアカデミックガウンと黒い角帽(モルタルボード)を着用し、ぴしっと決めていました。
私が「部外者だけど大丈夫なの?」と聞くと、彼は構わないと答えます。
恐る恐る会場に向かうと、受付もなく、自由に出入りできました。
会場内で彼と出会い、その日わざわざ鄭州からやって来られた彼のご両親にもご挨拶しました。
私は邪魔にならないように最後列の座席に座り、式の様子を観察しました。
式次第は基本的に日本の卒業式と大差ありませんでした。
少し違うところがあったとすれば、式の最後に各学科の最優秀学生の表彰があったことぐらいでしょうか。
式後、私は張君や若い仲間たちとともに近くのレストランに行き、祝杯を挙げました。
食事の後、カラオケに行こうと誘われました。
私は音痴なのですが、喜んで彼らの後について行きました。
大学の南西にある門を出てすぐのところにカラオケ店があるのですが、そこで“大事件”が起こりました。
古びたビルの二階にその店はありました。
総勢七名で受付を済ませ、一室に入って機械の準備を始めたその時です。
五名ほどの男が部屋に一気に乱入してきました。
すぐに警察だとわかりました。
警官たちは張君らに身分証を見せろと命じました。
部屋の中には緊張した空気が走りましたが、張君らは落ち着いて対応しました。
私は内心、かなり焦っていました。
実は、その日に限ってパスポートを所持していなかったのです。
私はふだん校外に出る時は必ずパスポートを所持していましたが、校内では所持していなかったのです。
卒業式は校内で行われたのでパスポートは所持していなかったのですが、その後食事に誘われ、私は部屋に戻ることもなく、そのまま出てしまったのです。
学生たちの身分証が確認されている間、私は半分覚悟を決めました。
……パスポートを忘れたことを正直に言おう。
すぐ近くの宿舎にパスポートはあるからと言っても、たぶん許してくれないだろうな。
そう言えば、ある有名な政治家が若い頃ポーランドに行って、パスポート不携帯で逮捕されたとか聞いたことがある。
その人は留置場に一晩入れられたと聞いたが、私もそうなるかもしれないな。
一晩ぐらいで出してくれればいいけど、さて、どうなるか。……
しかし、張君が「この人は日本人で、大学の先生だ」などと説明してくれると、彼らは私には目もくれず出ていきました。
学生たちはみなちゃんと身分証を所持していたし、大学院の学生で間違いのないことがはっきりしたのでしょう。
私はホッとして、張君に礼を言いました。
なぜ警官たちが私たちの部屋に突入してきたのか、その理由はよくわかりません。
真っ昼間に若者の集団が密室になるカラオケ店に入ったから、なんだか怪しいと思ったのでしょう。
違法な薬物の取引でもしていると思ったのでしょうか。
もしそうだったとしたら、薬物犯罪に厳しい中国ですから死刑になっていたことでしょう。
ちょうどその頃のことですが、張君から一枚の写真が送られてきました。
彼は沙湖公館という高層マンションに住んでおり(漢詩自作自解①「湖北大送張冬晢之北京」参照)、その窓から撮影した風景を送ってきてくれました。
残念ながらその写真はありません。
また、なぜその写真を送ってきたのか、その趣旨も忘れました。
ただ、ビルとビルの間から高い空と白い雲の見える写真だったと思います。
今回の事件とは関係がありません。
私は返信する際、次の詩を添えました。
偶詠
暑月雲高独端座
暑月 雲高くして 独り端座す
厭倦読書窓外風
書を読むに厭倦すれば 窓外の風
既往不咎凌雲志
既往は咎めず 凌雲の志
来者可追千仭功
来者は追うべし 千仭の功
〈口語訳〉
今の思いを詩にする
六月の暑いある日、君は一人部屋に座り学問している。窓の外を見ると青い空に白い雲が見える。
長時間の読書に倦んだ君に窓の外からそよ風が吹いてきて、君を労わってくれる。
過ぎ去った昔のことについてはもうとやかく言うまい。過去にこだわるより、あの雲のような高い志を持つことが大事だ。
未来のことは何事も追い求めることができる。君も今は雌伏しているが、将来は必ずや大きな功績を挙げることだろう。
〈語釈〉
〇偶詠…ふと心に浮かんだことを詩歌に詠むこと。
〇暑月…暑い季節。だいたい小暑から大暑の頃(6~7月)に相当する。
〇端座…姿勢を正して座ること。
〇厭倦…飽きて嫌になること。
〇既往不咎…過ぎてしまったことはあれこれ責めないこと。
〇凌雲志…功名を立て、立身出世をしようとする志。青雲の志。
〇来者可追…これから先のことなら、いくらでも実現の可能性がある。
〇千仭…山などが非常に高いこと。また、谷や海などが非常に深いこと。両手を上下に広げた長さが「仞」
〈押韻〉
風・功
上平声 一東
毎日研究生活に明け暮れる張君に贈った詩です。
ちょうど私も自室の窓際の席で仕事をしていました(サムネイルの写真が当時の私の部屋です)。
木々のすき間からわずかに見える程度の空ではありましたが、吹き込むそよ風がとても心地よく感じられました。
私も「凌雲の志」とまではいかないにしても、「片雲の志」ぐらいは持ちたいものだと心ひそかに思ったものです。
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