古典擅釈(17) 正気と狂気 増賀④
増賀の多武峰移住は応和三年(九六三)、増賀四十七歳のことです。
その数年後、師の慈恵が五十八歳で天台座主になりました。
慈恵僧正は座主就任のお礼言上のため、宮中に向かいます。
次は『発心集』に残る増賀の逸話です。
慈恵が参内しようとした時、増賀が先導の一行の中に割り込んできた。
乾鮭を太刀代わりにし、痩せこけた貧相な牝牛に跨って、「私が先払いを致しましょう」と言いながら、牝牛を右左に乗り回した。
見物する人々はみな驚きあきれた。
行列からたち離れる際、増賀は次のように歌った。
名聞こそ苦しかりけれ。かたゐのみぞ楽しかり。
名聞こそ苦しみの原因だよ。乞食の身の上だけが気楽なものだね。
僧正も常人ではなかったので、増賀の「私が先払いを致しましょう」という声が、僧正の耳には「悲しきかな、わが師、悪道に入りなむとす(悲しいことだ、わが師は地獄に落ちようとしている)」と聞こえたので、牛車の中で、「これも利生のためなり(私が座主の地位をお受けしたのも衆生済度のためなのだ)」と呟かれたのであった。
増賀は師の晴れ舞台をぶち壊すような奇行に打って出ています。
彼は何を狙っていたのでしょうか。
ところで、このようないで立ちをするのは増賀が初めてではありません。
彼に先立つこと約百年、東大寺に聖宝という僧がいました。
寺に、富裕でありながら慳貪な上座法師がいましたが、聖宝は彼に僧供(僧に対する供養)をさせようと、賭けをします。
上座法師は聖宝に、「賀茂祭の日、真っ裸に褌だけを締め、乾鮭を太刀に佩き、痩せた牝牛に乗って、一条大路を大宮より河原まで『我こそは東大寺の聖宝である』と大声で名のりながら通り過ぎよ」と言いました。
よもやと思っていた上座法師を尻目に、聖宝は要求どおりのいで立ちで祭りの都大路を渡って見せました(『宇治拾遺物語』)。
『古事談』にも記載のあるこの行為は、当時の宗教界にあって自己放棄の範とでもいうべきものであったといいます。
とすれば、増賀はこれに類する振る舞いをたびたびしていたでしょうし、慈恵もその意味する事柄を十分に承知していたことでしょう。
自己の名利と闘い続けてきた増賀は、この時も「名利を捨てよ」と訴えたわけです。
いったい増賀に「心に名利を離れなさい」と言ったのは誰であったでしょう。
「心に名利を離れる」とは、宗界の最高権威が俗界の最高権威に屈服するということなのでしょうか。
ただ、慈恵の立場も理解できます。
天台座主となった慈恵は焼亡した比叡山の諸堂を復興し、叡山中興の祖と仰がれるまでになります。
仏法と王法との融和を図らなければ、決して可能なことではなかったでしょう。
「これも利生のためなり」という慈恵の呟きからは、彼の葛藤とともに彼の決意も聞こえてくるようです。
増賀もまた師の立場をよく承知していたに違いありません。
しかし、そうであればこそ、増賀はあのような挙に出たのでしょう。
……仏法は俗界への浸透を図りながら、同時に王法への屈従は峻拒せねばならない。
仏法の側に名利を捨て切るという姿勢がなければ、仏法はいかに俗界に被覆しようとも、その内側から俗界に搦めとられてしまうだろう……。
仏法の俗界での隆盛と俗化の排除。
二つの矛盾を背負いながら使命を果たさねばならないのが、つまりは慈恵の立場です。
慈恵の心は絶え間なく揺れ動いていたことでしょう。
その心がともすれば王法に屈服し、世俗に流れようとする。
増賀はそれを黙って見過ごすことはできませんでした。
「名聞こそ苦しかりけれ。かたゐのみぞ楽しかり」
乞食の境涯がどうして楽しいのでしょうか。
増賀は、最も底下な位置にある者だけが、名聞から完全に解放された楽しみを知ると言いたかったのでしょう。
増賀にすれば、僧侶であるなら、天台座主であろうと乞食です。
乞食の位置にあることによって、初めて世俗への執着を断ち、僧侶はその精神の矜持を保つことができます。
であるなら、増賀の行為は慈恵への慈悲の振る舞いです。
私には、増賀の言動から皮肉や冷笑、批判、抗議などの意図を読み取ることはできません。
私に聞こえるのは、増賀の慈悲の響きばかりです。
「悲しきかな、わが師、悪道に入りなむとす」
増賀の言葉を慈恵はこのように聞きました。
増賀の慈悲の響きは慈恵の心にも確かに届いていたのです。
〈続く〉