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漢詩自作自解⑦「霊泉妙境」

 2019年1月、張冬晢君らとともに河南省を旅しました。
 張君の実家は省都鄭州市にあるのですが、鄭州市の近くに鶴壁市という町があり、その郊外に新たに完成したリゾート施設があるから、行ってみないかと誘われたのです。

河南省行政地図

 鶴壁駅から車で小一時間ほどでその村に到着しました。
 山間の僻地にあるその集落は例に漏れず急激に過疎化していたのですが、一つ大きな特徴がある村でした。
 それは、村の家屋がすべて石を積み上げて造られていたことです。
 (石造りの家で構成された村自体は中国ではそれほど珍しくはないのですが、家の造りが元々美しく緑の多い景観とよく調和していたこと、周辺にも観光資源があったこと、都市からの距離が近すぎることも遠すぎることもなかったことなどがリゾート施設として再開発された主な理由だと思われます。)
 涼水泉というその名もゆかしき村を、ある企業が村ごと全部買い取り、市政府と共同で再開発しました。

涼水泉村の位置
空から見た霊泉妙境。中心の集落が旧涼水泉村。左側に点在する建物は宿泊施設。

 老人ばかりで自然しかなかったその貧村は、一夜にして、豊かな自然を求める裕福な都会人たちの集まる魅力いっぱいの別荘地に生まれ変わりました。
 霊泉妙境と名付けられたその施設を見て、私はイタリアの世界遺産アルベロベッロを連想しました。
 アルベロベッロに行ったことがあるわけではないのですが、その村を東洋風にした感じがしました。

アルベロベッロの街並み
霊泉妙境の建物
旧村長宅の中庭
宿泊施設の内部。部屋の造りはすべて異なっていました。

 家を売った村民たちには鶴壁市にあるマンションに新居が用意され、大半の人は都会の新生活を喜んで受け入れたそうです。
 前近代的な暮らしをしていた人たちが現代的住居に転居したのですが、それがどれだけ彼らにとっていいことであったのかはわかりません。
 それまで農業で生計を立て、おそらく肉体的労働にしか携わったことがなかったでしょう。
 そんな彼らがいきなり都市に投げ込まれ、仕事をはじめとして、果たしてうまくいくものか。
 その辺りについては私も詳細な実態を知るわけではないので、ここで踏み込んでお話しすることはできません。
 
 「霊泉妙境」と名づけられたその村は、都会生活に疲れた現代人の心身を癒やすに最適なリゾートに生まれ変わっていました。
 開発されたそこには、個性的な宿泊施設や小綺麗なレストラン、茶館、ワインセラー、果樹園、会議室や文化施設、ミニゴルフコースや自然豊かなプロムナードなどが整備されています。
 物質的な豪華さや画一的な娯楽だけを提供する高度経済成長期の観光業とは異なるコンセプトによって設計された、魅力的な施設です。
 
 建設途中で開業した施設の裏手に回ると、まだ手つかずの廃屋の内部を見ることができました。
 埃まみれの室内には、荒れ果てた家財道具がまだ残っています。
 二階の床などは踏み抜けてしまったところもあり、室内に入る勇気はありませんでした。
 室外に設置されたトイレはわずかな板によって囲われており、江戸時代や明治時代の寒村にあったトイレを彷彿させました。
 涼水泉村が極貧の村であったことがよくわかりました。
 ここに住んでいた村人たちはほぼ全員、町に移住しました(一部の人は施設の職員として雇用されました)。
 施設の入り口には「脱貧」の文字が刻まれた大きな石碑が建てられていましたが、まさに政府の唱える脱貧困政策の実例であることを顕示しようとしていたのでしょう。
 
 旅客として訪れた涼水泉村は、ほんとうに心洗われるような別天地でした。


 霊泉妙境
 
古来里人掬涼泉
 古来こらい 里人りじん 涼泉りょうせんきくすれども
石屋凄愴苦炊煙
 石屋せきおく凄愴せいそうとして 炊煙すいえんくるしむ
如今行客踏清流
 如今じょこん 行客こうかく 清流せいりゅう
山荘舒暢楽酔眠
 山荘さんそう舒暢じょちょうとして 酔眠すいみんたのしむ
側耳幽玄不老響
 みみそばだつれば 幽玄ゆうげんなる不老ふろうひび
遊目秀麗太行巓
 あそばしむれば 秀麗しゅうれいなる太行たいこういただき
忘時逍遥塵外郷
 ときわすれて 塵外じんがいきょう逍遥しょうようすれば
星芒忽然閃暮天
 星芒せいぼう 忽然こつぜんとして暮天ぼてんきらめ
 
〈口語訳〉
 霊泉妙境
昔から村人たちは、涼しげな泉から湧き出る水を手にすくい取るようにして暮らしてきた。
しかし、石で築かれた彼らの家屋は荒れ果て、その日の食事にもありつけないほどであった。
現在、旅人たちはこの村の清らかな川の流れに足を浸して自然を満喫している。
高級なリゾート施設に生まれ変わった石造りの宿はとても快適で、美酒に酔った旅人たちに安眠を保証している。
耳を澄ませば、奥深い不老泉の水音が聞こえる。
目を遠くにやれば、堂々とした太行山脈の山並みが見える。
時間の過ぎるのを忘れて、俗世間から離れたこの村をさまよった。
ふと気が付くと、星の光が夕暮れの空に輝き始めていた。
 
〈語釈〉
〇里人…村人。涼水泉村の人々。
〇掬…両手ですくい上げる。
〇涼泉…涼しげな泉。涼水泉村の意を掛ける。
〇石屋…涼水泉村の石造りの家。
〇凄愴…非常にいたましいさま。もの寂しく、すさまじいさま。
〇炊煙…炊事の煙。日々の食事のこと。
〇如今…現在。当世。過去のある時期と対比しての「現在」をいう。
〇行客…道を行く人。旅人。
〇山荘…リゾート施設として改築された石造りの家。
〇舒暢…心がのびのびとして、愉快な気分になること。
〇酔眠…酒に酔って眠ること。
〇側耳…耳をそばだてて、じっと聞き入ること。
〇幽玄…趣が奥深くて、はかり知ることができないさま。
〇不老…涼水泉村の東西には、不老泉と五竜泉の二つの流れがある。
〇遊目…目をあちらこちらに向ける。
〇秀麗…他のものより一段とりっぱで美しいこと。
〇太行…太行山脈。東の華北平野と西の山西高原の間に、北東から南西へ400kmにわたり伸びており、平均標高は1,500mから2,000mである。
〇塵外…俗世間のわずらわしさを離れた所。
〇逍遥…気の向くままあちらこちらを歩き回ること。そぞろ歩き。
〇星芒…星の光。「芒」は光の先端の意。
〇忽然…ものごとの出現・消失が急なさま。
〇閃…「ひらめく(一瞬するどく光る)」と読む字であるが、あえて「きらめく(きらきらと輝く)」と訓じた。現代中国語の「闪」は後者の意である。

〈押韻〉
泉・煙・眠・巓・天
下平声・一先
 
〈対句〉
首聯と頷聯(第一句と第三句、第二句と第四句)が隔句対
頸聯(第五句と第六句)が単対


 自然に囲まれた涼水泉村はほんとうに美しいところでした。
 しかし、実はその村の高所から遠望できる太行山脈は禿山の連なりであり、広範囲に敷き詰められた太陽光パネルが見るも無残でした。
 詩ではそのことに触れず、ただ快適な気分を詠もうとしたのですが、はしなくも背後に古き中国と激動する中国とが表れ出たようです。
 

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