謎解き『山月記』(中島敦)① 虎は李徴の妄想である
〈目次〉
1 はじめに
2 李徴は虎に変身したのか
3 袁傪の人物像
4 袁傪の奇妙さ
5 袁傪は李徴の分身である
6 謎解き「袁傪」
7 発狂の原因追究に意味はあるか
8 『山月記』の語り
9 終わりに
1 はじめに
中島敦の『山月記』は、高校の国語の教科書に採録される定番教材です。
皆さんも虎になった男の話としてご記憶なのではないでしょうか。
「超優秀でありながら人間性に問題があったために虎に変身した男」の話は、重厚な文体や巧妙な修辞とともに、今も多感な高校生の心に深い印象を与え続けていることでしょう。
かく言う私もその一人です。
特に「臆病な自尊心、尊大な羞恥心」という語は衝撃的で、自分の内面の秘密というか、醜さを言い当てられた感じがしたものです。
李徴のように優秀ではなくても、いわれのない自尊心や手に余る羞恥心ぐらいは、私も持ち合わせていたからです。
気の毒ではありますが“自業自得”である李徴に比べて、人品骨柄申し分ないように見えたのが袁傪という男です。
頭脳明晰、人格温和、栄達順風、挙止端正、容貌についての記述はありませんが、まことに「男たる者、かくありたい」と思うほどの好人物です。
しかし、近年、袁傪という男の新たな一面が明らかになりました。
その視点から『山月記』を再読すると、高校生のころ読んだ物語とは全く異なる相貌を持った作品であることが見えてきます。
小文では、袁傪の「謎」を解明しつつ、李徴の人間像に迫ります。
2 李徴は虎に変身したのか
『山月記』は奇妙な話です。
人間が虎になることなどあり得ません。
なぜ私たちがこんな奇妙な設定をやすやすと受け入れてしまうのでしょうか。
それはフィクションだと分かっているからです。
古来、数多くの変身譚や異類の物語がありました。
しかし、SF小説が多作される現代を除けば、その多くは神話や昔話、お伽噺の類です。
私たちはそれらが荒唐無稽な物語であることを自明のこととして読んでいます。
超能力や因果応報、報恩などの理由により変身がなされますが、そのことを特に疑問に感じることはありません。
しかし、『山月記』の場合は全く違います。
リアルな人間の物語として、虎に変身した理由や李徴の人間性などがとことん追究されます。
李徴が虎に変身したことに間違いはないのでしょうか。
その根拠は、次の五つにあります。
① 袁傪が商於の地を出発した時、一匹の猛虎に襲われたが、その「虎」が隠れた草むらの中から「いかにも自分は隴西の李徴である」と言い、「自分は今や異類の身となっている」と認めた。
② 李徴が虎になったいきさつを語る場面で、「虎」への変身の様子を細かに語った。
李徴は、「知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。何か身体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた」と語っています。
③ 「虎」になった李徴は目の前を駆け過ぎた一匹の兎を捕らえ、これを食っている。
正確に言えば、兎を食べた場面の描写はありませんが、「自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた」というのですから、兎を食べたと考えてよいでしょう。
続けて李徴は、「それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない」と語っているので、「虎」としての残虐な行為を繰り返してきたということです。
④ 李徴は告白の中で、「おれの頭は日ごとに虎に近づいて行く。… おれはたまらなくなる。そういう時、おれは向こうの山の頂の岩に上り、空谷に向ってほえる」、「山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えない」と述べている。
⑤ 李徴は袁傪と別れる際、百歩離れた丘の上から「虎」となった自分の姿をもう一度彼に見せている。
……なるほど、確かに「李徴が虎になった事実」は否定しようがないように見えます。
しかし、「絶対だ」と言えるでしょうか?
袁傪は李徴と対話していますが、実は袁傪は一度も話をする虎の姿の李徴を見てはいません。
私はこれから「李徴が虎になった五つの根拠」について検討を加えますが、人間が現実に本物の虎になることはあり得ません。
ですから、『山月記』において李徴が本当に虎になったかどうかについては、フィクションである小説において、リアルな人間や人間性が描かれているかどうか、という視点から検討します。
その上であらためて五つの項目を見ると、少なくとも④(虎になった李徴の内面の描写)は李徴が間違いなく「虎」になった根拠にはなりません。
李徴の単なる思い込みに過ぎない可能性があるからです。
精神病理の中には「獣化妄想症」という病理があります。
自分のことを動物だと思いこんでしまうといいます。
その動物には、ライオンや虎、牛、馬、猫など哺乳類の他に、ワニ、カエル、ヘビ、ニワトリ、果てはミツバチという例もあるというから驚きです。
「獣化妄想症」とは、要するに古来言い伝えられる「狐憑き」のことであり、④に述べた李徴の「思いこみ」についてもその一種として捉えることができます。
②・③(李徴が虎になった経緯やその時の所行)も、絶対的な根拠にはなりません。
ここも「狐憑き」で説明可能です。
「狐憑き」の中には四つん這いで走ったり、生肉を食べたりする人もいるそうです。
まだ年若い李徴が必死に四つ足で走ったなら、きっと二足で走るより「身体中に力が満ち満ちたような感じ」がしたことでしょう。
いとうけんいち氏という方が実際に四つ足で走って、100m16秒87という世界記録を出しています。
ユーチューブ動画で見ることができます。
いとう氏はもちろん「狐憑き」ではありませんが、実に力強い走りだと私は感じました。
②(虎になった経緯)ですが、『山月記』の原作とされる唐代伝奇『人虎伝』によく似た記述があります。
『人虎伝』で、李徴は袁傪に虎になったいきさつを次のように語っています。
――以前、呉楚旅行の帰途、汝墳の地に宿った。
その時、突然発狂し、山の谷間に走っていった。
急に左右の手を地につけ四つ足になって歩いた。
この時から心はいよいよ残忍になり、力もみなぎってくるのを感じた。
腕や股を見ると細い毛が生えていた。――
『山月記』の記述によく似ていますが、細かく見ると異なる点があります。
『山月記』の李徴は、「気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた」と語っています。
「毛」は「生じているらしい」と推定しているだけです。
またこの時、李徴は闇の中を走っていたのだから、自分の姿がしっかり見えたはずがありません。
また、自分の姿も「谷川」の水に映しています。
流れる川に自分の姿を映したところで、はっきりとは見えません。
しかも、「少し明るくなってから」の話です。
要するに、②も李徴が確実に虎になった証拠にはならないということです。
中国に『太平広記』という書物があります。
北宋時代に勅命によって編纂されたもので、全500巻、7000余の奇談を収めています。
中に動物の話も数多く収録されていて、例を挙げれば、竜の話81話、虎の話80話、狐の話83話、昆虫の話103話といった具合です。
全てが変身譚というわけではありませんが、昔の中国にも「狐憑き」に類似する物語はたくさんありました。
さて、虎の項に「南陽士人」の話があります。
南陽山に住んでいた一人の男が虎になる話です。
ある日、男が谷川に沿って歩いていましたが、ふと自分の姿を水に映すと既に虎に変じていました。
頭も手足も全部虎です。
山中に入ったこの男は、飢えに襲われてオタマジャクシや兎、さらには人まで食うようになってしまいます。
中国には人肉を食うという風習もあったといいますから、「狐憑き」が兎の生肉を食ったり、人肉を食らったりしても不思議ではありません。
つまり、③(兎を食べた話)も李徴が本物の虎になった確実な根拠にはならないということです。
以上、李徴が虎になったとされる根拠①~⑤のうち、②・③・④を否定しました。
残るは①と⑤、袁傪が虎の姿になった李徴を実際に目にしている、という場面です。
私は、この根拠も当てにならないと考えています。
なぜなら、「袁傪」自体が当てにならないからです。
それについては、次回以降、お話ししましょう。
〈続く〉
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