奇妙な体験(5) ――「引き裂かれた心」に連れられて――
大学は2月26日に二学期が始まりました。
3月1日の朝、朝御飯を食べに宿舎を出たところで、偶然D先生に出会いました。
お子さんを連れてのご出勤で、この後大学内の幼稚園に預け、そのまま仕事につくのでしょう。
D先生に「今日、仕事はあるか」と聞かれたので、「ない」と言うと、「これからA先生の見舞いに行くが一緒に来ないか」と誘われたので、「喜んで行く」と答えました。
あれから彼がどうなったのか、風の噂では病院からの脱出を試みてベッドに縛り付けられた、みたいな話も聞いていたので、心配していました。
D先生と私の他に、Tさん、同じくアイルランドから外国人教師として来ている2名の先生と病院に向かいました。
彼は、見た感じ元気でした。
若干痩せたかなという印象ですが、表情は明るく、普段とあまり変わりない感じで、ちょっと安心しました。
あの日のことは彼も覚えているらしく、「申し訳なかった」と私に言いました。
しばらくの間言葉を交わして、私たちは外に出ましたが、Tさんだけは病室に残り、二人で何か話し合っていました。
A先生にとってTさんは信頼できる人物の一人なのです。
D先生が主治医と話しあっている間、私は外の廊下で待っていました。
そのうちにTさんが出てきたので様子を聞いてみると、見た目と異なり、精神状態はあまりよくないようです。
A先生は「新しい自分を見つけた」と言っていたそうです。
初めにお話ししたとおり、彼は信仰のためにすべてを犠牲にできる(はずの)男でした。
つまり、結婚も、経済的成功も、その他世俗的な欲望をすべて断ち切って生きてきました。
そのA先生が、「彼女が欲しい」「結婚したい」「お金も欲しい」みたいなことを言い出したというのです。
以前、私と話した時、A先生は「肉体の欲望に精神を支配されたくない」と言いました。
欲望に振り回されがちな私からすれば「すごい」こと、「素晴らしい」ことではあるのですが、正直なところ「そんなふうに生きるのはしんどいだろうな」と感じました。
私も若い頃、似たような考えにとらわれたことがありますが、今では「欲望に振り回されるのはよくないが、欲望も人間の自然なありかたの一つであり、適度に欲望を満たすことは必要だし、重要でもある」と思っています。
むしろ、欲望に支配されるのが不健全であるのと同じように、欲望を過度に支配しようとするのも不健全である、と考えています。
ですから、Tさんからその話を聞いたとき、私は「それは彼にとって必ずしも悪いことではない」と言いました。
しかし、Tさんが言うには、「その新しい自分は、外部からの声となって彼の頭の中に届いている」そうなのです。
つまり、以前は神が彼に呼びかけていたのですが、今は神とは異なる別の何ものかが彼に呼びかけているらしいのです。
それを聞いて、私もまずいなと思いました。
Tさんは、「今、彼は自分をコントロールできていない状態にある。病院から出したら、どうなるか分からない」と言いました。
ちなみに、A先生は今自分がどういう立場にあるのか(自分が精神病院に入っていること)を理解しているそうです。
来週になると、アイルランドから兄弟がA先生を迎えに来るとのことでした。
そのまま母国に帰ることになるのでしょう。
それが彼にとって一番いいことだと思います。
私はTさんに、「A先生は今まで自分に禁じることがあまりに多かった。これからは、そのような過度な自己抑制から解放されなくてはいけないと思う。他の人には言えないけれど、彼はもう教会などへは行かないほうがいいと私は思う」と言いました。
今、A先生の世話をしているのは教会関係の人たちなので、実際は難しいのですが。
ところで、今回のこの「事件」で、私は「二分心」のことを思い出していました。
「二分心」は、アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』の中で提示した心の仮説です。
ジェインズに拠れば、太古の人間には意識も「私」という概念もありませんでした。
では、当時の人間は何に従って行動していたのかというと、それが「神々の声」であると言います。
人間の心は、命令を下す「神々の心」とその命令に従う「人間の心」の二つに分かれていました。
人間の感情や意志に「神」が介入しており、現代人が考えるような「私の意志」によって行動していたのではありません。
現代でも統合失調症の患者がありもしない声を聞くのは、この「神の声」を聞いているのだということです。
A先生の行動は、まさにこの「二分心」の表れであるように感じられました。
旧暦大晦日の日、Jさんの家へ行くため武漢市内をさまよっていた時、彼は「神が導いてくれる」と語っていました。
あの日、彼は確かに「神の声」を聞いていたのです。
だから、あのように自信満々に歩き続けることができたのでしょう。
本当は何も知らなかったのに。
彼は二分心、つまり自分を支配する「神の声」から解放されなければならないと思います。
彼は「神の声」ではなく、「ほんとうの自分の声」に耳を傾けねばならない……。
こう言ってしまうと、「新手の宗教」(内田樹さんの言葉)になってしまいますね。
「ほんとうの自分の声」があるかどうか知りませんが、少なくとも彼は理不尽に自分を抑制しようとする禁欲主義的生き方から解き放たれねばならないと思います。
適度な自分の欲望には素直であった方がいい。
彼女が欲しいとか、結婚したいとか、お金が少々ほしいとかいうのは、まだ34歳の彼にとっては、自然で正常な欲望です。
だから、彼が「新しい自分を見つけた」と言った時、私はいい傾向にあると思ったのです。
ただ、それがあたかも「神の声」のように外部から頭の中に聞こえてきたというのでは、単なる新たな「神」の出現と変わりないかもしれません。
しかも、「欲望」という名の「神」に支配されるわけですから、いっそうたちが悪い可能性もあります。
彼の「新しい自分」が彼をよい方向に導くものであることを心から願っています。
彼は今後母国に戻り、家族や友人やそのほか市井の人々に囲まれて、日常の生活を送ることにより自分を回復していくしかないのではないでしょうか。
できれば一神教的原理主義から離れた生活をした方がいい。
穏やかな日常性の中で生きていける、そういう環境が彼に必要です。
宗教に限りません。
「絶対」や「真実」という思い込みを安易に持たない方が、楽な生き方、自由な生き方、柔軟な生き方ができるのではないでしょうか。
中国の春節という幸福感を背景に、親愛と信頼と、徐々に萌しつつある懐疑の念とを抱きつつA先生と沈黙の武漢を彷徨した時、私は実に奇妙な感覚にとらわれて続けていました。
それは、「確信」という名の「崩壊」を起こしつつあった人間の心に直面した時に感じた、曰く言い難い奇妙さであったのだと思います。
〈了〉
〈初出〉YouTube 音羽居士「奇妙な体験 『引き裂かれた心』に連れられて」2023年3月5日 一部改