マッカさんの噂

騒がしい声が漏れ出ている教室で、絢香は一人、溜息を吐いていた。

後ろの方からは、男子達が『マッカさん』にまつわる話で盛り上がっているのが聞こえてくる。絢香は再び、心の中で大きく溜息を吐いた。

『マッカさん』というのは、いわゆる都市伝説だ。どこから出回ったのかは謎だが、2、3ヶ月ほど前から、急に学校全体に噂が広まっていき、今やこの学校の生徒で知らない者はいないほどになっていた。

都市伝説の内容は、夕暮れ時になると、どこからかおーいーおーいと声が聞こえてきて、その声の方に行くと、全身真っ赤な人がいる。

たしか最初に聞いた時はそんな感じの内容だった。

それが今じゃ、顔を見たら3日後に死ぬだとか、体が赤いのは今までに殺した子供の返り血を浴びているからだとか。様々な尾鰭が付いて出回るようになり、怖いものが大の苦手であったわたしは、この状況に辟易していた。

「それ本当?」

「いや俺も最初に聞いた時は嘘だと思ったんだけどさ、どうやらこれがマジらしいんだよ…」

後ろからは、涼がまたいつものように怪談話を披露しているのが聞こえてくる。学校で広まっているマッカさんの噂の半分以上は、涼がこういった怪談話で広めたものだった。

「それでその子はどうなったの」

「結局帰ってこなくて、今でも見つかっていないんだって」

話を聞いていたクラスメイト達がざわめき立つ。涼は自分の話が波紋を呼んだことに、ほくそ笑んでいた。あの顔を見るに、まだ話は終わらなさそうだ。

絢香が本日三度目の溜息を吐こうとした瞬間

「ちょっと!あんまり変な噂ばっか立てないでくれる」

ニヤついた涼に、そう言い放ったのは菊池さんだった。菊池さんは小4の時に転校してきて以来、物怖じしない性格と上級生の男子にも喧嘩で勝ってしまうほどの腕っぷしから、男子達からは恐れられていた。

「なっ、なんだよ。俺がどんな話をしようが俺の勝手だろ」

涼は明らかに動揺しながら言う

「勝手なわけないでしょ。あんたが話してる噂のせいで下級生がどれだけ怖がってるのか知らないの?」

「怖がらせてるのはマッカさんだろ。俺は起こった事実をありのまま話してるだけだよ」

涼は大見得を切り、もっともらしいことを言った。

「じゃあさっき言ってた、行方不明になったって子は誰よ」

「え?それはその…菊池の知らないやつだよ…」

「ほらね、適当に誤魔化した」

菊池さんは呆れたような目で涼を見る

「誤魔化してねーよ!第一マッカさんは目撃情報だってたくさんあるんだぞ。だからこそ俺はこうやって、皆にマッカさんの危害が加わらないよう、危機感を持ってもらおうとしてるんだよ。それを感謝こそされど文句を言われる筋合いはないね」

涼は早口でまくし立てるように言う

「なーにが危機感よ。根も葉もない噂を流して恐怖を煽ってるだけのくせに。結局あんたはクラスの注目を集めたいから、適当にホラ吹いてるだけでしょ」

「なっ!?」

涼の顔がみるみるうちに赤く染まった。

「いい加減にしろよお前」

「何よ、急に立ち上がって。そのぷるぷる震えた拳で殴りかかって来るつもり?いいわよ、返り討ちにしてあげる」

口論はヒートアップして行き、取っ組み合いにまで発展しそうになる。

「おい落ち着けよ涼」

話を聞いていた斎藤くんが場を収めようと割って入って来た

「菊池も強く言い過ぎだって。もうちょっとやんわりと言えよ」

「私だって、涼がさっさと噂話をするのをやめるって言えば、ここまで言わないわよ」

菊池さんは依然として引く気を見せない

「まあ、とりあえずこの件は一旦ストップな。終了ね。終了」

斎藤くんは無理矢理場を切り上げようとする。

「いいや。俺はまだ納得してない」そんな斉藤くんを涼が遮った

「さっき、根も葉もない噂だとか言ってたけどさ。それじゃあお前はマッカさんを見たことあるのかよ」

「ないわ。そもそもマッカさんなんて、存在してるわけないじゃない。噂だけよ」

「証拠は?いないって証拠はあるのか」

「証拠はないわ」

菊池さんは淡々と言い放った

「はっ!証拠もないのに、いないって決めつけてたのか。適当なこと言ってるのは菊池の方じゃないか」

涼はまるで鬼の首を取ったかのように、高らかと言った。

「それじゃあ今日の放課後、マッカさんが実在するか確かめに行ってあげる。それで、もしマッカさんが実在してあんたが言ってる噂が本当のようだったら謝るわ。でもマッカさんが見つからなかったら、見つかったとしてもあんたが流した噂のような怪物じゃなければ、今後一切噂を流すのは禁止。」

「なっ、なんだよその条件、俺に不利すぎるだろ!それに俺の噂が当たっててもお前が嘘を吐くかもしれないじゃんか」

「じゃあ証人としてあんたも来なさい」

「えっ?いや今日は無理だよ。親から用事頼まれてるから早く帰らないと行けないし…」

「あっそう。じゃあ一人で行くわ」

「いや一人はダメだ。絶対に嘘を吐く。口裏合わせないよう親しい奴を連れていくのも禁止だからな。」

「あんたじゃないんだから、そんなセコい真似しないわよ。でもいいわ、私も一々文句言われたくないから」

そう言うと菊池さんは急に振り向き、こちらに向かって歩いてきた

「絢香さんって、今日放課後空いてる?」

「…えっ?」

思わず声が漏れてしまう。クラス内の視線がわたしに集まっていた。

「え、えっと…わたし?」

「そうよ、絢香さん。」

「うっ、うーん…今日かぁ」

もし空いていると答えれば、そのままの流れでマッカさんを探しにいくことになるだろう。

噂を聞くだけでも恐ろしいというのに、その噂の根源を探しに行くだなんて、真っ平ごめんだった。用事があるという事にして断ろう。そう言おうとすると

「やめろよ菊池。無理に誘うのはさ。佐々木嫌がってるじゃん」

涼がニヤニヤしながらヤジを飛ばして来た。

「別に無理やり誘ってるわけじゃないわよ」

涼の方を向き、語尾を強めて言う

「お前はそう思ってなくても、佐々木はどう思ってるかな」

菊池さんは再びこちらを向いた。

なんて事してくれたんだ涼のやつ。わたしは心の中で涼に激昂する。もし今、菊池さんの誘いを断ろうものなら涼が嫌がっていると言ったのを肯定するようなものじゃないか。

わたしは恐る恐る顔を上げ菊池さんの顔を見る。表情は普通だったが、その普通の表情がすでに怖い。

もし菊池さんが怒ったら…いつだったか、喧嘩になった上級生を1人ずつ投げ飛ばし泣かせる菊池さんの姿を、絢香は思い出して震えた。

恐ろしい噂があるとは言えど、話の中でしか出てこないマッカさん。そして今現実として目の前にいる菊池さん。

天秤にかけた時、秤が傾いたのは、菊池さんの方だった。

「今日は暇だし、全然空いてるよ…」

虚ろな表情で答える。

「それなら良かった。じゃあ放課後よろしくね、絢香さん」

菊池さんはにこやかな表情でそう言うと、涼を睨んでから自分の席に戻っていた。

その後は、授業に全く身が入らないまま時間が過ぎていき、あっという間に帰りの会の時間になっていた。

「それでは起立、気をつけ、礼」

「「「さようなら」」」

ランドセルを持ち上げ、机を下げる。菊池さん、わたしを誘ったこと忘れてたりしないかな…そんな淡い希望は、わたしの方へ一直線で進んでくる菊池さんの姿を見て砕け散った。

「それじゃあ、行きましょ、絢香さん」

「まだ夕焼けになるまでには結構かかりそうね」空を見上げながら菊池さんは言った。

「そうだね」

適当な相槌を打つ。わたし達はマッカさんを探すため、町を散策していた。

町と言っても、かなりの田舎ということもあって、目に映るのは山々や田んぼばかりであったが。空は、晴れ晴れしており、木々の隙間を緑色の光が通る。

本来なら、こっちまで気分が上がってしまいそうな天気だったが、絢香の脳内はひどく曇っていた。

今まで聞いてきたマッカさんの噂が涼の声で再生され、二重の意味で精神的な負荷がかけられていた。

どうかこのまま何も起こりませんように…絢香はそう願い、ぼやけていた視界に感覚を戻した。

そうすると、菊池さんがわたしの顔を見つめているのに気がついた。

「ど、どうかした」

「いや、随分とぼーっとしてたから…」

「あっ、あぁちょっと考え事してて」

「…そう」

そうしてまた沈黙に戻る。

…気まずい。

なにか話題を振った方がいいのかな。でも共通する趣味とかあったけ…

菊池さんのことは腕っぷしが強く、怒らせるととても怖いということぐらいしか知らなかった。

まいったな。涼の悪口でも話そうかな…それなら盛り上がれるような気がする。

よし、そうしよう。涼には悪いが、変やヤジを飛ばしたのと、さっきからわたしの脳内でマッカさんの話をしつこくしている報いだ。

そう思い声を出そうとすると

「あの!…その、無理に誘ってごめんなさい…」

菊池さんが謝ってきた。思わずポカンとする。

「嫌がってるのはなんとなく分かってたんだけど…皆の前だったから、引けなくなっちゃって、本当にごめんなさい」

頭を下げ謝る菊池さんに、慌てて言葉を発する

「いや、別に全然嫌がってなんかないよ!」

そう言うも、菊池さんは顔を伏せたままだった

「でも…」

「いやホントだよ、ホント!別に菊池さんの誘い自体は、もう全然ウェルカムだよ!ただちょっと怖いものが苦手で、それが少し顔に出ちゃってたのかな。でも菊池さんが一緒なら百万力だよ、もう怖いものなし!…なんちゃって、ハハハ…」

菊池さんは伏せていた顔を上げた。

「…ありがとう、絢香さん」

「えっ、あぁいや、どういたしまして…?」

ひとまず菊池さんが立ち直ってくれて安心した。しかし、あの菊池さんが無理に誘ったことを気にしてて、しかもわたしに謝ってくるなんて。

意外と、普段の立ち振る舞いに反して繊細なのか。恐らく他の人は知らないであろう、菊池さんの一面を知れて嬉しくなった。

こうなったら菊池さんが満足するまで、付き合おう。マッカさんは相変わらず怖いが、菊池さんがいれば百万力というのはまんざら嘘でもなかった。

しかし、ふとした疑問、好奇心が頭を掠めた。

「菊池さんは怖くないの?別にマッカさんだけじゃなくて、上級生とかもさ。あんなに大きいのに、全く臆さなくて。それに喧嘩で勝っちゃうし」

菊池さんはやや困ったような笑顔を浮かべた

「私の祖父、おじいちゃんがね。マタギって言って狩猟を生業としてて。家中に熊とか猪とかの毛皮、剥製みたいのが飾られてるの。一応私、生まれはこっちで、しばらくはここに住んでたから、幼い頃からそういうのたくさん見てて。それに何度かおじいちゃんに山に連れて行かれて、熊に遭遇したこともあってね。だからなのか分からないけど、人間相手ならそんなに怖くないの」

かなり濃いエピソードに驚く。

「すごいね、それは…おじいちゃんは怖くないの?話で聞いてる感じでは中々いかつそうだけど…」

「全然普段は優しいよ。ただ…私が言えた義理でもないんだけど、少し常識が欠けてるって言うか、血の気が多いって言うのか。きっと私自身が喧嘩っ早いのも遺伝なんでしょうね」

どこか遠くを見るように言う。大丈夫かなと声をかけようとすると、視点がわたしの方へ向いた。

「でも本当にいいの?怖いものが苦手って言ってたし、もし嫌なんだったら全然帰っても…」

「ううん、大丈夫だよ。それにわたしが帰ったら、また涼がヤジを飛ばしてくるでしょ。どうせマッカさんなんて、噂だけの存在だから。いやしないんだから全然怖くないよ」

半ば自分に言い聞かせるようにそう言う。

「ありがとう、絢香さん…」菊池さんが再び礼を言った。

「そうね、私もそう思う。妖怪だとか怪物とか、科学的に考えているはずないもの。誰かの見間違いよ。いたとしてもせいぜい真っ赤な服装で固めた人とか、あとは…そうね、、、全身赤タイツをしてる変わり者とかよ」

町中で全身赤タイツをしてる人か、、、それはそれで恐ろしいな…

そんなことを考えていると、地面がほのかに赤みを帯びていることに気がついた

「夕焼けね…」

空を見上げながら菊池さんが言う。

「…うん」

喉が詰まり、声が震える。

あぁ…とうとうこの時が来てしまった。噂が本当なら夕暮れ時に何処からか、おーいおーいと、呼ぶような声が聞こえ、その声の元にマッカさんがいる。

菊池さんは耳をすませ、声が聞こえてくるかを確かめている。

わたしも菊池さんにならって、耳をすます。

どうか聞こえきませんように…心の中で必死に祈る。

しかし、わたしのそんな祈りを嘲笑するかのように、その声はわたし達の耳を貫いた。

「「おーい、おーい」」

子供が呼ぶような、無邪気さを羽織った声が辺りに反響する。

「嘘…」

菊池さんは唖然とし、声のする方へと目を向ける。声の大きさからして、そこまで離れてはいないだろう。

菊池さんはその声の元へ向かおうと、歩みを進める。

しかしすぐに立ち止まり、わたしの方へ振り返った。心配するような眼差しでわたしを見ている。

「大丈夫だから、行こう」

心配をかけまいと、声を振り絞って言う。

菊池さんは相変わらず心配そうな顔をしていたが、振り返って、声のする方へ向かった。わたしもそれに続く。

山の麓に入り、少し進んだところで足は止まった。

ここだ。ここの上から声がしてる。

そこは、こじんまりとした神社で、わたしも何度か行ったことがあり、そこの本殿の裏側からは街並みが一望できた。

その景色はかなり気に入っていたのだが、親から落ちて怪我をしたら危ないからと、行くのを禁止されていた。

まさかこんな形で再び訪れることになるとは…

もし引き返すんだったら、ここが最後のチャンスだろう。

手は小刻みに震え、足には上手く力が入らず、出来ることならそのまま倒れ込んでしまいたかった。菊池さんは心配そうな顔でわたしを見ている。

「やっぱり…絢香さんはここで待ってて、私が1人で様子を見てくるから」

わたしは首を振る。

「大丈夫…わたしも行く」

上で何が待っているのか…頭には今まで聞いた噂を複合し出来上がった恐ろしい怪物の姿が浮かんでいた。

きっと今までの人生の中で今が一番怖い。ただそれ以上に菊池さんを1人にして行かせたくなかった。

菊池さんの方がわたしなんかよりも、何倍も勇敢だし、腕っぷしだってある。

それでも1人で行かせたくなかった。もし本当に噂通りの怪物がいたら…その怪物が菊池さんに何かしたら…菊池さんと二度と会えなくなったら…1人で行かせたことを絶対に後悔する。

石段の上に足を乗せ、上っていく。足に上手く力が入らず、少しふらついてしまう。菊池さんは振り向いて、そんなわたしの手を強く握った

「大丈夫。もし何かあったら私が守るから」

菊池さんをもしもの事態から守るためについてきたのに、わたしの方が菊池さんに鼓舞されていた。

わたしは菊池さんの手を握り返し、礼を言おうと頭を上げる。

その時、石段の一番上に誰かが立っているのが見えた。それは全身が色鮮やかな赤色で覆われており、長細い両方の手で顔を覆っている。

…これがマッカさん?

しかし全身が真っ赤なそいつは、手で顔を覆ったポーズのままから動かない。

もしかしてマネキンなんじゃないか、ふとそんな考えが頭に浮かぶ。いつしか、おーいおーいと誰かを呼ぶような声は止んでいた。

菊池さんはわたしの表情を見て、上の方へと振り向く。

その瞬間、真っ赤なそいつは、物凄い勢いで石段を駆け降りてきた。

わたしは咄嗟に菊池さんの手を引っ張って、石段を下りる。無我夢中に、転んでしまいそうなほどの勢いで下りていく。

あと少し、あと少しで下に着く。そしたら大人の人を呼んで…

そう思った瞬間、体に強い衝撃が走った。

体が宙を浮き、そのまま地面へと転げ落ちる。

「ううう…」

全身が痛む。そこまで高い段から落ちたわけではなかったが、後ろからぶつかった衝撃も相まって、かなり飛ばされていた。

はやく、菊池さんを連れて逃げなきゃ…

朦朧としながら、起き上がる。そういえば菊池さんが見えない。

どこ?もしかしてマッカさんに…

急いで辺りを見回すと、倒れている菊池さんがいた。頭から血が出ている。

菊池さん!

そう呼ぼうとした瞬間、後ろから肩を掴まれた。

そのまま振り向かせられる。真っ赤な腕がわたしを掴んでいた。振り解こうと、抵抗するも、マッカさんの力はとても強く、全くなす術なかった。

マッカさんはそのままわたしに顔を近づけた。

顔には目や口などは付いておらず、凹凸ひとつない。まるで精巧な人形のようだった。

わたしどうなんちゃうんだろう…殺されちゃうのかな…朦朧とした意識でそんなことを考える。

せめて菊池さんだけでも…

「…菊池さん、起きて…早く逃げて…菊池さん」

声を振り絞り名前を呼ぶ。その瞬間、菊池さんの手が僅かに動いた。

やった…!このまま名前を呼び続ければ起きるかも…

パンッ!

何かが弾けるような音が耳の近くで鳴った。

驚いて、マッカさんの方に目を向ける。マッカさんの顔は、表面が沸騰するかのようにボコボコと蠢いていた。まるで顔の内側から、無数の虫が出てこようとしているような。顔からはところどころ、白い糸のようなモノが噴き出ている。

あまりの気味の悪さに、朦朧としていた意識が覚めていった。

次の瞬間、顔のデコボコから大量の糸が飛び出した。触手のように、一本一本うねうねと蠢いている糸は、わたしの顔を目がけ伸びてくる。

必死にマッカさんから離れようとするも、肩をがっしりと掴まれていて逃げられない。もう目の前まで糸が来ていた。諦めて目を閉じる。

せめて痛くないと良いな…ごめん菊池さん。

心の中でそう呟く。その時、何かがぶつかるような音が響き、わたしを掴んでいた腕が体から離れた。

目を開けると、マッカさんが倒れ込んでおり、側には菊池さんが立っていた。

「立って!」

わたしが応じる前に、菊池さんはわたしの手を取って、走る。

火事場の馬鹿力というのか、菊池さんはとんでもない力でわたしを引っ張り、あっという間に山から出た。見慣れた光景が広がったため、ホッと息を漏らす。

その瞬間、後ろから葉々が擦れる音が聞こえてきた。振り返ると、マッカさんが、木々の隙間から、顔を覗かせていた。

目が合うと、マッカさんはわたし達の方へと走り出した。細長い腕を後ろに伸ばし、触手のような糸を吹き出した顔を前にのめり込ませる。菊池さんは振り返ってはいないものの、気配で察知したのか、全く止まらず人里の方へ進んでいく。

しかしマッカさんとの距離はどんどん縮んでいく一方だった。このままじゃ追いつかれる…

「絢香さん!」

菊池さんがわたしの手を強く握り、呼んだ。

菊池さんの方を向くと、軽トラックがこちらに向かって進んで来ているのが見えた。

やった、人がいる…あのトラックに乗ればマッカさんを引き離せるかもしれない。

しかし運転手はわたし達に気づいていないのか。スピードを全く緩めない。それどころか徐々に速くなっていく

マッカさんも後ろから触手を伸ばし追いかけきて、もうわたし達まで残り1mもないところまで迫っていた

車とマッカさん、互いに一寸先まで迫って、残された時間はもう僅かだった。絶体絶命に陥り、マッカさんに捕まるか、車に轢かれるか、どちらがマシかを考えようとした時、菊池さんがわたしの肩を抱え、横の坂下にある田んぼへと飛び降りた。

バアッッン

何かが激しくぶつかる音を聞きながら落下する。

ドボン 
土がぬかるんでいたこともあって、さいわい落下の衝撃は大したことなかったが、泥で滑り、転んでしまう。

泥だらけになった体を起き上がらせようとしていると、菊池さんが手を貸してくれた。手を握り、そのまま田んぼから出る。

地面に座ると、一気に疲れが押し寄せた。

今日一日で一生分の恐怖を味わったような気がする。もうこれ以上何もないといいけど…

あれ…そういえばマッカさんは?

慌てて、坂の上を見上げる。そこには年老いた男の人が立っていた。

「おじいちゃん…」菊池さんがそう呟く。このお年寄りが菊池さんのおじいちゃん?思わず坂の上を二度見する。

「どうしたんや夏帆、頭から血出どるやないか」

上にいる男は坂を下りながらこっちにやって来る。
「おじいちゃん、私達の後ろに居た真っ赤な奴…轢いたの?」

「あぁ、そういやあいつ、なんなんや一体。妙な格好しとる奴がお前の後ろ付け回しとったから咄嗟に轢きに行ったが…」

やっぱりぶつかってたんだ。ほとんど止まるのは難しい距離だったし、激しくぶつかるような音が聞こえて来たから、なんとなく分かってはいたけど…でもそれじゃあマッカさんは?

「それじゃあマッカさんは轢かれて死んだってこと?」

菊池さんがわたしの思いを代弁し喋ってくれる?

「マッカさん?轢いた奴のことか?それがよう分からんのよ。確かに轢いた手応えはあったんだが…どこにも居らへん。真っ赤な血ぃみたいな痕残して消えてもうたわ。」

嘘、それじゃあまだマッカさんは生きてるかもしれないってこと?

触手のように糸を噴き出すマッカさんの顔を思い出し、全身に寒気が走る。

急いで辺りを見渡すが、マッカさんらしき者は見えない。

「全く迷惑な奴やで。トラックにも、真っ赤な痕つけやがって。洗って落ちるんかいな、あれ…」

菊池さんのおじいちゃんはぶつぶつと独り言を言っている。

「…おじいちゃんさ。私達のこと轢こうとしてた?もう少しで巻き込まれるところだったんだけど」

わたしは思わず、菊池さんの方を見る。わたしもそのことは気になっていたが、何か口に出したらまずいような気がして黙っていたのだ。

菊池さんのおじいちゃんは目をまんまるとさせた

「そんなわけあるかい。夏帆なら、後ろのお嬢ちゃんまとめて避けれると、信用した上での轢きや。実際避けたし。それより、怪我大丈夫なんか。後ろの嬢ちゃんも泥だらけやぞ。救急車呼ぶより、俺が運んだ方が早いか」

そう言って坂を登っていく。

「歩けるか?」

わたしは頷いて、足に力を込め立ち上がる。

菊池さんに少し肩を借りながら、坂を上った。

トラックにはたしかに血のような痕がついており、側から見たら人を轢いたようにしか見えないだろう。

普段だったら乗るのは憚られるような見た目だったが、麻痺した脳みそはそんな事は全く気にせず、トラックに乗り込み座席に座った。

「とりあえずひと段落ついたのかな…」

菊池さんが虚な表情で言う

「うーん…どうなんだろう。ちょっと今日一日で色々と起こりすぎて、もう脳が回ってないや」

「ハハハ…私も」

そこまで経たないうちに病院に着き、大人たちは、わたし達の姿を見るなり、大慌てした。

お医者さんの診断によると、打撲ということらしい。見た目ほど重体というわけではなく、1週間ほど安静にしていれば問題ないとのことだった。

両親も遅れてやって来て、包帯で巻かれたわたしの姿を見るやいなや泣いた。わたしもそれを見て、今まで張り詰めていた感情が一気に押し寄せ、大泣きした。

その後、男性の2人組から色々と事情を聞かれた。学校で流行っている噂のこと、全身真っ赤な怪物に襲われたこと、それを菊池さんや、そのおじいちゃんに助けられたこと。隅から隅まで話した。

親も付き添いとして居たため、『なんでそんな危ない事したの!』と激昂して来たが、男性2人組がなだめてくれた。2人組は話自体には、半信半疑のようだったが、礼を言って立ち去った。

その後、家に戻り、両親に囲まれながら眠った。目を閉じると、マッカさんの姿が思い浮かんで来て、中々寝付けなかったが。

菊池さんはというと、私と同じように打撲、そして転落した際に頭を、枝か何かで切ってしまったため、傷口を縫うことになった。

菊池さん大丈夫かな…寝返りを打ちながらそんなことを考えているうちに、次第に瞼は重くなっていき、眠りについた。

翌日、朝起こされると、親から学校に行くよう急かされた。わたしはてっきり休めるものかと思っていたので面食らった。両親曰く、危ないことして怪我したのは自業自得なんだから学校に行きなさいとのことだった。

あんな事があった次の日に学校に行かせるだなんて正気を疑ったが、わたしとしても、あまり心配をかけたくなかったため従うことにした。

学校に行くと、わたしと菊池さんがマッカさんに襲われたという事が、もう広まっており、話題はそれで持ちきりだった。

「マッカさんってホントにいたんだ」

「傷は大丈夫なの?」

「菊池さんがマッカさんを投げ飛ばしたってホント?」

矢継ぎ早に質問が飛んでくる。田舎だからなのか、噂が出回る速度にはいつも驚かされる。しかしそれ以上に驚いたのは、菊池さんが普通に登校して来たことだった。

頭には縫ったためか、包帯が巻いてあったものの、いつもと変わらず、平然としていた。菊池さんも登校するや否や、質問攻めを受ける。その中には涼もいた。

「ほらな、言ったことか。素直に俺の噂を信じていれば怪我しなくても済んだのに。そういやマッカさんが俺の言った通りの怪物だったら謝るって言ってたよな。まだ謝罪の言葉を聞いちゃいないんだけど」

「お前な…」

斎藤くんが呆れたような目をしながら言う。

「そうね、確かに噂は正しかった。ホラ吹き呼ばわりしたこと謝るわ。ごめんなさい」

菊池さんはそう言って頭を下げた。本当に謝られるとは思っていなかったのか涼は目をまんまるとさせる。

「いやちょっと、そんな頭下げるなよ。別に俺もそんな根に持ってないし、頭上げてくれって…」

涼は慌てふためいた様子で言った。その後は、特に何かあるわけでもなく時間が進んでいき、下校の時間になった。先生はいつもより強い口調で、寄り道しないよう、言う。名指しこそしてないものの誰に向けて言っているのかは明らかだった。
机を下げ、帰ろうとすると菊池さんが寄ってきた。

「一緒に帰らない?」

「…そこで、ランドセルを思いっきり投げて、そのまま腰にタックル。ちょうど屈んでたから、一気にバランスを崩して倒れてくれたわ」

「へぇ〜すっごい」

帰りながら、菊池さんと昨日起きたことを話し合った。

「でも怖くなかったの?」

「うーん…怖いことには怖かったんだけど、でもあの時は絢香さんを助けなきゃって気持ちが強かったから」

王子様に助けてもらうお姫様の気持ちってこんな感じなのだろうか。顔が赤くなるのが分かった。

「嬉しいけど、なんだか照れるね…」

話題を変えようと、別に気になっていたことを聞く

「そういえば、菊池さんのおじいちゃんはあの後大丈夫だったの?」

「今、警察に事情を説明してるところ。まぁ多分問題ないわ。子供とはいえど、証人だっているし、何より轢かれたマッカさん自身が行方不明だから」

そう言う菊池さんの表情はどこか少し曇っていた。

「まだどこかにいるのかな…マッカさん」

それから約1ヶ月が経った。もう怪我も完全に治って、しかもあんな経験をしたからか、怖いモノや話に対して耐性がついた。しかし代わりに、赤いモノとウネウネしたモノが少し苦手になった。多分イソギンチャクはもう見れない。

マッカさんに関しては、涼が菊池さんが謝って以来噂を流すのをやめ、目撃情報もなくなっていったため、徐々に皆んなの記憶から忘れ去られていった。

菊池さんとはあれ以来仲が縮まり、今でも一緒に帰るようになった。菊池さんのおじいちゃんは色々と事情聴取を受けたが、最近になってようやく解放されたらしい。

そして今もまだ、轢かれたマッカさんの行方は分からなかった。

「ちょっと待って…!もう少しゆっくり歩こうよ。ペース早すぎ…」

「おせーよ佐々木。俺らの班が一番遅れてんだから、このままじゃ最下位決定だぞ」

涼がこちらを見て、急かして来る

「別にそんな急ぐ必要ないわ。私達は私達のペースで進めばいいのよ。荷物持とうか?絢香さん」

「ありがとう、夏帆ちゃん。恩に着ます…」

「おい!なんで勝手にお前が仕切ってるんだよ。リーダーは俺なんだぞ」

涼が怒鳴っている。一体あいつの活力はどこから湧いて来るのか…

自然教室に来ていたわたし達は、レクリエーションの一環として班に分かれて山を歩いていた。秋ということもあって、紅葉が綺麗で、出来ることなら自由に見て回りたかったと感じる。

荷物を夏帆ちゃんに持ってもらい、体がだいぶ楽になる。

これなら休憩ポイントまで歩けそうだ。足に再び力を入れて歩き出す

その時

「「「おーいーおーい」」」

体が強張った。無邪気な声が山全体に響いていく。それはあの日聞いたものと同じだった

「他の奴ら、もう着いてるのかよ。早いなちくしょう…」

涼が上を見上げながら言う

「なぁ、なんかこのやまびこ変じゃないか?」

同班の斉藤くんが声を漏らした

「変って、何が?」

「いやなんかこのやまびこ、声がダブってないか」

「やまびこってそういうもんだろ、反響してるんだから」

「いや、そうじゃなくて。複数人が同時に声を発してるように聞こえる」

耳を澄まして聞いてみると、たしかに同じ声が幾つにも重なって音を発してるように聞こえた。

「たしかに聞こえるな…まぁ頂上についた奴らが遊んでるんだろ。俺らも早く行こうぜ」

そう言い、涼は前に進んで行く。

きっと角度的に涼からは見えなかったのだろう。

しかしわたしははっきりと見てしまった。紅葉で埋め尽くされていると思っていた、赤一面が一斉に蠢くのを。

夏帆ちゃんと顔を見合わせる。夏帆ちゃんも同じものを見たらしい。その表情は言うまでもなく曇っていた

本当の悪夢は今、始まった

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