漢詩自作自解⑫「中秋節の月を眺めて」
私が武漢で勤めていたのは2017年8月下旬から、新型コロナの流行する直前(2020年1月上旬)までの二年あまりですが、その頃の日本はまだ中国経済絶好調のような報道で溢れていました。
中国経済崩壊論は2008年の北京オリンピックの頃から一部で唱えられていましたが、崩壊どころかますます発展するように見え、崩壊論者に対しては「いつになったら崩壊するのか」というような、いくぶん嘲りを含んだ問いかけがなされていたことを覚えています。
実際、私も武漢に行った当初はその繁栄ぶりにずいぶん驚かされました。
まずは林立する高層ビル。
日本では、東京でさえも見ることはできないほどの規模です。
広い道路を走る多くの車。
都市の高速道路はだいたいが片側四車線もありました。
夜には煌めくビルのネオン。
日本と違って、ビル全体にネオンの装飾があります。
ともかく豪華であることが追求されており、コストや環境の問題は二の次であるように感じられました。
武漢に在住していた時、よく公園に出かけました。
東湖公園、黄鶴楼公園、解放公園、中山公園、青山公園、洪山公園、馬鞍山森林公園など、いずれも大きな公園で、非常によく整備されていました。
小さな公園に行っても、ずいぶんお金がかけられていることがわかりました。
知人(日本人)にこの話をしたら、彼は「社会主義国家なのだから当然だろう」と言っていましたが。
私の住む宿舎のすぐ近くにも沙湖公園があり、よく散歩に出かけました。
沙湖は一周9.9㎞、対岸には以前ご紹介した楚河漢街があります。
四季折々の花を観賞できたり、並木の道を通り抜けたり、子供連れで遊びに来ても楽しめる遊具があったり、釣り客が釣り糸を垂れていたり、洋風に整備された湖畔の椅子に座ってカップルが談笑していたり、ちょっと高級そうな茶館があったり、小高い丘の上に東屋があったり、中国風の橋が架かっていて欄干に併置された椅子からビルに囲まれた湖を眺めることができたり、ともかく何度訪れても飽きることのない、私のお気に入りの公園でした。
とある休日、また沙湖公園に散歩に出かけた時のことです。
大勢の人が行き交う中、ある不動産屋さんがマンションのセールスをしていました。
道には折り畳み式の看板がいくつか立てられ、多くの物件が紹介されていました。
そのそばを通り過ぎる際、価格をちらっと見たのですが、最高級の部屋はなんと1000万元近くで売られていました。
当時のレートで言えば、約1億5000万円です。
安い部屋でも、その半額ぐらいはしました。
びっくりした私は、翌日の授業でこの話を学生たちにしました。
「すごいね、今の中国の人たちは。お金持ちが多いと聞くけど、1000万元だよ。どんな人が買うんだろうね」
私はただ自分の思った通りを素直に話したつもりです。
ふざけて話したつもりもないし、中国を揶揄するようなニュアンスもなかったはずです。
しかし、私の話に学生たちは何の反応も示しませんでした。
ふだんはとても積極的な学生たちで、授業はとても活発なのですが、この時は誰も何も言わなかったし、彼らも無表情というか、どんな顔をすればいいのかわからず、戸惑っているような表情に見えました。
「そんなマンションが買えるのは、先生が思っているような庶民じゃないよ」
「住むために買うんじゃなくて、大半はお金持ちが投機のために買っているんだから」
そんなふうに思いながら、私の話を聞いていたのでしょうか。
今から思えば、その時すでに庶民の集う公園でセールスしなければならないほど、高級マンションも売れなくなっていたのでしょう。
学生たちもそんな時代の空気に感づいていたから、微妙な表情をしていたのかもしれません。
実は、繁栄しているように見えた武漢ですが、衰退の兆しもあちらこちらで見ることができました。
長江のほとりに武漢グリーンランドセンタービルが建設されています。
学校からも見上げることのできるところに立っていました。
2010年着工、当初は中国一の高さ636mを目指していましたが、私が武漢に赴いた頃にはすでに工事は中断されていました。
その後、建設は再開されたようですが、完工したのかどうか、入居したテナントは営業を始めたのかどうか、よくわかりません。
楚河漢街の北端(沙湖に面したところ)に武漢漢街ワンダープラザという建物がありました。
円柱の建物が重なったような不思議な形をしており、全体が金色に耀いていました。
ショッピングやグルメ、ゲームなどが楽しめる複合商業施設だったそうですが、これも私が赴いた時にはすでに閉鎖されていました。(ネットで調べてみると、武漢漢街ワンダープラザは今年(2024年)7月26日に再オープンしたとのことです。)
ワンダープラザのすぐ前に遊覧船の発着場がありましたが、ここもいつのまにか閉鎖されていました。
楚河漢街周辺のオフィスビルですが、夕刻に赴き電灯の灯る部屋を見た感じで言えば、入居率は半分ぐらいでした。
街のあちこちにそびえ立つ高層マンションも、人の住む気配がほとんどないものがいくつも見られました。
素人目にも、こんな状態で経済が持つのだろうかという感じでした。
さて、そんな武漢にいた頃、月を眺めて作った詩を三首ご紹介します。
一作目は2018年9月23日(中秋節)、沙湖付近での作。
中国語の口語を使った言葉遊びの歌です。
看中秋節月亮
中秋節の月亮を看る
月亮千古看地上
月亮 千古より地上を看る
地上総有壊情況
地上 総て壊き情況有り
情況如何改人心
情況 如何に人心を改むるか
人心清澈看月亮
人心清澈たり 月亮を看る
〈口語訳〉
中秋節の月を見る
月は大昔から地上を看てきた。
地上はいつも悪い状況にあった。
その状況はどんなふうに人の心を変えてきたのだろう。
人は心を澄まして月を見ているのだけれど。
〈語釈〉
〇月亮…月のこと。
〇総…いつも。
〇清澈…澄み切っているさま。
〈押韻〉
上・況・亮
去声 漾
中国に「辘轳体诗(轆轤体の詩)」という詩体があります。
各句の首尾の語をしりとりした詩です。
現代詩人の単人耘先生に次の作品があります(単人耘は「一人草取りをする」という意味です)。
「一筋の秋の三日月が鉤のように曲がっている。鉤のように曲がった月の下、豪華な二階に上がった。二階の半ば巻き上げられた簾をつるし上げてみる。その半ば巻き上げられた簾の向こうに一筋の秋(の月)が見えた」というような意味でしょうか。
たった十三文字でしりとりしながら、七言詩を書き上げています。
因みに「鉤・楼・秋」で押韻しています(下平声 十一尤)。
私は各句の初めと終わりの二文字でしりとりしました。
中秋の名月を見ながら、月もこの地上を見続けてきたのだなと思いました(サムネイルの写真参照)。
ずっと争い続けてきた人間世界を、月はどんなふうに見てきたのだろう。
長い争いの歴史は人の心を荒廃させてきたのではないだろうか。
でも、今、多くの人はきれいな心でこの中秋の名月を見ている。
私たちの心をこの名月はきっと浄化してくれているのだろう。
……特に深い詩情や思索があるわけではありませんが、感じたままを詩にしてみました。
二作目は、翌年の中秋節(2019年9月13日)の作品です。
私は友人とともに沙湖に出かけ、名月を愛でました。
これも中国語の口語を使った言葉遊びの歌です。
沙湖円月
沙湖の円月
月亮漂亮非自光
月亮 漂亮なれども 自ら光るに非ず
依靠太陽纔発光
太陽に依靠して 纔かに光を発す
夜晚無月世無光
夜晚 月無くんば 世に光無し
人有生命沾月光
人に生命有るは 月光に沾う
〈口語訳〉
沙湖の満月
月は美しいけれども、自ら光っているわけではない。
太陽の光を反射して、やっと光っているに過ぎない。
だけれど、夜、月がなければこの世は暗闇だ。
人に命があるのは、全く月の光のお陰なのだ。
〈語釈〉
〇漂亮…きれいである。
〇依靠…頼る。頼みとする。
〇纔…やっとのことで。
〇沾…お陰をこうむる。
どうも理屈っぽい詩で、何の風情もありません。
ただ「光」の字で句末を揃えたところが、面白いと言えば面白いというだけの作品です。
三作目は、翌日の夜(十六夜)の作品です。
王建の「十五夜望月」を真似ました。
月影を見たいと思って深夜12時を過ぎた頃に宿舎を出、キャンパス内を少しだけ徘徊しました。
私以外、誰も見かけませんでしたが、他の人が私の姿を見たらきっと不審者だと思ったことでしょう。
学生寮は、確か夜11時が門限だったので、誰も見かけなかったとしても当然です。
月はあいにく雲に隠れていました。
ただ、音も色も動きもないキャンパスは白黒の点描画のようで、そんな光景にはおぼろな月影が相応しいと感じられました。
十六夜望月
十六夜 月を望む
校園地白清風夜
校園 地白し 清風の夜
灯光無声照宿舎
灯光 声無く 宿舎を照らす
三更月朧人無望
三更 月朧にして 人望む無く
不知何時随蝶化
知らず 何れの時にか 蝶に随いて化するを
〈口語訳〉
十六夜に月を見る
爽やかな風の吹く夜、私は外に出てみたが、キャンパスの地面は月に照らされて白い。
街灯は音を立てることもなく、弱々しく宿舎を照らし続けている。
深夜、月影はおぼろで、私のほか、誰も月を愛でる人はいない。
私の心もいつの間にか蝶のようになって、一人この森閑とした世界を飛び回っていたようだ。
〈語釈〉
〇望月…観月の意。満月の意ではない。
〇三更…深夜。五更の第三。おおよそ午後11時からの2時間をいう。
〇随蝶化…元の謝宗可の詩「睡燕」にある語。荘子の「胡蝶の夢」に基づく。
〈押韻〉
夜・舎・化
去声 二十二禡
日中は学生たちの声で賑わうキャンパスも静寂に包まれ、異世界に出たような感じがしました。
夢と現実、自分と世界の境界が消えていくような感じで、荘周のいう物化を彷彿させるような体験でした。
〈参考〉
十五夜望月 唐 王建
十五夜 月を望む
中庭地白樹棲鴉
中庭 地白うして 樹に鴉棲み
冷露無声湿桂花
冷露 声無く 桂花を湿す
今夜月明人尽望
今夜 月明 人尽く望むも
不知秋思在誰家
知らず 秋思の誰が家にか在る
〈口語訳〉
十五夜に月を望む
中庭は月に照らされて白く輝き、木々の鴉ももう寝静まっている。
夜が更け、冷たい露は音もたてず木犀の花を潤している。
今夜の名月は特に美しく、誰もがその美しさを目出ているが、
中でも最も秋の物思いに耽っているのは、どこの家の人であろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?