東日本大震災 災派活動の舞台裏(後編)空自空輸部隊司令部を支えたプロの流儀
第8回:原子力災害派遣(前編)
3月14日、福島第一原子力発電所の3号機が水素爆発した。指揮所に詰めていた誰もが、指揮所のモニター画面を悲痛な面持ちで見つめていた。このとき、後に事態収拾に向け、1 輸空隊がこれに関わることになるとは誰も想像していなかった。遡ること発災当日の11日、内閣総理大臣は原子力緊急事態宣言を発し、防衛大臣に対して原子力災害派遣を命じた。夜には現地に自衛隊が到着、地上からの冷却作業のため、給水支援が既に始められていた。その3号機に向け陸自のCH-47ヘリコプターが空中散水を行うために放射線のモニタリング飛行を開始する前後のことであっただろうか。指揮所専用に設置された隊司令の電話の呼び出し音が突如鳴った。隊司令専用の回線が使用されたのは、このときが初めてであった。支集団司令官からの電話だとすぐに分かった。隊司令は、受話器をとると、「司令官ですね。はい」と重い口を開いた。続けて、「大型消防車ですか。はい、福島に」と言葉を発した。私は、事故で火災となった航空機の消火並びに乗員救出に使用する大型破壊機救難消防車AMB-3で建屋内部に放水して冷却するのであろうから、必着させなければ、東北関東は人が住めなくなるばかりか、数え切れないほどの人々が避難を余儀なくされるとの最悪の事態を想起した。その瞬間、その任務は自分が引き受けなければならないと直感した。隊司令が受話器を置き、指示をするよりも先に(甚く無礼な振る舞いであったが)、「隊司令、私がやります」といって手を挙げた。手柄を横取りするかのように映ったのか、指揮所内には一瞬険悪な空気が流れた。おそらく、こうした類の任務は、防衛部長が担任するものだとの考えが一般的であるかのような気がしないでもなかったが、幸いにも防衛部長よりも私の方が先任者であったためか、防衛部長も異を唱えることはなかったが、表情は硬かった。隊司令も、けげんな表情を隠せないでいた。私は、 「現地に確実に到着させるためには、いくつか検討をしなくてはなりません。少しばかり時間の猶予を下さい」と念押しするようして決断を迫ると、隊司令は、「分かった。でも、部⾧、急いでくれよ」といい、任せられたので内心ホッとした。というのも、とかく自衛官は勇ましい余りに気持ちがはやりがちで、こうした場合、隊司令が、「消防車を至急出せ」と命じると、直下の基地業務群司令(以下「基群司令」)は、 施設隊⾧に対し、「直ちに消防車を出発させよ」となり、隊⾧は勢いそのままに消防小隊⾧に対し、「今すぐ出発せよ」といった具合に、事前の検討も準備もないままに出立させることになりかねないと懸念したからである。そうなると、途中で車両故障か何かのトラブルに巻き込まれ立ち往生しかねず、元も子もない。また、仮に不安事が生じても、幕僚のわれわれが各級指揮官に口を出すこともはばかれる状況になってしまうことも気がかりであった。そうした諸々の事由をいちいち説明する暇もないまま、人事部⾧は分かってくれているはずと思いつつ、「事務所に戻ります」と声をかけたら、「お前らしくない振る舞いだ」と言い出さんばかりに不機嫌そうな表情であった。
事務室に戻り、施設班⾧らに今から検討する内容を伝えようとした途端、施設班⾧と施設班所属の曹⾧(第2回に登場、職種は消防)が、「部⾧、わしら年寄りに行かせてください。若い者は行かせられない」ともの凄い勢いで訴え出た。これは、決して「若い者は頼りないから任せてはおけない」という意味で言っているのではなく、 「決死の覚悟で行くつもりだな」と瞬時に分かった。ひょっとしたら、家族に事情を説明している余裕などないかもしれないのにと涙があふれ出そうになるのを堪えた。 私は、二人に、「基群司令のところに行って、施設班から人員を出すので、その代わりの勤務者を頼んでくる」といい、その場を立ち去った。基群司令は、「本当にそれでい いのか」と心配をしつつ、「現場も厳しいので、補充にベテランをという訳にはいかないかもしれないが、考えてみるよ」といい、検討や準備作業への協力も約束してくれたのであった。しかし、実際はその後に陸自を中心に編成される予定の原子力災派部隊へ消防車を引き渡すことが任務であると判明した。そこで、私は隊司令への報告後、基群司令に消防車を自走させて輸送をする人選を改めて願い出たのであった。 指揮官は、若い消防小隊⾧に決まったが、こういうときには却ってベテランではない方がいいと考えていたので、安心した。ベテランは経験豊富な故の過信や自己判断が失敗を招く可能性がある一方、若手幹部は指示に従順で、何かあるごとに連絡を必ずしてくるので、そうしたリスクが少ないと経験的に判断していたからであった。
私は、施設班⾧と曹⾧に対し、次のように検討の指示をした。先ず経路について、 「高速自動車道は幸いにも緊急車両の通行優先のため、一般車の通行が禁止されている。従って、走行に支障はないと思うが、例えば東名高速道路は、AMB-3が大きすぎて(全⾧ 11m、全幅 3m、全高約 4m)首都高速道の料金所を通り抜けられないから、 そうした障害がない経路を検討する」こと。次に、燃費と燃料補給の問題であるが、 「想像でしかないが、燃費はリッター当たり数kmと思うが、至急調べてくれ」、「高速道路のサービスエリアのスタンドも営業していないだろうから、おおよそ中間地点に相当する浜松基地には給油支援を頼んでおくが、外気温が低く軽油(引火点は45℃)であるので、トラックに燃料の入ったドラム缶を積み、これを併走させて、都度給油をしつつ走行することが可能か」、先ずは小牧基地から1,000km 以遠まで確実に走破できる方法を、現場と協力して何としてでも見つけるんだと指示したのであった。ドラ ム缶入りの燃料があったのは実に幸運だった。これは、車両や地上器材用の燃料を調達する際に、既に中部地区でも買い占めの現象が起きており、業者がタンクローリー を手配できないでいたことから、やむを得ず、ドラム缶の状態で納入させていたことの偶然が重なったものであった。それほどまでに、大量の燃料を必要とし、工面した予算で、どうにか確保できていた。
当然、道路交通法や火薬取締法などの適用除外の確認であるとかその届出や、静電気による燃料の発火防止の処置などの技術的検討は、後で追って示すつもりでいた。 そうしている間にも、他の基地からは現場に向かうべく次々と出発する状況が容易に想像できたが、焦りはなかった。なぜなら、AMB-3はそもそも基地外道路を、それも1,000km 超の道のりを高速で走破できるように設計されていないはずだと、当初から潜在するリスクを見抜いていたからであった。施設班⾧らに検討をさせている間、 私は浜松基地に燃料補給を依頼した。基地司令は、整備幹部の大先輩で面識はなかったものの、元整備幹部であった(私の術科教育の教官でもあった)人事部長が基地司令の人となりをよく承知していて、どのように電話で頼むのがよいか指南してくれたこともあり、快諾をしてくれた。余談ではあるが、災害派遣終了後の異動で、二人は立川にある航空安全管理隊の隊司令と科長という上司と部下の関係になり、航空安全管理隊の様々な改革に取り組むことになるが、このときの縁がそれを可能とさせたのであった。さて、浜松を候補にしたのは、中間地点よりはかなり手前ではあったものの、そのこと以上に高速道の出入り口から比較的近く、基地までの道路事情も悪くなかったからであった。なぜなら、AMB-3はとにかく大きく、小回りがきかない(最小回転半径約12m)。一般車の通行の妨げとなり、事故を誘発させやすいことに不安を抱いていたのであった。
経路は、料金所での通行不能の問題が発生しない中央自動車道に決まり、浜松での給油支援は事情を説明の上、丁重にお断りした。併走するトラックの荷台には、ドラム缶の底が荷台とが擦れて帯電しないように分厚いゴムマットを敷き、隣り合うドラム缶の間にも板ゴムなどを挟み込み、転倒しない ようベルト類で固縛した。その上で、アースを設置し、静電気による火災の発生を防止した。一番に留意したのは、AMB-3の重量軽減であった。ブレーキの焼き付きやギアの破損などを未然に防止するためで、前進待機する茨城県百里基地で消火用の水(満タン時約11トン)が補給ができるか確認することは勿論のこと、タンク内の燃料も必要最小限に留めた。ブレーキやギアにかかる負担を更に和らげるため、時間を要してしまうが、1 時間走行をしては燃料をドラム式の手回しポンプで都度継ぎ足すという方法を採った。 検討と準備に2時間ほどかかったが、その間に災害派遣用の横断幕も施設隊の大型プリンターを使用して整い、基地総出で出立を見送ることができた。さらに、隊司令の指示で、渉外室が連絡したメディアも駆けつけ、どうにか夕刊の掲載に間に合ったのであった。
第9回:原子力災害派遣(後編)
ところが、検討と準備が平穏に粛々と進められたわけではなかった。これらに時間を割かれ、出立予定時刻などに関する支集団司令部への事前の説明が十分にできていなかったこともあって、支集団司令部からは、「まだなのか」、「遅い」、「急げ」などと、矢のような催促が施設班に押し寄せた。ただでさえ、慌ただしい中、その対応にも追われることになった。正直、支集団司令官からの直接の命令であったこともあって、隊司令は気が気でなかったであろうが、「部⾧、準備はどんな感じだ」、「出発はいつごろになりそうか」と心配するような優しい声かけはあったものの、急かすような発言はなく、われわれは随分と助けられた。
順調に走行し始めたかに見えたAMB-3が突如行き足を止めた。ブレーキの加熱が原因であった。小隊⾧に、「計画どおり慎重に行け」と指導しても、現場は気が急くものであり、叱責などをしても解決につながらないし、却って萎縮してミスをしかねない。私は、パッドの破損やディスクの変形など深刻なダメージがなければ、冷却の時間を置きさえしたら、走行は再開できるはずと静観していた。しかし、支集団司令部の焦りは頂点に達し、バッシングにも似た状況となってわれわれは窮地に追い込まれた。ここにきて、自らも支集団司令部に説明をし、事態の沈静化を図る必要が出てきたと感じたが、支集団司令部装備部長に状況を報告するも、私も感情の高まりを抑えるのに必死であった。そうこうするうちに、小牧のAMB-3 は何もなかったかのように走行を再開、他基地のAMB-3にトラブルが発生した情報が入りはじめたこともあって、事態は次第に沈静化していった。他基地のAMB-3は、消火用の水及び燃料を満載した状態で、急ぐあまり速度が高く計画的に休息をとるようなこともしなかったため、ギアやブレーキの過熱によるトラブル等が次々と発生し、行き足が完全に止まった。恐れていたことが現実となった。
この話を、じ後になって知り、なぜ他部隊に教えてやらなかったのかと佐官にもなって面前で非難する者がいたが、彼は切迫した現場を知らないだけである。仮に、私が他部隊の司令部装備部長あたりに電話をしたら、個人的な強いつながりがなければ、邪魔をするなと言わんばかりに相手は苛立ち、冷静に聞く耳を持ってもらえるはずがない。現に、随分と昔に、航空事故に伴う一斉点検の際、他部隊に、それも自分が以前所属した部隊に本来行うべき正しい点検要領を助言したことがあったが、迷惑がられただけで、誤った点検要領を改めることはなかった。ただこれで諦めたわけではなく、もう一つの部隊にも連絡をし、感謝されたのも事実であったが。何よりも、そんなことをしている暇など全くないことが経験のない彼には分らないだけであり、理解してもらおうとも思わない。ことに臨んでの考え方を教えてあげただけのことなのに、素直に受け止められない者には成長はない。
百里基地までの 1,000km 超の⾧い道のりにおいては、様々な困難が立ちはだかったであろうが、小隊⾧は見事にこれを克服し、まる1日ががりで到着した。小隊⾧からは施設班⾧に、無事に到着した旨の連絡があり、同時に、余ったドラム缶の燃料を百里基地が欲しがっているので許可を頂きたいという伝言が含まれていた。私は、当初からそのつもりであったから、補給班⾧に手続きを確認をした上で、隊司令に受け渡しに支障ない旨を報告後、許可した。百里基地は、福島、東北地区への前進基地として各基地から集結する部隊の給油を行っており、苦しい燃料事情を察して半分ぐらい余る目算を立てていた。言い換えれば、当初からAMB-3と燃料の輸送を同時に行う腹づもりでいたのだ。何よりも、帰りにドラム缶の燃料を積ませたままでは、小隊⾧らも気が休まらないであろうから、こちらから受け渡しをお願いしたいぐらいの気持ちであった。
支集団司令官からは、隊司令に直接ねぎらいう内容の電話があり、隊司令からは、「部⾧のお陰だ。ありがとう」と格別の言葉を頂戴した。しかし、当の私はというと、 実のところ暗澹たる気持ちで一杯であった。たしかに、百里基地から最も遠隔地にあった小牧のAMB-3が、原子力災派部隊の編成に間に合うように、どの部隊よりも真っ先に必達し、百里基地のAMB-3とともに福島の現場に進出したのだから、立派に任務を果たしたことには違いなかった。しかし、この事実は同時にAMB-3が確実に被ばくすることを意味し た。つまり、AMB-3を帰隊させる際には、未知の除染作業とともに、経路とかを改めて検討、準備しなくてはならないが、事態が収拾した後では、高速道は一般車両通行が再開されるとか出発時とは比較にならないほど、困難が立ちはだかるに違いないと密かに覚悟をしたのであった。帰路の輸送を行う際は、被ばく防護を含む安全確保は勿論のこと、 とりわけ細やかな神経を配らなくてはならないのは、地域住民の不安の払拭であると考えた。そのように考えると、浮かれている場合ではなかった。即その場で、私が隊司令に、「司令室で、お話ししたいことがあります」と、やや暗い面持ちで申し出ると、隊司令はやや戸惑った表情を見せつつ、「分かった。部屋で聞こう」と指揮所を後にした。私は、上述の懸念材料をお伝えするとともに、除染作業の検討、必要資材の調達、関係施設の整備等、速やかに取りかかる旨を報告し、了承を得たのであった。
ちょうど、陸自の CH-47 ヘリコプターが空中散水をはじめたころではなかったかと思うが、飛行群司令が指揮所の隊司令のもとを訪れた。災派活動が始まって以来、はじめてのことであったので、何だろうかと誰もが注目した。人事部長は、私に目を大きく見開き目配せをしたものだから、不謹慎であるが、笑いを堪えるのに必死であった。隊司令は、驚きを隠せなかったからなのか、次第に声が大きくなったので状況を理解できた。端的にいえば、 福島空港に緊急空輸を行うクルーから原発の水素爆発による被ばくの可能性を不安視する声が上がり、任務の継続が困難であるという趣旨の直願であった。隊 司令は、少なくとも私の眼にはやや不機嫌な様子に見えた。群司令としての意見なのか、飛行隊⾧周辺の意見なのか、現場の一部の声なのか、正直分からない。福島空港から原発までは50km余り離れてはいるが、放射線の強さ、その影響は目に見えないから、不安が余計に大きくなるのはやむを得ない。私は、隊司令に対して、「携帯用の放射線測定器(サーベイメーター)は、空幕が調達し基地に配分する予定で、基地としても取得を試みていますが、それまでの間、その不安を取り除き任務を継続する 暫定策の一案があります」と発言した。隊司令は、渡りに船とばかり、「部⾧、何 か策があるんだな。聞かせてくれ」と応じ、飛行群司令も私の方を注視した。その一つは、放射線を取り扱う医療従事者が身につける放射線バッジであった。戦闘機部隊では、主翼などの機体構造部の健全性を確かめるために、X線の放射による検査を行うことがあり、整備員の外部被ばくを測定する目的で使用する。輸送機部隊の小牧では検査の所要がなく有していないが、近郊の岐阜基地には岐阜病院並びに各種戦闘機を有する飛行開発実験団があるから、依頼して提供してもらうことは可能と考えたのであった。私は、指揮所の電話から、岐阜病院に連絡し提供を願い出た。岐阜病院は数は多くはないけれど、提供は可能と即座に快諾してくれたが、基地として災派活動を行っている関係で、第2補給処の本部を通じて依頼し直して欲しいとのことであった。第2補給処の指揮所に連絡すると、岐阜病院の了解を既に得ているので、支障なしとの即断であったから、その場で岐阜病院に向かうよう部下に命じた。正直なところ、クルー全員分の数は揃えることはできないから、運航するごとにバッジをクルー間で付け替え、日時や氏名などを記録して後の測定結果から個人の放射線量を推定するというもので、クルーからいえば、気休めでしかないことは十分に承知していた。福島に居住する人々が避難もできないでいる中、一時的にしろ、任務の中断という選択肢は隊司令はもとより、私の頭の中にもなかった。今もう一つは、放射線の防護服(タイベックスーツともいう。)、防塵マスク、ゴーグルであっ た。調達の目処は立っていた。タイベックの素材は不織布で、大気中に浮遊する放射性物質が体に直接付着するのを防ぐ効果しかないので、更には遮蔽機能を有する鉛入りのインナー型のサーベイスーツも調達する計画であった。防塵マスクは、後にパイ ロットの意見を採り入れ、マイクを使用する際、マスクを取り外さなくても済むようマイクの挿入口を工夫して作り込んだ特注品をどうにか形にできたが、⾧時間使用することによるゴーグルの曇りは、幾度となく異なる仕様の物品を試作させては変更してみたものの、なかなか改善しなかった。こうした中、乗員の被ばく防護と同時に航空機の除染作業を優先して検討、準備しなくてはならなくなった。なぜなら、消防車であれば、新車に更新することもあり得るが、航空機の場合、それが叶うはずもないからであった。
第10回:トモダチ作戦
発災当初、福島空港に届けた救援物資の多くがパンを中心とする非常食であったが、 中身にも変化が現れ始めた。東北の3月は、まだ寒い。毛布や使い捨てのカイロなども併せて空輸をしたが、被災した人々は温かい食事を求めるようになった。徐々にではあるが、カップ麺やレトルトのご飯もの、その際に使用する使い捨ての容器や割り箸などが、多くを占めるようになっていった。少しばかり気持ちが和らいでくると、 石けんや歯ブラシと歯磨き粉、タオルなどの身だしなみや入浴時に使用する日用品も含まれるようになっていった。過去の自然災害において、自治体に寄せられた支援物資の中には、使い古した下着などゴミのようなものが紛れ込み、度々問題となったが、小牧基地の現場では荷崩れするとか、中身がしみ出てくるとか、異臭を放つとか、そうしたことに悩まされることはなかった。というのも、後の報道で知ったのであるが、 自治体で弁別を確実に行った上で基地に運び込んでいたからであった。事態終結後、自治体はこれらゴミの処分に大いに悩まされることになった。
この度の震災では、空自の松島基地が救難機やF-2戦闘機を失うなど甚大な被害を受けた。このヘリが1機でも津波の被害から免れることができていたらと思わずにいられなかった。当時の空幕長であったと記憶するが、震災前に松島基地を訪れ講話をした際、海岸線から近いため、地震が発生した際の備えをしておくよう話をしたことを後に部内誌の中で振り返り、口惜しがったが、若い時分に、当時の航空総隊司令官がレディネス点検と称して各部隊に課せられた任務に照らし、所要の準備ができているか総点検を命じ文書による報告とともに、事業化(業務計画要望)等の措置を命じたのとは大きな違いがあるように感じてしまう。以来私は、異動する度に自らにそれを課してきた。それが東日本大震災時に小牧基地で勤務していたというだけのことである。幹部自衛官たる者、常に最悪の事態を想定して予め準備をしておくことは自明の理ではないだろうか。
どうにか松島基地の滑走路が仮復旧されると、福島空港への空輸と並行して基地復旧に向けKC-767による人員・物資の空輸が行われはじめた。しばらくして、1輸空隊員の代表である准曹士先任から松島基地の隊員を励ますために、慰問品を送ってはどうかとの提案があった。私は、防衛部⾧に相談しパイロットやロードマスターの理解、協力も得て、乗員の手荷物と同様に空輸物資の空いた隙間に入る大きさに小分けさえすれば、空輸に支障ないとの了承を得た。慰問品の購入資金は、1輸空隊所属員の寄付によるとして、准曹士先任が隊司令に報告し、私はサポート役を買って出た。先述のとおり、小牧周辺も買い占めによる品不足が既に発生していたため、カップ麺などがあっても、勤務外の時間に幾度も交替で買い出しに行かなくてはならなかった。女性用の品物は、気がつかない点が多々あると考え、監理部の女性隊員に買い出しを頼んだ。基本的には、被災地の人々が求める品物と同じとしながらも、数は十分ではなかったであろうが、筆記具の類も未使用の品を各隊員からかき集めたりして手当たり次第送った。しかし、⾧続きはしなかった。というのも、松島の隊員の気持ちは理解できなくもなかったが、趣向品を求める声が耳に入るようになったからというのが一つ。もう一つは、段ボール箱にはメッセージ入りの寄せ書きや箱の中には准曹士先任からの手紙なども入れたのであったのだが、松島の各隊員の手元にきちんと届いているのか、今一つ反応がなかったからであった。同時に、われわれの疲労もピークに達しており、任務以外に気も回らなくなっていた。
除染作業の対応にも追われる中、新たな問題が発生した。救援物資をパレットに乗せ、そのパレットを輸送機へ積載する作業を指揮する管理隊⾧から指揮所に連絡が入った。応対した補給班⾧は、私に向かって、「パレットが1枚も残っていないそうです」と言った。私は、「パレットがなくなるはずがないじないか。現場は何を言っているんだ」と語気を強めた。補給班⾧は、「私もおかしいと思うんですけど。部⾧、電話を代わってください」と受話器を差し出したので、受け取った。電話を代わるなり、管理隊⾧は、私の声が聞こえていたのだろう。「部⾧、落ち着いて私の話を聞いて下さい」と言うので、黙って聞いた。管理隊⾧によれば、福島空港に物資を運び終わる際、本来なら現場で荷ほどきをして、パレットとネットなどを持ち帰るところ、空港でその作業に当たる人手が不足しているため、パレットに載せた 状態で置いたままで帰投せざるを得なく、次の便で回収すれば良いとクルーは判断していた。しかし、考えていた以上に空港の作業が滞り、物資を空輸しようにもパレットがない状態になったのだという。そんなことは、考えもしない想定外の事態であった。しかし、 私は直ぐに解決策が脳裏に浮かんだので、管理隊⾧には、「苦労をかけて済まない。どうにするから、少し待って欲しい」と伝え、電話を切ると同時に、「ACSA(アクサ)だ」と補給班⾧に向かって言い放った。補給班⾧は、「えっ!?」と戸惑った表情を見せた。
ACSA(Acquisition and Cross-Servicing Agreement の略)とは、米国をはじめとする友好国軍と日本との二国間において物資や役務の相互利用を行う枠組みを定めた協定(物品役務相互提供協定)のことである。米、豪、英、加、仏、印との間で締結済みであり、独・伊とも実質的に合意している。平素は、2か国共同の訓練で利用されることが多いが、同盟国である米軍との間では、有事における燃料や弾薬の提供にも適用できる。これぐらいは、幹部自衛官なら誰もが常識として知っていると思うが、大規模災害への対処にも適用できることを、私は学校で学ぶことも、上司等から教えられることもなく、ずっと以前から新聞報道などを通じて理解していたのであった。
C-130は米国から完成機として輸入した輸送機であるので、パレットは同一の物であるし、C-1でも同じものを使用しているということは、規格が共通で互換性があるに違いない。インターオペラビリティ(interoperability)といい、量的劣勢が避けられない自衛隊にとって、装備品を新規開発、取得に際してきわめて重要となる点である。つまり、ACSAを利用して米空軍から借用するというのが私の発想であった。小牧から地理的に近く、輸送機の部隊がある基地といえば、横田基地(C-130などを有する第374空輸航空団が所在する)しかない。調整先は、最初から横田基地の第5空軍司令部と決めていた。第5空軍司令官(中将、空自の空将に相当)は、在日米軍司令官を兼ねていることもあり、一飛行部隊に過ぎない1輸空隊から第5空軍司令部宛に依頼するのは、いかに国家の緊急時といえど、立場も違う相手に慣例もなく行うわけにはいけないと考えた。そこで、支集団司令部の装備部⾧に直電して第5空軍司令部への調整をお願いした。装備部⾧は、これまで上司と部下の関係で幾度も勤務してお互いによく知る間柄でもあり、米空軍で教官勤務をした実績を有するなど、空自内でも英語能力は傑出していたので、期待は大きかった。ところが、返ってきた言葉は、「そんなことぐらいお前でできるだろう」という予期しないものであった。私は、「分かりました。 やってみます」と苦し紛れに言い、電話を切ろうとする私に、装備部⾧は、「まさかと思うが、小牧の分だけではないだろうな」というので、「分かってます。入間と美保の分も借用するということですね」といい、話を終えた。読者には、つれない対応に見えるかもしれないが、実は支集団装備部⾧の同意を得た上で、他輸空隊の分も含め借用を調整するということは、いわば支集団司令部の指示に基づくのと同じともいえ、私に大義名分と活躍の機会を与えようと意図したものではなかったかと思う。
私は、震災の20年近くも前のことになるが、第1術科学校の学生時に横田基地の輸送機部隊を研修で訪れた際の当時のことを思い起こした。格納庫でドーナッツをご馳走になったこと、青地に黄色の文字で整備補給群と英語表記された帽子をプレゼントされたことなど、たわいもないことであったが、そんな彼らが手を差し伸べないようなことは決してないと、不思議とそういう気持ちになっていた。私は、補給班⾧に、「共同訓練で使用する普段の書式で構わないから、私の職名で、第5空軍司令部宛にファクスで打診してみてくれ」と指示すると同時に、空幕会計課に電話した。というのも、ACSA での物品、役務の提供は有償なので、後日支払いが生じるからである。1時間ほどが経ったであろうか、補給班⾧が慌てた様子で、「部⾧、米軍が必要なパレットの数を聞いています」 と指揮所に入ってきた。私は、返答に困った。事態終結の時期が見通せない以上、この先どれくらいの量が必要になるのか、検討もつかなかったからだ。私は、とっさに「100とでも伝えてくれ」といった。補給班⾧が目の玉を大きくして、「100ですか?」と聞き直すので、私は、「米軍も100は直ぐには準備できないから、当面貸し出して支障のない数を彼らが算定するだろう。時期をみて彼らがわれわれの要請に応えるのに不足を感じたら、グアムあたりからの追送で対応すると思う。100とはそういう意味の数だ。大丈夫、彼らは分かってくれるはず」といい、事務所に向かわせた。その数時間後の夕刻から夜間にかけてであったと記憶するが、横田基地から米空軍の輸送機でパレットが早くも届けられた。こうした柔軟な対応こそが米軍の強みである。自衛隊ならば、あそこを通して調整しろとか、誰の許可はとったかなどと、手続きに時間ばかりを要するに違いない。勿論それだけにとどまらない、後の請求書の金額欄には0と記載され、無償での提供であった。彼らは、実に有り難く心強い存在であり、真の友人だと改めて実感したのであった。
第11回:除染作業(前編)