
雫石事故 真の被告人は誰なのか ② 究明されなかった真実と閉ざされた再審への扉
6 事故調査に至る経緯と裁判の結末
このとき今日のような常設の事故調はなかったため、政府は翌31日、山県昌夫氏(東京大学名誉教授・宇宙開発委員会委員)を委員⾧とする臨時の事故調を発足させた。しかし、実際に調査を行ったのは僅か5名の民間学識経験者であった。構成員は、山県昌夫東京大学名誉教授兼宇宙開発委員会委員、荒木浩東洋大学工学部教授、井戸剛東海大学工学部教授、瀬川貞雄日本航空航務本部本部⾧(元運輸省航空局参事官、後に運輸省管轄下の航空大学学⾧任命)、同副本部⾧後藤安二の計5名である。瀬川・後藤の両委員は運航関係を、荒木・井戸の両委員は機材(機体)関係を、瀬川・後藤の両委員は管制関係を、それぞれ担任した。なお、常設の事故調が発足したのは、「航空事故調査委員会設置法(1973年10月12日)」が制定された翌1974 年1月であった。
自衛隊機については航空法の適用除外となり、運輸大臣の事故調査権限が及ばないと判断したことから、内閣の責任で調査を行うこととした。このため、事務局を総理府の内閣総理大臣官房交通安全対策室に置いたが、実質上は運輸省内に設置され、運輸省航空局事故調査課の協力、更に民間航空会社運航技術部等の実務者を補佐させたのであった。翌1972年7月27日、事故調は1年弱の調査結果として『報告書』を運輸大臣に提出、内容を公表した。後の刑事裁判二審(仙台高裁) で隈教官の弁護人は、『報告書』は自然人によらないもので裁判の証拠採用につ いては無効、刑事裁判での利用は事故の再発防止を目的とする事故調査の趣旨に反し、違法無効と訴えたが、退けられた。そもそも、管制を含む運航関係が中心となる調査に、自衛隊関係者や旧軍関係者等、軍用機の運用に精通した者が入っておらず、事故後に委嘱したのも民間航空関係者や専門家だけ、それも事故調を運輸省内に設置というのでは、こうした影響力を排除し得ず、公正で客観的な事故調査とは言い切れないものがあった。
委員の選考についても恣意的だったかはさておき、人選に問題があったことは確かである。というのも委員の一人であった井戸剛氏(当時東海大学工学部教授)は、事故当日、毎日と読売の座談会に出席しており、その発言は翌日の朝刊に掲載されたが、「今度の事故は、いわば"空の銀座通り"に訓練機が突っ込むという、およそ常識外れの無謀操縦から起こったものだ」とか、「2曹ぐらいの未熟な技術で航空路を横切るなんて冗談じゃないですよ」、「計器飛行をしているところに、有視界飛行の戦闘機がぶつかるなんて、世界にははずかしい事故ですよ」などと、乱暴な発言を連発し、紙面には、「弁明の余地のない防衛庁」、「空の銀座に突っ込むとは常識はずれ、無謀操縦」など、自衛隊を辛辣に批判する見出しの文字が並んだ。このように著しく事実を歪曲し誇張したり、偏見が入り交じった主張を、大衆受けが良いとでも考えたのか、精査もしないで記事にした新聞社の対応に驚かされるが、記事が出た後に委員として選任した運輸省(航空局)の判断も、きちんと説明できるものであったのだろうかと首をかしげたくなる。もっと驚かされることは、この座談会に現職の空幕監察官が出席していたことである。監察官は、「(パイロットの目によるのではなく)機上、地上のレーダーによる機械的な監視体制が必要だ」、「空の特殊権益を確保したいと、それぞれが勝手に考えているんじゃ、問題は解決しない」、 「情勢の変化が、絶えず現実よりアヘッド(進行)している」などと事故の本質を突く問題提起を行ってはいたが、そうした事情は国民には一足飛びに伝わらない。 センセーショナルな発言を繰り返す井戸氏に対して、「民間機優先の立場で、 絶対にこうした事故は繰り返しません」とか、「今度の場合、万全な(安全)対策がとられていなかった」、「今回の事故は、その網の目からこぼれたもので、申し訳ないというほかはない」などと言うだけで、否定や反論もしない。却ってそれが事実であるかのような印象を与えるだけに終わった。座談会の最後には、「今回の事故は、指揮官の飛行管理の問題だ。間の悪いところをなぜ選んだか、(中略)今回のはミスだ。自衛隊の姿勢が悪いわけではない」などとも懸命に述べてはいたが、誰の指示で、何を目的とした出席であったのか疑問は尽きない。
丹羽喬四郎(きようしろう)運輸大臣が、「この事故の原因は、もうはっきりしているのだから、 ぜひ結論を急いでもらいたい」と山県昌夫委員⾧らに要望したことから分かるように、調査の方向性は予め決められていた。事故調による調査結果は、副⾧の記者会見による予断が大きく影響したといえなくもないし、空自の調査結果を織り込む腹づもりでいたとも考えられる。現に事故調は『報告書』の中で、「(松島基地の常設訓練区域としては、横手、月山、米沢、気仙沼および相馬の 5 カ所の空域があったが、)事故当日、教官機と訓練機の2機編隊に割り当てられたのは、横手空域内の北部をその一部として含む臨時空域であった。この臨時空域は、 常設の横手空域を北に拡張し、これを南北に2分した北側の空域であった」として参照図(下図)を記載したが、これは事故4~5 日後運航関係の調査を担当した後藤委員らが松島派遣隊⾧に聞き取りした際に提出された図とともに、「臨時盛岡の空域は、既存の横手空域を北方へ延⾧した三角形の空域で、J11L の西方にあり、その東縁が約9kmの間隔でJ11Lと併行して走っている」と隊⾧が説明したことが元となってい た。

同じころ、8月5日付朝刊記事には、空幕飛行教育班⾧が、「現地(松島派遣 隊)からその件(横手北の訓練空域)について報告を受けている。ジェット・ルートに接して訓練空域を設けたことは違反ではないが、判断に問題があると思う。また航空路、ホワイト32(花巻-秋田間の航空路)上に訓練空域を設定したことは従来の指導(?)に反し、誠に遺憾というほかない」と述べているし、同年12月9日付で事故調に提出された防衛庁防衛局⾧の回答書も部隊の説明と同じであった。しかし、実際には横手、月山、米沢の各訓練空域においてもJ11Lのように名称がつ いた常設のジェット・ルートではないにしても、ジェット・ルートが縦横に通っており、現実にはジェット・ルートと接しない空域など陸地上空には全く存在せず、事実に基づかない空虚な説明であった。こうなると、裁判の証拠として採用された臨時松島派遣隊の訓練準則が、4空団の飛行訓練規則に準じて作成され、ジェット・ルート J11L の両側に片側各5NM(約9km)の 25,000~ 31,000ft の空域を設け、編隊飛行訓練を制限する飛行制限空域と指定をしていたという説明も著しく信ぴょう性を欠き、周知徹底されておらず守られていなかったどころか、 実際には存在せず事故後策定された疑いも生じる。
また、保護空域については、運輸省の「航空管制管理業務処理規定」に は、管制業務上経路に付帯し一定の幅を有する緩衝空間として別途設けられていた。しかし、両側5NMの幅を持つ空域として図示された航空路とは異なり、航空図上では保護空域の記載がなく、ジェット・ルートは単に直線をもって示されていたに過ぎず、幅の概念はなかった。当然のこととして、運輸省航空局が編集する航空路誌や自衛隊機用に防衛庁が発行する航空路図誌にも保護空域の記載はなく、その「航空管制管理業務処理規定」さえも、民間航空と共有する飛行場を有する自衛隊の基地(管制隊)を除けば、防衛庁自衛隊、米軍にも送付されておらず、 法的拘束力は全くないものであった。現に、刑事裁判一審(盛岡地裁)の公判におい て、検事側の証人として出廷した元運輸省航空局管制官の池田郁雄氏は、「ジェ ット・ルートのコース自体は、各パイロットに知らされていたが、保護空域につ いては必ずしも知らされていなかった」と証言したし、後に運輸省航空局管制調査官の一人は、前出の足立東氏による取材に対し、「ジェット・ルートの保護空域は、管制方式基準にだけしかなく、管制間隔の横距離をいうので、計器飛行方式による航空機を対象としているから、それ以外の航空機は拘束されない。この保護空域の範囲は、パイロットとして知っていた方がいいとは思うが、これは管制を行う側の問題(管制官が飛行を承認する際に考慮するもの)であるから、そこまで知っておく必要はないと思う。管制方式基準の保護空域については、航空情報としても提供されていない」と語った。つまり、民間操縦士さえもその存在を知らなかった、保護空域についてはとりわけ侵入をしてならないなどという法律上の義務は全くなく、仮に自衛隊機を含む有視界飛行方式のVFR機が侵入しない方が望ましいとしても周知徹底はもとより、注意のしようもないのが実情であった。
事故調は『報告書』の中で、第一原因として、「教官が訓練空域を逸脱してジェット・ルートJ11の中に入ったことに気づかず、機動隊形の訓練飛行を続行したこと」と結論づけたが、この点は後に詳述する空自の調査結果と奇しくも一致していた。 『報告書』は、その後の刑事裁判でも一審・二審ともに証拠として採用されたことから、この事実関係をもって審理が行われた。かくして、誤った事実認定の影響がもとで、刑事事件の一審判決(1975年3月11日盛岡地裁)では、「全日空の過失を論ずるまでもない」として教官に禁固 4年、訓練生に禁固2年8月の実刑が言い渡された。二審(1978年5月9日仙台高裁判決)では、訓練生は、「上官の命令には絶対服従だった」として無罪が確定したものの、教官の控訴については棄却された。1983年9月の最高裁判決では二審判決を破棄し、隈教官の量刑を減刑したものの、「刑事責任は免れない」として執行猶予3年、禁固3年の有罪を言い渡し刑が確定した。そもそも、訓練空域を逸脱したとするならば、その空域の範囲は明確に示されていなくてはならないが、横手北(三角空域)を除く 5 つの訓練空域そのものが、「対戦闘機戦闘訓練及び曲技飛行空域」としての使用で定められたもので、それ以外の航法訓練などは、東北、関東北部、新潟などの広範に及ぶ陸地上空でや海域上空で行っても差し支えないとの位置づけにあり、 この度の機動隊形での飛行訓練も同様と受け止められていたふしがある。現に、前出の佐藤氏は、自著「自衛隊の『犯罪』雫石事件の真相!」の中で、「操縦学生の訓練課目フルード・フォア(機動隊形)は、いわゆる "曲技飛行"を伴ったものではなく、機動編隊としての基本飛行要領を習得させるの が主眼ですから、立体的で広大な空域が望ましいわけです。したがって、戦闘訓練や曲技飛行を伴う訓練で使用する狭義の訓練空域を束ねて、例えば"横手"とか" 米沢"などという細分化された空域を含んだ拡大空域を使用する。このときの派遣隊でもこのようにして空域を指定していた」と述べている。つまり、他の訓練空域と比べてもかなり狭い三角形の臨時訓練空域では、旋回半径が9キロ前後に及ぶとされる機動隊形の飛行訓練を行おうにも、常に機体を傾け放しの状態で飛行をすることになり、現実的にはあり得ない。
政治の世界には無縁で、実直な隈教官は、(組織を信頼 して)何も言うなとの上司の指示に従い、訓練空域は、『横手北(三角空域)』との供述、証言を繰り返すこととなったが、このことは却って隈教官本人が指定された訓練空域を逸脱し、ジェット・ルートJ11Lないしその近傍(保護空域のこと)に侵入したと自供したかのような誤ったイメージを植えつける皮肉な結末を招いた。これこそが、上司や組織を盲目的に信用しきってしまった代償というべきものであった。理不尽きわまりないことではあるが、 凄惨な事故の当事者を、刑事責任がない(不起訴処分や無罪判決など)との決定を下すことは、国民的理解を得にくい世情にあったとも考えられ、飛行運用の実状なども踏まえられることもなく、被疑者に寄り添うことがない酷な判決となった。その後隈教官は、地元の福岡市でクリーニングや写真現像の取次店などを営んで生計を立てていたが、本人は再審請求を行うこともなく、2005年8月に逝去した(享年61)。常に、「162人もの犠牲者がいますから」と多くを語らず、毎年7月30日前後になると、雫石の慰霊堂に足を運び162名の冥福を祈っていた。隈教官とそのご家族、友人、支援者らの無念、苦悩を想うに憤りを禁じ得ない。冤罪とは、正しくこうした場合のことをいうのだろう。彼もまた、紛れもなく事故、否、事件の被害者であった。信じられないことに、刑事裁判が結審した後の民事訴訟では、防衛庁は手のひらを返したように一転して、「自衛隊機側には、何の 違反行為も認められず」、教官機からの全日空機の視認は、「極めて困難であっ た(過失もない)」とし、「事故の全責任は全日空側にある」との主張を法廷で公然と行った。なぜ当初からそのように反論なり釈明をしなかったのか、隈教官本人やご家族に対する説明はもとより、謝罪さえもないのが実情ではないだろうか。本来であれば、速やかに名誉を回復し、補償も行われてしかるべきではないのか。
7 書き換えられた訓練空域
『報告書』や裁判における防衛庁による説明でも、問題となった訓練空域が事故当日朝にどのように臨時に設定され、教官らに割り当てられたかについては全く言及されなかった。否、都合が悪いので説明をしなかったことの裏返しでもあった。 この訓練空域については、事故関係者は刑事・民事の両裁判の中で、次のとおり 『報告書』とは全く異なる内実を証言した。
・事故当日朝、飛行班⾧補佐のC3佐は、割り当てる予定であった(5カ所の
うちの1つの)訓練空域が 4 空団で使用されることが判明したことから、
臨時に訓練空域を設定することにした。
・C3佐は、飛行班⾧のB3佐に、ジェット・ルートの記載のない100万分の
1 の地図を示して臨時訓練空域「盛岡」の設定を進言し、B3佐は了承し
た。 (この際、飛行制限区域は考慮しなかった。)
・B3佐は、飛行隊⾧A2佐に、「盛岡」の設定を報告し、承認を得た。
(派遣隊⾧は、事故当日不在であった。)
・C3佐は、主任教官D1尉に、「盛岡」の設定を伝達した。
・D1尉は、「盛岡」の正確な位置、範囲を全く確認することなく、(隈1尉
を含む)教官・訓練生に対して、訓練空域を指示した。
(その際も、「盛岡」の具体的位置、範囲を説明せず、特段の注意、指示
を与えることもなかった。)
・隈 1 尉は、「盛岡」との名称から訓練空域は盛岡市を中心とする空域と
考えた。
(ジェット・ルート J11 は盛岡市付近の上空をほぼ南北に通っていると
の曖昧な認識のもとに、その西側で訓練を行えばよいと考えた。)
しかし、当時現役の自衛官であった彼らに真相の全てを語ることを期待するのは望むべくもないことである。現に飛行班⾧補佐C3佐は、「臨時空域(盛岡)がな ぜ三角形の空域のように作図されたのかは分からない」と法廷で証言したのであった。つまり、事故当日設定された臨時空域「盛岡」は、実際のところ、C3佐がブリーフィングルームにあったジェット・ルートの記載がない航空地図を使用して盛岡市を中心に指で示しただけのもので、東は早池峰山付近、西は奥羽山脈まで、北は岩手山の北側から南は花巻市までを含むJ11Lの東西約80km、南北約 50km に拡がる半円形の広大な空域だったということが、事故調査終了後に判明したのであった。
後年、飛行班⾧補佐のC3佐(土橋國宏氏)は、隈教官と航空学生の同期で、事故当時松島派遣隊で同じく教官であった菅正昭氏(故人)とともに、実名を公表した上で、産経新聞の取材に応じた。土橋氏は、「ジェット・ルートが入っていない10年も前の航空路地図を前に、午前中 、当該訓練生の飛行訓練を担当した別の教官に、『このあたりで実施するように』と、盛岡市のあたりを漠然と手の ひらで示しただけだった。ルートの存在はもちろん知っていたが、思い浮かびも しなかった(念頭になかった)。」と証言した。菅氏も、午後の訓練を担当した隈教官への指示に至っては、「オペレーションルームのスケジュールボードに記入された『盛岡』(という地名の記載)だけだった」、「このような指示は日常的に行 われていた」などの実情を語りつつ、「事故直後、私ら2、3人の派遣隊幹部が地図を囲んだ際、『盛岡上空』という漠然とした表現では、ジェット・ルートが 真ん中を走る可能性があることに気付き空幕に報告した。直ぐに空幕から三角空域が図示された作図が送られてきて、『隈に指示したのは、この空域ということにせよ』との命令が伝わった(裏工作の指示があった。)。(スケジュール)ボード上の『盛岡』も『横手北』に書き換えられた」と衝撃の事実を告白したのであった。ちなみに、文脈から、その場には隈教官本人も居合わせていたと思われるが、自身は何も語っていない。両名は、「航空自衛隊独自には調査記録を作らなかったことになっていたが、実は秘密裏に作成されていて、そこには隈機が訓練空域を逸脱して、全日空機に対する後方確認を怠ったとあった」、「ジェット・ルート内とその近傍(保護空域) に訓練機が進入してはいけないという明確な法律は当時はないのに、『民間航空機の聖域を挟んで訓練していた』というマスコミ・世論の批判をかわそうとしていた」、「悪者になったのは隈ら二人だけだった」とも取材陣に語った。つまり、「横手北」なる訓練空域はまるっきりのでっち上げ、完全な作り話だったことが、裁判やその後の関係者による証言で明らかとなったのだ。つまり、空幕は今や空幕⾧となった石川空将の「戦闘訓練や迎撃訓練など厳しい訓練の場合には、コースは指定している」などの先の発言に反しないよう、否、「自衛隊機による民間航空路侵犯」という描かれた筋書に沿った形で、事故後ジェット・ルートJ11Lに接触しない訓練空域として実在しない「横手北」を作り出し、事故の原因は教官操縦士の訓練空域からの逸脱にあると結論づける調査結果を強引にとりまとめたのであった。口裏合せの工作を関係者に強要しただけではなく、隠蔽や偽証、公文書のねつ造や改ざんなども強く疑われる状況であったが、これが明るみに出た時点で社会の関心は既に薄れてしまっており、殊更問題として取り上げられることはなかった。 当然、関係者の中には必死に抵抗を試みた人たちもいたが、強大な権力には逆らえきれなかった。
空自が事故調査したことは今や紛れもない事実である。事故翌日には隈教官並びに訓練生は逮捕、拘留されていた。両名の供述がなく、弁明、不服の申し立てもできない状態で、調査を行い結論付けたということになるが、果たしてそれは公正かつ客観的であるといえるものなのだろうか。こうなると、事故というよりも、むしろ事件であり、本質的には犯罪ですらあったのではないか。事故後菅氏らは、「いったん事が起きたら、個人だけのせいにするのは許せない。こんな官僚的姿勢で国が守れるか」と、隈教官の訴訟費用などを支援する私的団体を結成し、家庭を犠牲にし私財をなげうってまで、同僚である隈教官を支え続けた。言葉はあまり適切ではないかもしれないが、隈教官は守ってもらえるはずの空自に不本意にも裏切られた上、犯人に仕立て上げられたという感じがどうしても拭えない。 なぜなら、教官と訓練生は部隊計画に基づいて飛行訓練に従事していたのだから、 訓練空域が正しく設定されていれば事故は防げたという構図になり、責任はない (免責される)ということになるからである。現に最高裁の判決においても、裁判官は、「航空路に隣接して訓練空域を設定した上に被告人らに特段の説明もなく」、 「杜撰な計画に基づく上官の命令による訓練」であり、「被告人らは訓練命令を拒否できなかった」との見解を示したのであった。事故発生当初は、派遣隊幹部も聴取されたというが、起訴されることはなく、松島派遣隊⾧が停職15日、臨時空域の設定に直接関わった飛行隊⾧が同20日、飛行班⾧が同7日、飛行班⾧補佐が同2日、主任教官が同5日の停職、飛行教育集団司令官と第1航空団司令が減給の行政処分を受けた。ちなみに、空幕⾧石川貫之空将は懲戒処分のうち最も軽い戒告止まりであった。
8 運輸省による事故調査の実態
事故調による調査が、公正かつ客観的であったかという点については、前述した委員の人選や訓練空域の調査を一つとって見ても、そうではなかったことが明ら かである。更に科学的であったか否かについても、管制システムの問題点などを含む運航関係の調査分析については、検証の細部は後述するが、とりわけ空中接触地点であるとか接触前までの相対飛行経路などについては、疑念が生ずる点が多々あり到底承服できるものではない。例えば接触地点に関して、事故調はフライト・データ・レコーダ(「FDR」といい、垂直加速度・指示対気速度・機首磁方位・指示高度を記録する)を解析したとはいうものの、事故現場から370kmも 離れた函館NDBを起点として航跡を遡って推定した粗雑なものを基礎とした上に、 残骸の分布の調査と雫石街付近の風向、風速などの気象情報を基に尾翼の部品(上部方向舵の油圧ポンプ)の落下軌跡を算出したものを加えて推測をするという著しく 正確性を欠くものであった。当時の FDRは現在の最新のデジタル式とは違い、 ロール状の銀色の金属箔テープに機械的に打刻するアナログ式であったから、事故の衝突による影響で打刻が不鮮明だったり、ムラもあった。この点に加え、接触地点を算出する際に使用した残骸が重量物であろうと何であろうと、その部品がいつの時点で機体から離散したのか、その際の高度、機首方位、機速などが明確でなければ、算定しようがないが、それが不明なのだから、信ぴょう性は著しく低いと評価せざるを得ない。また、算出の際に根拠とした気象データも、盛岡気象台、同気象台花巻空港出張所、同気象台雫石気象通報所が事故前後(12時・15時) に地表で観測したものを基に天気図を加え大まかに推測をしたもので、これを専門でもない運航調査の委員が高度ごとに風向、風速、気温を割り出したのであり、誤差が避けられない不正確なものであった。後の裁判でも事故調が推定した接触地点を採用しなかったのは、至極当然のことであり、むしろ接触推定時刻から約20秒後、隈教官が2回目の緊急通信を行った際のTACAN(タカン:Tactical Air Navigation の略。極超短波UHFを用い、航空機からの基地への方位・距離測定を同時に行う戦術航法装置のこと)の位置(「基地から350度、77NM」)から接触位置を推定した方が、より正確であったと考えられる。かくて、事故調による調査結果、すなわち接触地点:北緯39度43分、東経140度58.4分(盛岡市の西北西約15km)の地 点を中心とする東西約1km、南北約1.5km の⾧円内、その中心はジェット・ルー トJ11Lの中心線から西へ約 4km の保護空域内、高度:約25,000ft、衝突時間: 14時2分39秒ごろとの推定は、空自機が臨時訓練空域(実在しない横手北のこ と)から逸脱した印象を決定づける、いわば作為的に導き出したものであったと厳しく指摘せざるを得ない。
その一方で、『報告書』には全日空機の損壊状況に関する調査分析において、推定接触地点について議論の余地を残すかのようにあえて言及をしたとみられる箇所がある。それは、事故現場から回収された無線磁方位指示器 RMI(Radio Magnetic Indicator)に関する調査結果に基づく見解である。RMI にはADF局(NDBを指し示す)と VOR局のどちらに指針を向けるかを選択するスイッチがあるのだが、容易に動く状態にあると前置きしながらも、「(左側機⾧席の)第1スイッチはVOR位置に、第2スイッチはADFにあった」、「超短波航行用第1受信機は、 仙台VORの116.30Mhz を、第2は松島タカン TACANの114.30Mhzを示していた。」 とし、コース指示器(CI:Course Indicator)は、第1及び第2(機⾧・副操縦士)ともに、「方位指針が(ヘディング・カーソル)が205度を示していた」と記していた。磁方位205度は、仙台VORから次の経過点である大子NDBに向かう方位と一致している。これら一連の事実は、飛行経路として予定していた松島NDBではなく、仙台VORに向けて運航していた事実を示唆する内容と受けとれた。もしかすると、調査委員も良心の呵責に苛まれ嘘を突き通せなかったのかもしれない。
後の民事裁判では防衛庁・空自はこの事実に、バッジシステムの解析結果に基づく航跡図などを併せ、58便は仙台VORに向けて飛行していた事実が窺えるとして、一転して58便が飛行経路を逸脱したことが原因との主張を行ったのであった。民事の二審(1989年5月9日東京最高裁判決)では、国の主張は全面的に認められるに至らなかったものの、「飛行経路はJ11Lからは西によっていたと認められるが、国の主張する函館NDBから仙台VORへ向かう線上よりは東側であり、事故調査委員会の認定した図面1の線より西よりの線であったと見るのが妥当である。」と認定したのであった。つまり、接触地点はジェット・ルートJ11Lの保護空域の外側であった事実が半ば認められたのも同然であった。そもそも、58便のクルーが出発時間43分遅れの焦りから、少しでも時間を取り戻そうと近道をしようとしてもおかしくない状況にあったこと、現に58便が事前に提出して承認された飛行計画では飛行高度が 24,000ftであったものの、実際は機体の巡航高度(30,000ft)に近い、高度 28,000ftまで上昇したのは、高速巡航を目指したと考えられること、元全日空機⾧ 神田好武氏『神田機⾧の飛行日誌(イカロス出版)』によれば、事故当時「航空路を無視したり、最大巡航速度(マッハ 0.88)で巡航するなどして、東京大阪間を27分、東京札幌を46分といったスピード記録を競うパイロットもいた」というから、あながちその可能性がないわけではないだろう。
須藤朔(元旧海軍士官操縦員)・阪本太朗『恐怖の空中接触』も、雫石事故後の1976年9月全運輸労組が発表した航空黒書『空の安全を点検する』には、国内航空3社のパイロットに対するアンケートの結果、「多数の民間旅客機が指定ルートから外れ、防衛庁管轄の訓練空域や試験空域へ入っていること」、「ルートを変えて防衛庁管轄空域に入る際に、機⾧がとるべき既定の手続きを知らないパイロットが過半数あったこと」などが記されていると、驚くべき当時の実情を指摘した。また、58便がNDBに基づく航法に依らずVORを選択したと考えられるのは、飛行時間や燃料の節減にもなるショートカットの意図があったと推察される他にも事由がある。NDBは、信号電波の減衰、 夜間・地形等による誤差以外にも、ADF本体にも静電気発生による誤差、類似周 波数の干渉による誤差があり、自機の位置を誤認識する可能性があるにもかかわらず、 誤指示を警報する機能もなかったからで、より信頼性が高く距離測定装置(DME)を併用できるVORを使用し進路を採ったとみてほぼ間違いない。というのも、事故直前の7月3日に発生した、ばんだい号(札幌丘珠空港発函館空港行き東亜国内航空63便YS-11型機)の墜落事故では、精度が低いNDBに頼った航法に起因した自機位置の誤認が事故原因と強く疑われていたから、これが操縦士の心理に大きく影響したと考えられる。つまり、ショートカットを明確に意図しないまでも、 安全をとぅて仙台VORを指向したか、さもなければ事故当時南西又は西南西の風があった影響もあり、気づかないまま(理由は後述する)、ジェット・ルートJ11Lから飛行経路を西側に大きく外れて運航をしてしまっていた可能性が十分にあったことだけは確かである。日常自動車を運転する私たちも、渋滞時に焦って馴れない近道を選択し、そうした場合に限って事故に遭ったりしがちであるが、急いでいるときにこそ遠回りをしてでも安全な道を通行することが重要であり、58便側にも問題(過失)が少なくなかったのではないかと考えせざるを得ない。
仙台VORは、松島NDBの南西約32kmの地点にあり、58便がジェット・ルートJ11L及びその保護空域を外れ、西側の臨時訓練空域(実在しない横手北のこと)側寄りか、同空域内を飛行していた事実は、前出の『恐怖の空中接触』に記された目撃証言や墜落中の58便を撮影した写真、落下傘降下した訓練生の軌跡の推定などに基づく見解を重ね合わせると、概ね事実とみられる。 今や接触地点を特定することは、甚だ困難といわざるを得ないであろうが、現在の技術、器材をもってすれば、岩手県警に残る目撃者証言、散逸してしまった可能性が否定できないものの、撮影者本人の手元ないしその家族、新聞・雑誌社に残る写真、全日空に今も保管されているであろう事故機乗客が機内で進行方向右側の窓から撮影した8mmフィルム(1985年2月刑事裁判後の民事裁判の証拠として提出しようとした際、本来の飛行経路上を航行していれば映り込むはずのない田沢湖が撮影されていると防衛庁から指摘され取り下げた経緯がある。)、これらに当時の気象データと落下傘降下のシミュレーション解析や実地の検証などを加えれば、相応の確度をもって接触地点を推測できるかもしれない。しかしながら、仮に58便が訓練空域内を飛行していたと立証できたとして、再審請求を行うにおいて意義を見出せても、訓練空域そのものが実在しないものであったことから、事故原因と直接結びつけることは殊更意味があるようにも思えない。
その一方で、管制官が飛行を承認した航空機以外の航空機の監視、侵入への警告、排除のための有効な手段は持ち得ておらず、保護空域も名ばかりで管理可能性は全くない 実情にあったことの方が、むしろ大きな問題であって、事故の直接的原因といえる。しかし、信じられないことに、『報告書』にはこれらの具体的検証、分析はなく、「航空路、ジェット・ルートに対するポジティブコントロール(?)の徹底を図るとともに、事故を防止する装置を開発、装備すること」など包括的な表現による提言に留められた。事故当時の運輸省管制レーダーの監視範囲は、羽田と千歳の両空港周辺に限られていたから、飛行承認を与え管制下にあるとはいえども、 航空機がそれ以遠の空域を飛行している際は、航空機からの位置報告であるとか、 針路、速度からその機の現在位置を推測しているに過ぎなかった。これを裏返して表現するなら、当時この空域の航空管制はシステム上飛行安全を保障していたのは、IFR機同士の空中接触やニアミスの回避であって、IFR機とVFR機との間 の事故を防止する機能、能力は有していなかった。しかも、前述したとおり民航パイロットがこれを正しく認識していたかも大きな疑義があったのだ。したが って、『報告書』の中で、「飛行場および施設について、この事故に関連はな い」とたったの一言で済ませ、したがって航空行政にも責任はないと断定するのは明らかに早計な結論であって、管制レーダーやVORなど航空機航法支援のための地上施設の整備が、当該空域を含め大幅に立ち遅れていたこと、すなわち運輸省の管制システムにこそ、最大の背景的要因、否、真の事故原因といっても差し支えない重大な責任があったのである。
同時に、空自も空中接触やニアミス回避の真剣さが足りず、既に設置、運用していた要撃用の管制レーダーを活用すべきであったのに、その着意がなかったともいえる。要撃管制官の本来任務ではなく、教育部隊の学生訓練を支援する余裕はないにしても、指定ルートを外れて訓練空域内を飛行する民航機の状況は把握(モニター)でき、警告を発するなど事前対策は採れたはずであった。現に『恐怖の空中接触』には、航空自衛隊が事故後の1974年1月13日から2月15日にかけて、千歳基地のレーダーによって判明したところによれば、航空3社の千歳に向かう定期便の多数が正規ルートを逸脱して飛行してお り、その中には驚くべきことに千歳基地から100キロの地点で20キロも西側に寄っていたという。つまりは、防衛庁・空自の訓練空域などの安全管理にも過失があったといえるが、これらの言及を避けた点がいかにも日本の事故調査、事件捜査にありがちなケースであった。
そもそも、航空行政の主管である運輸省(航空局) と防衛庁・自衛隊との間で、ジェット・ルートや訓練空域に関して、取り決めがきちんとなされず責任の所在が曖昧であったことにも大きな問題があったのであり、縦割り行政の欠陥ないし縄張り争いに国家を揺るがす重大な危険が潜んでいたといえる。後年、運輸省航空局技術部⾧であった金井洋氏は、産経新聞の取材に対し、「明らかに(全日空機による)衝突だった」とした上で、「全日空機はジェ ット・ルート上を計器飛行方式で飛行していたが、事故当時のように天気が良け れば(有視界飛行方式のVFR機が飛行している状況であれば)見張り義務はあるわ けで、全日空機が自衛隊機を視認していたかも疑問なのに、自衛隊の"クロ"が強調 されすぎた。自衛隊機がルート上とその近傍では注意を払うことは言うまでもな いが、法的に見て全日空機によるルートの占有権などない」との見解を述べつつも、『報告書』と同様に運輸省幹部としての自省の言葉はなかった。日本の空の交通量は1969年度から翌70年度にかけ年率31%増を記録するなど、飛躍的に増大していたが、欧米ではレーダーによる航空管制は普及して久しく、当時の技術と財政事情などに照らし合わせて考えれば、実現困難とは考えられなかった。明らかに政府、行政の怠慢、不作為の罪であった。国に怠慢があると知りながら、権威付けしただけの形式的で表向きの事故調査で個人を陥れたことは、国民への事故の実態隠し以外の何物でもなく、醜悪な作為が透けて見えるとの誹りから決して免れ得ない。
9 CVRは本当に装備していなかったのか
FDRなどの調査についても、次のとおり重大な疑惑がある。『報告書』では、「ユナイテッド・コントロール社製のモデル FA542(製造番号3954)が装備されていたが、これは所定の装着部位(後方乗降口階段近くの右側電気装備品室内胴体ステーション1240)から回収された」とする一方、「コックピット・ボイス・レコー ダ(以下「CVR」)を装備していなかった」と結論付けたからである。しかし、1966(昭和41)年2月4日に発生した全日空(B-727-100)羽田沖墜落事故を受け、1970年 (翌71年1月ともされる。)運輸省航空局は、局⾧通達(空航第7号)による行政指導を行い、1973年3月末までにFDRとCVRを全機に装備することを義務づけ、各社は計画どおり装備を進めていたのであった(1975年7月航空法の一部を改正する法律第58号で改めて義務化)。この事実と明らかに矛盾するものであり、大きな謎である。しかも、事故機のB-727-200 の製造年月日は、局⾧通達に基づくFDR/CVR装備の行政指導があった後の1971年3月2日の最新機であった上に、 米国では1967年1月からFDR/CVRの装備が法律で義務づけられており、事故機がFDRを装備した位置も製造元の米航空局(FAA)の1969年の規定に基づくものであった。つまり、FDRと比較して機能・構造が極めて簡易で安価なCVRが機体の標準仕様や空輸する際の米の法律に反し、かつ、700機余りも製造、世界中で運航されている中(全日空で19機、日本航空で15機を保有)、あえて全日空向けにそれも当機だけに装備しないはずがない。故障もしないCVRが仮に搭載されていなかったのが事実であったとするなら、乗務員組合の反対でもあったためだろうか、使用者側で意図して取り外したと考える以外、つじつまが合わない。今現在でも、米ボーイング社の製造記録やCVR製造元の出荷記録と照合れば、事実関係は直ちに判明するであろうが、CVRが搭載されていたならば、調査が捗ったのは勿論のこと、より正確で詳細な調査ができていたはずある。然るに、事故調は指摘をすべきだったとも考えられる状況にあったにもかかわらず、『報告書』では作為してか、 いわばその種の疑念や議論を断ち切るかのようにして何らの言及をしなかったばかりか、運輸省航空局も通達に反し未装備であったにもかかわらず、その事由も確認をすることさえなく不問としたのであった。
それだけではない。事故調はクルーが会社との間で行った社内交信の記録やフライト・ログなど極めて重要な証拠類の捜索はもとより、提出もさせぬまま未調査で終えた。しかし、前出の『恐怖の空中接触』、 『追突 雫石航空事故の真実』によれば、刑事裁判の一審(盛岡地裁)で検事側の証人として出廷した全日空運航基準部⾧は、若狭社⾧が株主総会の席上、事故の責任は一方的に自衛隊機側にあると公言していたこともあって、「個人的な見解(想 像)ではあるが」との前提ながらも、「政府事故調査委員会の報告書が出るまでは 、 当時の交信内容から考えて(緊急通信の中に自衛隊機のことがでてきていないので)、 事故機の両操縦者は自衛隊機を見ていないと判断していた(訓練生機を視認してい なかったのではないかと推測していた。)。」と証言したのであった。。これは、 『報告書』が公表される以前の発言であるため、社⾧の発言を含め、『報告書』の内容が全日空側に事前に知らされていた(摺り合わせをしていた?)とさえ窺われる状況にあったのだから、不審な点が多すぎて闇深い。「(訓練生機を)見ていた」 という『報告書』の作成に携わった後藤委員でさえも、後の裁判では、「全日空機操縦者は訓練生機を全然見ていなかったのかもしれない」という証言に変わ ったのであったから、尚更であった。こうした経緯もあって、民事裁判一審(東京 地裁)では、「全日空機操縦者らは、接触するまで全く訓練生機を視認していなかった」と推認するに至り、双方の過失責任を認めたのである。
『報告書』最大の疑念は、第二の(事故)原因として、「全日空操縦者にあっては訓練生機を少なくとも 接触約7秒前から視認していたと推定」しながらも、「接触直前まで回避操作が行われなかった」のは、「全日空操縦者が訓練生機と接触すると予測しなかったため」と結論づけた点にある。7秒前から視認していたと推定した根拠は、札幌、松島、新潟の各管制所の交信記録テープに、午後2時2分32秒ごろから同44秒ごろにかけて計8秒間計2回にわたって記録された雑音の分析であった。事故調は、実機による検証の結果、この雑音は操縦輪の左先端の裏側にあるヘッドセットのブーム・マイクの押しボタン型の送信スイッチを操作し た際に発生した、キーイング(空押し)と特定し、これをもって、「機⾧が訓練生機を発見したか、または以前から見えていた訓練生機が予測に反して接近してきため、いずれかの理由によってにわかに緊張し思わず操縦輪を強く握りしめた際、 無意識にボタンを押した」と推察した。その上で、訓練生機の動きが不規則で、 その進路を予測することは難しかった、衝突するとは予想していなかったのではないかとの見解を示したのであった。事故調の見解はもっともらしく、納得させられてしまいやすいが、果たして真相はどうなのだろうか。そもそも、パイロットが通話もせずにマイクの送信ボタンを押し続け、他機の通信を妨げる雑音を平然と発生し続けていたとは考え難い。加えて、数秒以内に他機に後方から追突をすることが予期される緊急事態において、パイロットが前方の相手機が回避してくれることを期待して、漫然と直進飛行をすることは断じてない。筆者は、これまで航空事故関連の記事を空自月刊誌に3年余りに わたり連載した経歴も有するが、そのような空中接触の事故を見聞きしたことがなく、むしろ回避操作に伴う機体の急激な姿勢変化で、乗客乗員が受傷した事故の数々に接しているだけに、事故調のこの見解はにわかに信じがたい。
また衝突時間を、事故調の見解どおり午後2時2分39秒とすれば、その約9秒後の同2分48秒ごろに、58便機⾧の「Emergency」という音声が、ついで同53秒ごろに絶叫と受けとれる解読不能の音声が、それぞれ記録されていたと事故調は公表した。しかし、付近を飛行していた全日空61便、東亜国内航空114便、同212便、 同102便の各乗務員らは、「All Nippon, Unable to control ......(全日空機、操縦不能)」という叫び声だったと明確に異なる証言をしていた。後に音信テープは科学 技術庁航空宇宙研究で音声分析も行われたものの、『報告書』ではこうした事故原因の究明に有用な事実をあえて無視した。それはなぜなのだろうか。仮に事故調の推察どおり、58便のクルーが訓練生機を衝突以前から視認していたとすると、「All Nippon, Unable to control...」という叫び声は、極めて不自然である。というのも、操縦不能は衝突の結果じ後に起きた事象に伴って生じた事態であり、 接近の危険性に慌てるような発声だったり、「コリジョン:Collision!」などと接触した状況を伝える言葉でもなかったからである。緊急時、それも国内便であったから、日本語でも差し支えなかったと考えられ、そうではなかった事実から推 察される状況は、58便のクルーは訓練生機を全く視認できておらず、何が起きたのか、衝撃が接触によるものだとも(おそらく最期まで)分かっていなかったと推認せざるを得ない。逆に、機長の第一声が実際には、「All Nippon, Unable to control......(全日空機、操縦不能)」であったにもかかわらず、事故調が、絶叫とも受け取れる叫び声であったごまかさなければ、事故の筋書、シナリオが崩れてしまうのであった。
さらに、事故調が「送信ボタンの空押しは衝突以前であり、かつ、 接触7秒前に訓練機を視認した」と推定したことは著しく根拠を欠いた都合の良い想像ないし希望でしかなく、むしろ衝突後であった可能性が高い。なぜなら、事故調は送信ボタンの空押しによる雑音が0.6秒間中断したという事実だけをもって、「機体の姿勢(アンテナ角度)の変化にもとづくものとは考えられない」、「訓練機が全日空機を通過することによって生じた可能性が大きい」と強引に決めつけ、接触時刻を14時2分39秒ごろと推測したが、雑音の中断は、接触の衝撃か何かで機⾧の指が一時的に緩んだり、操縦輪を握り直す際に少しズレただけでも、そうした事象は容易に発生し得るし、既に接触した後で飛散した残骸が58便の胴体下部のアンテナと札幌管制区管制所との間を遮って送信が中断したとも十分に考えられる。当然のことながら、事故調はこうした事実に気付きながら、人々の関心が及ばず、58便側の責任追及にならないような範囲での調査に終始し、 『報告書』をとりまとめたと糾弾せざるを得ない。ちなみに、民事一審の東京地裁判決では、全日空機が訓練生機を「接触するまで全く視認していなかった」と明確に判示したが、二審の東京高裁においては、「全く視認していなかったという可能性を推認するにはやはり躊躇せざるを得ない」としつつも、「視認していなかったのではないかの疑いを払拭することはできない」との判断を示した。
ではなぜ、58便のクルーは3名も乗務しながら、それも見張りがきわめて容易な自動操縦中に、それも機首前方の他機を視認できなかったのか、どのような状況であったと推察できるのか、またそう指摘し得る根拠は何なのか次項で明らかにしたい。
10 調査されなかった事故の真相
追突時、58便の操縦室内の状況がどのようなものであったかを知るには、FDRとともにCVRの解析が最も有効である。なぜなら、コックピット内の周辺音を含め、 クルーの会話が全て記録されているからである。しかし、事故調は、「CVRは装備されていなかった」としたことは前述したとおりであるが、裏返していうなら ば、CVRが搭載されていたとしたならば、全日空、ひいては運輸省にとっても都合が悪い会話などが録音されており、事故調は装備されていなかったとするしかなかったのではないだろうか。というのも、後の民事訴訟の二審(東京高裁)でも、「千歳滞在時間が短かったので、飛行中に機⾧らが食事をした可能性のあることは認められるが、だからといって、本件接触時にそろって食事中であったと推定する根拠もない」と機⾧らが食事中であった可能性などを示唆したとおり、本来その点について調査、捜査を尽くすべきであった。あえてそれをしなかった調査、捜査の実態は、 未必の故意ともいうべき確信犯だとの批判も免れないものであり、信頼するに値 しない。58便は、かねてから、「操縦中に操縦席で食事をしなくてもすむように、 千歳での休憩時間を延⾧して欲しい」、「ダイヤを組み替えて欲しい」と全日空乗務員組合から会社に要望が出され、運輸省航空局も知っていた事実は、須藤朔『ジェット・ルート J11L 全日空・自衛隊機空中接触事故の真相』や須藤朔・阪本太朗『恐怖の空中接触』、足立東『追突-雫石事故の真実』などで明らかにされている。当然のことながら、運輸省も不安全な運航スケジュールを認可した監督責任が問われる。
事故当日、58便が地上滑走を開始した時刻は13時25分、前の57便としての千歳到着時間は45分遅れだった上に、そもそも駐機の予定時間が35分と短かったから(当時日本航空では55分間)、地上勤務員との連絡調整などに要する時間を踏まえれば、トイレ休憩もままならないほどの短さで、58便のクルーが運航中に食事をとったとみて間違いない。現に、事故後2年近くが経った1973年4月(ないし75年3月)にもなって、全日空は千歳での駐機時間を(目立た ないように)50分間に改めたことからも容易に想像がつく。食事自体は特段運航に支障があるとは言い切れないが、問題なのはその食事の時間帯と食事のとり方にある。離陸上昇時や下降着陸時に食事をとることは常識的になく、運航時間が⾧い国際便では自動操縦中に行うのが通例である。58便の場合、 自動操縦に切り替えた後、松島NDBまでの水平定常飛行中に食事をする他なく、函館NDB上空から雫石上空の衝突地点まで僅か16分の飛行時間であったことから換算すると、食事にかけられる時間は30分もなかったと考えられる。自動操縦に切り替えた後に衝突するまでは12分間余りしかなかったことから、普段であれば機⾧が食事を終え、交代で副操縦士が食事を始めようとしているところに事故に遭ったということになろうが、この度のフライトの場合、既に14時が過ぎようとしており、とうに食事時間も過ぎていたから空腹に耐えかね、機⾧と副操縦士の食事やらトイレ休憩が同時に行われていた可能性さえも十分に考え得る状況にあった。この間に、いずれか一方がトイレ休憩で操縦席を離れていたら、訓練生機を視認していなかった可能性はより高いものとなる。仮に、CVRが搭載されていないとしたならば、そうした点を調査する方法が他にあったとすれば、遺体の解剖において胃の中の内容物の(消化)状態を分析することであった。しかし、欧米の事故調査では、ICAO(国際民間航空機関)の事故調査マニュアルに基づき当然のように遺体の解剖を行っているところ、事故調がこれをやらなかっただけでなく、警察も司法解剖をしなかったという非常識さにメディアも見過ごし、 国民も関心を持つに至らなかった。当時の新聞報道などによれば操縦士らは地面に激突して大破した機首の中で発見され、後述する操縦室内の写真の様子などから、遺体が解剖できないほどの損傷状態にあったとも考え難かった。こうしたコックピット内の状況を単なる憶測や想像ではなく、考証で導き出すとすれば次の二つの事実を関連づけ無理なく結論を導き出すことができる。
一つ目は、既述した各管制所の交信記録テープに遺された、約8秒間にわたるマイクボタンのキーイング(空押し)である。筆者は、事故調の見解とは全く異なり、原因不明の異常事態の発生に機⾧らは慌てて通話を試みようとしたか何かで、かろうじて操縦輪のマイクボタンは押せたものの、次のような状況下にあったため、ヘッドセットを手元に引き寄せ装着することができず、マイクを口元に近づけられなかったことで当該事象が発生したと推察する。状況はこうである。追突の衝撃で自動操縦が解除され機体は激しく揺れた。この際、食事中ないし休憩中であったため、シートベルトを緩めヘッドセットは外していた。機体の激しい揺れとともに体は大きく揺さぶられ物も散乱、その直後に機首下げが発生、ほぼ同時にマイナスGが発生し体が座席から浮き上がったのであるから、ヘッドセットを装着してマイクを口元に近づけることは容易ではない。ヘッドセットが外された状態であれば、 マイクボタンの空押しの際に雑音以外に音が収録されていなかった事実とも矛盾しない。 このとき、浮き上がる体を必死に堪えようとしたか、機体を引き起こそうとしたか、操縦輪を強く握りしめた際、無意識のうちにマイクボタンを押してしまったと考察することの方が、事故調の推測、否、根拠のない憶測よりもはるかに自然で無理がない。現に衝突後急降下した際も、スロットルに手が届かなかったのであろう、FDRの解析からエンジン出力を下げる操作も行われていなかったことが判明している。
更にこの点の裏付けを補強するものとしては、 前出の須藤朔氏本人が直に見て確認したと思われる岩手県警の捜査資料にあったクルーの遺体並びに操縦室内の写真である。『ジェット・ルート J11L全日空・ 自衛隊機空中接触事故の真相』では、機⾧は右手に機内通信電話のらせん状になっていて伸び縮みするコードを握った状態で、副操縦士は操縦席に座ったままで絶命していた事実に加え、副操縦士の後ろには機関士と思われる人物の遺体が、 (前向きに)腰掛けた姿で写っていたと記している。B-727の操縦室には左側に位置する機⾧席の後方にしか(機関士用の)前向きの座席がないので、副操縦士が機⾧席に座り操縦を行い、機⾧が右側の副操縦士席に座り、通信を担っていたとみて間 違いない。機⾧はシートベルトを外しており、操縦席から離れた状態で遺体が発見されたように思われる。前出の佐藤守氏は、空幕の広報室⾧時代に、某全国紙の編集員が、「機⾧とスチュワーデスは、圧迫死体となって発見された」と教えてくれたことがあったと記した。機⾧が右手に握っていたコードについても、雫石町が1973年7月30日に発行した「全日空機遭難事故記録・・・三周忌にあたり」 に収録された雫石病院内科勤務(当時)の中村悦子さんによって書かれた記事を引用し、「機⾧の遺体に接した。ひどい姿でした。右手 にしっかり握っていた 20 セン チあまりのコードが、今でも目に浮かびます。墜落の直前握っていたマイクの コードだったのでしょう。そのとき、私は、そのコードから、機⾧が最期に発し た緊急連絡と"操縦不能"の悲痛な声が聞こえるような気がして・・・」と記してある と指摘している。機⾧と副操縦士が午前の便に引き続き、なぜ互いに席を入れ替え、副操縦士が操縦していたかについての問題はここではさておき、事故発生時に管制交信の記録された音声が(操縦中であるはずの)機⾧の声だった (機外通信を担っているはずの副操縦士の声ではなかった)ことも、これで説明がつく。
本来握りしめる必要がないヘッドセットのコードが遺体の右手の中にあったということは、とっさに(副操縦士席右手のフックに引っ掛けた)ヘッドセットを装着すべく手元に近いコード部分を握りしめ手に取ろうとたものの、ヘッドセットをしっかりと頭に装着するに至らなかったか、地上にたたきつけられた際、ヘッドセットが外れ、強く握りしめていたコードだけが本体から引きちぎられたか、 死後硬直により手の中に残ったと考察するのが道理に合う。しかし、なぜヘッドセットを外していたのか、どうして直ぐさま手に取り装着することができなかったかを深堀する必要がある。通常飲み物を口にする場合は、ヘッドセットを装着したまま、マイクをずらすだけで済む。しかし、食事となれば、プレート上にまとめて置かれるか、弁当などの形で出されるので、膝元に置くしかない。そうすると、誤って操縦輪に触れたりすれば自動操縦が解除されてしまうことに加え、 注意して食事するにも窮屈であることから座席を後方にスライドさせる。この際、ヘッドセットのコードは幾分か伸びるものの、それほど⾧くなく食事の邪魔にもなるため、コックピット右前方のフックに引っかけるような状態で置く。緊急事態発生時、操縦は副操縦士が行っていた手前、通信担当は機⾧であったが、機⾧は食事中か休憩中で、ヘッドセットを外しシートベルトもしていなかったので、 慌てて操縦輪裏のボタンを押して送信しようにも、ヘッドセットを思うように装着できずマイクを口元に近づけることができなかったと考えると全て合点がいく。そうであれば食事中又は休憩中ということもあり、視点は下に向きやすく、座席 をスライドさせていれば視界も前方の計器板に遮られ、当然のことながら遠方の航空機を早期に発見することは容易ではない。管制との交信テープに記録された、機⾧の2回にわたる「Emergency」の声は、接触したと推定される時刻から約9秒後の14時2分50秒ごろ、雑音が解消されたと同時であったこと(このとき隈教官も1回目の緊急通信:Emergencyのコールを行っていた。)とも何ら矛盾するところはない。
なお、副操縦士が午前の便に引き続き機⾧に代わり操縦を行っていたことは、結果として事故原因に直接結びつく可能性が低かったにして も、本来ならば調査を尽くさなければならない点であったが、『報告書』にはただの一言も記述がない。事故発生当初から、副操縦士が操縦を行っていたことが表ざたとなれば、ご遺族の反応も大きく異なったに違いなく、御巣鷹山墜落事故がまさにそうであった。事故調は、こうした点も国交省幹部の天下り先である全日空に過度に配慮していたといえよう。機⾧は、事故発生の約2か月前の1971年6月7日、 B727機⾧の発令とともに、東京-札幌線に係わる機⾧の路線資格を付与されたば かりで、B727の飛行時間が242時間5分であったのに対し、副操縦士は事故発生の約1年前の1970年8月17日にB727の副操縦士に発令され、飛行時間が624時間50分であった。つまり、B727の(計器飛行での)操縦経験が上回っていたことなどが事由として考えられるが、いち早く一人前の機⾧に育ててやりたい との想いも別にあったかもしれない。しかしながら、午前の便で事故と同じ空域において空自機とニアミスを起こしていた事実を踏まえれば、機⾧が操縦を副操縦士に任せっきりにした上に、更には自動操縦中の食事という一時の気の緩みが、事故を誘引する一因となったという可能性に考えが及ぶのも致し方ないところではないだろうか。ただ、これらが仮に事実であったにしても、食事をしていたという理由のみで彼らだけに全ての責任を負わせることも適当ではないだろう。
今ひとつ極めて興味深いことは、須藤氏が記したとおり、1972年3月29日付朝日朝刊や週刊誌などが、(58便の)機⾧らしい声で、「『エマージェンシー』が数回繰り返し発信された2秒後に、『避けろ』といったような言葉をいい、続いて、『こっちへ来る』という絶叫があった」と報じたことである。当時、これら の記事は出所不明なガセネタと思われ、深追いもされぬまま、いつしか人々の記憶から忘れ去られてしまった。しかし、この種の操縦室内でのやりとりの声は管制との間でのやり取りではなく交信テープにも記録されない、機内の会話であることから、58便にはCVRが搭載されていた事実を十分に窺わせるものとして重要な意味を有する。須藤氏は、まだ当時NHKの記者だった柳田邦男氏が、月刊誌『諸君(1972年7月号)』に寄せた記事「初歩・記者学入門」の中で、「記事が報道された前日の事故調査委員会の席で、教官隈1尉が、2分48秒から『エマージェンシー』と3回叫び、53秒ごろ(58便の)機⾧が『回転!(あまり明瞭ではない) こっちに来るぞ!(かなりはっきりしている)』と叫んでいたことが議題となったと記述している」と記していることから、搭載されていたCVRには操縦室内のクルーの音声とともに事故の衝撃音などがしっかりと録音され、分析もされていた可能性が極めて高いと考えられる。ここでも、全日空クルーは空自機を視認していなかったことは明らかで、衝突の衝撃で異常事態の発生を知り、直後訓練生機が衝突の衝撃で再び全日空機に接触したか、共に墜落してく際に、『回転!』又は『避けろ』、『こっちに来るぞ!』と叫んだとするとつじつまが合う。いずれにしても、こうした音声記録の存在は、『報告書』でも岩手県警での捜査資料にも一切言及がなく、こちらも隠ぺいや公文書改ざんが強く疑われる。これ以上深掘りするつもりはないが、仮にこれらが真実であったとしたならば、雫石事故の真相は従来語られ伝えられていたイメージとは全く異なり、事件ないし犯罪と呼ぶに相応しいことになる。 (③に続く)