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愛に似た、ひとときの温もり
大学時代からのコミュニティは、私にとって世界にたった一つだけの居場所だった。学生の頃から実家に居場所を見出せなかった私が何とか手に入れた自分を受け入れてくれる温かい場所。私が縋りついているそのコミュニティは、社会的に見れば成功者たちであふれている。華々しいキャリアと、それらを裏切ることのない冷静な判断力を備えた人たち。そのコミュニティの属性上、男女比は歪だったが、それを女性の私に気負わせることなく受け入れてくれる彼らが大好きだった。
転勤先の田舎は寂しい街だった。私は転勤前以上に人の温もりを求めるようになった。だから彼らとの飲み会には必ず足を運んだ。酒は他人との境界線を曖昧にしてくれるから、彼らとの飲み会で私は渇望していた温もりを享受することができた。彼らとの飲み会には安心して参加できる。彼らを絶対的に信頼していたから、私は心からその温もりを楽しめた。
小さい頃から母親からの愛情に飢えていた私は、たとえその類の温もりが残酷なほど愛情に似た、でもれっきとした偽物だとしてもいつも縋りついてしまう。ハリとツヤのある色白の肌、手入れされた髪、芸能人ほど無駄がないわけじゃないけど華奢な体つき、体格の割には大きい胸。それらは今でこそ運とそれなりの自己管理によって価値のあるものとして成り立っているが、必ず賞味期限がある。そう自分を戒めているからこそ、それに価値を見出してもらえると最上の喜びをもって受け入れてしまう。下心でさえもいつまでも向けてもらえるものじゃない。若くなくなったらこんなことも味わえない。愛されやすい装いを手にしている今だけの特権。そんな風に言い訳して、得られなかった愛を求めて疑似餌に引っかかっているだけだと分かっている。
彼らとの飲み会は、居酒屋2件を経たのち、会場をカラオケに移して日付をとっくにまたいでも続いた。いよいよ飲み会から休み明けの出社までの時間を丸々睡眠に充てることを覚悟した猛者たちはさらにお互いを酒で殴り合うことにした。
指定された部屋にぞろぞろ入って、まだ酒に酔いきれてない私がどこに座ろうか思案していると、先輩が「ゆりちゃんこっちに座りな」と手招きした。
カラオケ独特の薄暗さの中、今日の飲み会の生き残りたちがコールで潰し合う中、私たちはコールには応じるがマイクは握らなかった。先輩が私の腰に手を回して引き寄せる。寄りかかると、他人の体温からしか味わえない確かな充足感があった。転勤を仕方ないものだと割り切り、期限付きの田舎生活をやり過ごしている中では決して味わえない温もりと安心感に浸った。本当にこの場所が好きだ。
先輩の手が腰から上に動く。胸を触られるかも、と身体を強張らせた。もう先輩の行動が何を意味しているかは明白だった。なのに私は見ないふりをした。この安心できる居場所を失いたくない。自分が気づかないふりをすれば何も変わらない。これからも今まで通りみんなと一緒にいられる。だから大丈夫。確かに先輩は今まで見たことがないほど酔っていたが、理性は完全には吹っ飛んでいなかったようで、それ以上触ってくることはなかった。
カラオケから出ると、空がうっすら明るくなり始めていた。私はそれでも、あの田舎に帰るまでまだ誰かと一緒に居たかった。次の店でも先輩は隣で寝たふりをしながら相変わらず私の太ももを撫でていた。手がだんだん上に上がってきたからそっと制止して、そのままつないだままにした。さすがに完全に間違えるわけにはいかない。私もこの人も。私、結構いい仕事してるんじゃないかなと考える。先輩の欲を程よく満たして、同時に立場も守ってあげて。本当は自分が満たされた気持ちにしてもらっているだけなのに。
向かいの席に座っていた別の先輩が席を立ったとき、先輩は隣でむくりと起き上がった。眠いとかもう飲めないとか大したことない言葉を少し交わした。互いに一線を越えることはないという信頼のもと感じる人の温かさ。そういうのを味わえるからこの人たちとの酒の席が好きだった。このむさくるしいコミュニティの中にいる数少ない女性の私を、たとえ性的な目で見ていたとしてもそれを私に認識させるようなことはしない人たちだから好きだったのに。
先輩はつないでいた私の手を自分の下半身にあてた。その瞬間、私の中の何かが壊れた音がした。もうだめだ。さすがにこれは取り繕えなかった。驚いて手を引っ込めて、自分でもよくわかんない言い訳を並べた気がする。先輩も「そっか」とかつぶやいて黙った。
向かいの先輩が戻ってきて、少ししてまた席を立ったとき、先輩はさっきのことを謝ってきた。私も酔っててあんま覚えてないから大丈夫です。また媚びてしまう。先輩の立場を守ってあげるという名目で。本当はここで正解を選べばこのコミュニティで必要としてもらえるという下心で。
店を出て、先輩と私は同じ電車に並んで座った。
「私の降りる駅の方が先に着きますけど、先輩の最寄りまで送りましょうか?」
親切のふりをして提案したけど、受け入れてもらえなかったら寂しさで死ぬところだった。まだ誰かと一緒にいたいからとまた縋りついてしまった。
先輩は指を絡ませて、「また一緒に飲もう」と言った。
「私もまた一緒に飲みたいです。いつでも行くんで誘ってください。」
また私は健気でノリのいい、可愛い後輩を演じてしまう。酔っている先輩を軽くあしらっているふりをすることで、何も起こらなかったことにできると信じて、自分から手を握り返すことはしなかった。本当は自分の心を守るために必死だった。ここでこの人に見返りを求めてしまったら、今度こそ取り繕えないくらい傷ついてしまうと判断できる冷静さは残っていた。
「そしたらまた隣に座って。」
手の温もりと対照的に無機質な指輪の感触。
「でもその頃にはゆりちゃんにも彼氏がいるかもね。」
奥さんがいてもそういうことをする先輩にはそんなこと関係ないんじゃない?
先輩の最寄りで一緒に降りて、ホームで別れを告げた。愛着も大好きなみんなとの飲み会もないあの田舎までの電車の中でインスタを開く。先輩の投稿には人生の節目の大切な思い出が美しく記録されていた。結ばれることをお互いに望んだ2人と、彼らの幸福を心から祝ってくれる人たち。本当に美しかった。愛に似てるからと尻尾を振って受け取ったそれは、本物の愛の前ではあまりに惨めなものだった。礼儀正しい後輩として送ったLINEの返信は来なかった。
あの日の出来事は、寂しくて生ぬるいこの町での生活では決して味わうことのない鮮烈な光景として脳裏に焼き付いていて、嫌でも想いを馳せてしまう。いつかこんなものに価値を見出せなくなるくらい満たされる日が来ますようにと願わずにはいられなかった。でも、どうしてもその希望に手が届く未来が見えない。こんな終わりの見えない日々がさらに私を他人に依存させるのだと、また一つ深まった孤独に浸るしかなかった。