古典擅釈(16) 正気と狂気 増賀③
増賀は比叡山を離れ、多武峰に向かおうとし、師のもとに暇乞いに行きます。
けれども、良源は許しませんでした。
そばの学僧たちにも強く引き留められます。
彼は思い余って「狂気」を振る舞った、とされます。
以下は『発心集』にある話です。
ある時、宮中において内論義という儀式が行われました。
内論義というのは、御斎会結願の日に当たる正月十四日に大極殿において行われたもので、天皇の前で高僧たちに経文の内容を論じさせた行事です。
論義が終わると、恒例のこととして、貴人に供された御馳走の残飯を庭に投げ捨てました。
庭には大勢の乞食が集められていて、その残飯を争い食ったということです。
高僧や貴人からすれば、功徳を施しているつもりだったのでしょう。
そこへ、突然、増賀が大衆(多くの僧)の中から走り出て、乞食の群れへ飛び込みました。
そして、彼らに入り混じって、投げ捨てられた残飯を拾い食ったのです。
周囲は大騒ぎになりました。
「この禅師はものに狂ったか」とののしる声々の中、しかし、増賀は敢然と言い放つのです。
我はものに狂はず。かく云はるる大衆たちこそものに狂はるめれ。
私は狂ってなどいない。このようにおっしゃるあなたがたこそ狂っておられるらしい。
いったい、高僧たちは何を論じてきたのでしょう。
また、貴人たちは何を聞いてきたのでしょう。
おそらく天台の宗旨について論じられたその内容は、「衆生済度」の慈悲の言葉に満ちあふれ、「山川草木悉皆成仏」の奥義を語っていたに違いありません。
聞く者たちは皆、その論義に随喜の涙を流していたはずなのです。
濡れた袂も乾かないうちに、その涙を拭った同じ手で、人々は残飯を乞食たちに捨て与えた。
しかし、人々はたった今、その耳で、どんなに底下の人間も等しく成仏できることを、一粒の飯、一塊の石くれにさえも仏性の宿ることを聞いていたばかりです。
その人々が、食べ物を粗末にし、人を軽んじながら、何らの痛みも感じないとしたら、それこそどうかしているではありませんか。
増賀には耐えられなかったのでしょう。
彼は、乞食の中に入ってみせたのではありません。
乞食の中に入らずには済まなかったのでしょう。
自分を乞食と同じような底下の位置に陥れねば済まなかったのでしょう。
それによって、人間扱いされない乞食を、一粒の飯すらも済度しようとしていたのなら、それこそ慈悲というものです。
狂っているのは増賀ではありません。
明らかに、高僧や貴人たちの方です。
増賀にしてみれば、彼らこそ「天狗付き」に見えたでしょう。
増賀の「奇行」は続きます(以下、『今昔物語集』)。
比叡山で、供養された品を分けるところがありました。
寺々では下使いの僧を遣わして、それらの品をもらい受けていました。
ところが、増賀は黒く汚れ折り櫃(弁当箱)をさげて、自らそこへ赴いてお供えをもらおうとしました。
担当の役僧がこれを見て、「あなたは尊い学僧ではないか。自らお供えを受けるとは奇妙なことだ」と言って、誰かに持たせようとすると、増賀は「ぜひ私がいただきたいのです」と言います。
役僧は「何か考えがあるのだろう。では差し上げよ」と言って、与えました。
増賀は受け取ると、僧坊の方へは行かず、卑しい人夫たちが行き来する道で、彼らと並んで座り、木の枝を折って箸にして、人夫たちと分け合いながら食べたのでした。
人々はこれを見て、「これはただ事ではない。気が狂ったのだ」と考え、不愉快に思い、汚がった、とあります。
彼の才能を愛惜し、山を離れることを許さなかった良源も、この期に及んでついに彼を見限ります。
増賀の振る舞いはそんなに常識はずれであったのでしょうか。
しかし、彼は道に背いたことは何もしていないはずです。
それどころか、彼の振る舞いこそ道に適ったものだと言えるでしょう。
自らのものは自らが受ける。
差別することなく、人に平等に接する。
彼はただ、自分の道心に従って振る舞っているにすぎません。
諸書は、増賀が多武峰に逃れるために狂気を装ったと言います。
しかし、本当でしょうか。
彼の振る舞いは、どうも演技には見えません。
確かに、演技らしきところはあります。
ですが、それも彼の道心から自然と流れ出たような演技のように見えます。
彼の振る舞いに恣意的なところは何一つ見当たりません。
増賀は狂気の人ではありません。
そして、佯狂の人でも決してなかったのです。
〈続く〉